大臣論  上
 
 義を以て主君を正し、しかも国に害を及ぼさない。そのような人間こそ「大臣」と言える。 

 天下不幸にして名君が居らず、小人に実権が握られている。このような時、天下の忠臣義士ならば、臂を奮って奸臣を撃とうと思わずにはいられない。だが、小人達は、まず最初に主君の信頼を得て、自分の地位を固めてしまう。だから、法に従っている限り、攻撃のしようがない。彼等を攻撃するには、非合法の挙兵のみ。いわゆる、「君側の奸を撃つ」とゆう奴だ。
 これを攻撃して、もしも敗北したならば、処刑される。だが、その禍は我が身一つに留まるに過ぎない。これに対して、もしも勝ったなら、君臣の間がギクシャクとしてしまい、結局は国が滅んでしまう。
 だから、「春秋」の法では、主君の命令を受けずに君側の奸を撃つ行為を、一律に「叛」と称するのだ。晋の趙鞅が晋陽へ入ったことを「叛」と記載したことなどは、これの実例である。
 君子が天下に志を持ち、衰退した国を扶け国家の危機を救おうとしたならば、彼等はまず将来のことを考え、その上で為すべき事を為して行く。結果として国を救えるか否かは天命だ。だからこそ、彼等が成功すれば、天下は安泰になるのである。 

 今、小人がいる。君主はそれを誅殺しないのに、吾がこれを誅すれば、これは主君の権を犯すことになる。そうなれば、功績を建てたといって殊勲者の地位にふんぞり返ることはできない。彼は既に主君の権を犯したのだ。そんな人間が北面して人臣の地位に就いていて、主君から疑われなかった試しなど、未だかって有りはしない。
 国家に小人が居るとゆうのは、喩えてみるなら人の体に腫瘍ができたようなものだ。腫瘍が首や喉にできたならば、これを取り除くことはできない。賤しい丈夫が憤懣に勝てずに、決起してこれを取り除けば、病気はなくなるかも知れないが、当人も死んでしまうではないか。漢が亡び唐が滅んだのも、全てこれが原因である。 

 後漢の桓帝や霊帝から献帝へ至るまで、天下の権は全て宦官の手中に落ち、賢人君子は進んでは朝廷に容れられず、退いても野に容れられなかった。天下の怒りは、ここに極まったと言うべきである。この時、議者は、「天下の患はただ宦官のみにある」と考えた。「宦官さえ取り除いたら、天下は安泰なのだ、」と。そうして、竇武や何進は決起してこれを攻撃したが、敗北した。だが、彼等は本人が殺されたに過ぎない。袁紹がこれを攻撃して勝ってしまった為に、後漢は滅亡してしまったのだ。
 唐が衰退した時も、その経緯は似たり寄ったりである。輔国や元振の後、天子の廃立は宦官の手に依った。この時、士大夫の論は、宦官を取り除こうと言い合うばかり。そして、李訓、鄭注、元載といった輩がこれを攻撃して敗北したが、彼等はただ本人が死んだだけ。崔昌遐がこれを攻撃して勝ったら、唐は滅んでしまったのだ。
 この宦官が蔓延っている間は、彼等は単なる腫瘍に過ぎなかった。だが、彼等が取り除かれてしまうや、その身は引き裂かれ大出血して、結局は死んでしまったのである。
 それは何故だろうか?
 これは他でもない、主君の権を侵害した人間は、殊勲者の地位に留まることができないからだ。それに、人臣となって主君を顧みず、自分の命を賭けて天下の望みを達成する。これもまた、危険なことではないか。
 だから、彼等が成功したら、袁紹や崔昌遐となってしまうし、失敗したら竇武や何進や李訓、鄭注となってしまうのだ。それならば、忠臣義士は、そのような行動をとるべきなのか?
 ああ、竇武や何進の滅亡は、天下の人々が皆、これを悲しみ、国家の不幸と嘆いた。だが、幸いにして彼等が成功していたならば、彼等は一体どんな地位にいられたというのか? 

 だからこそ、言うのだ。義を以て主君を正し、しかも国に害を及ぼさない。そのような人間こそ「大臣」と言えるのだ、と。 

  

  

 大臣論  下 

  

 既に述べたように、天下の権を小人が握っている時、君子がこれを撃とうとすれば、その身を滅ぼしてしまうか、そうでなければ国を滅ぼしてしまう。それならば、小人を取り除くことは絶対にできないのだろうか?
 これに対しては、こう言おう。
「追う者の智恵は浅く、追われる者の智恵は深い。」と。つまり、才能が違うのではなく、両者の置かれた立場が違うのだ。
 昔の戦上手は、敵を完全包囲しなかったし、追い詰められた敵を追撃しなかった。彼等が死地に追い込まれて死力を奮ったら、大軍と雖も手の施しようがないからだ。
 よく言うではないか。
「同じ舟に乗って大風にあったら、呉人と越人でも左右の手のように助け合う。」と。 

 小人達は、自分たちが天下の怨みの的であることを知っている。しかも君子達は自分を赦そうとしない。それならば、彼等は日夜肝胆を尽くして計略を練り、卒然として巻き起こる不測の患いに備えようとするに決まっている。それに対して君子達も彼等を深く憎む。だから、陰謀はますます深くなる。こうして互いに容赦ないまでに陰険になって毒へ至り、その忿戻は解くことができなくなるのだ。
 これで判るように、おおよそ天下の禍とゆうものは、小人が発端になっているが、君子がそれを助長させるのである。
 小人が内にあり、君子が外にいる。君子が客となり、小人が主となる。主が動かないうちに客が機先を制すると、小人達へ大義名分の言い訳を与えることとなり、君子達の立場は不順となる。大義名分が立てば大衆を騙すことができるし、不順ならば天下へ号令をかけにくい。だから、昔の決起者達は常に志半ばで皆から見捨てられ、結局敗北してしまう。この理は、なんと明々白々ではないか。
 だが、智恵者達はそんな羽目には陥らない。内は君子達との交遊を固くし、大勢の同志をかき集める。そして上辺は浮薄な人間を装って、小人の意向に迎合する。そうやって、小人達の分裂を誘うのである。
 寛大な対応で自分たちが無害であると思わせ、我等のことを考慮の外へ置かせる。そして、油断した小人達へ利を啖わせて奴等の智恵を目眩ませ、尊大になったところへあれこれと吹聴して仲間割れをさせて、互いに争わせる。こうして彼等の派閥争いが激化して闘争になった頃合いを見計らい、その隙を突いて一気に根絶やしにさせるのである。
 このやり方だと、こちらは総力を挙げずに済むから後患がないし、連中の内紛が先に起こるのだから主君の怒りを買わずに済んで、疑われない。このようにやれば、功成って天下が安んじるのである。
 今、小人達を急激に弾劾すると奴等は結託するし、寛大に対処すると離間する。これは、昔からの真理である。
 利益を見れば争わざるを得ないし、艱難に遭えば避けざるを得ないし、信頼がなければ欺き合うを得ないし、礼がなければ冒涜しあわざるを得ない。だから、小人達は離間しやすく、その党は破りやすい。それなのに、君子が寛大に接して奴等を離間しようとせずに、急激に弾劾して結託させあうとゆうのは、過ちである。
 君子と小人が雑居して優劣がつかない時、君子の取るべき手段は、彼等と深く交わって何もしないのが一番である。それができなければ、小人達は我等の隙を狙って蹴落とそうとする。 

 昔、漢の高祖が崩御した後、天下の事は陳平と周勃が宰領した。しかし、呂后が朝廷に臨むや、諸呂が幅を利かせて劉氏を次々と陥れていった。この時、陳平と周勃は日夜酒にひたるだけで一言も言わなかったが、陸賈の計略を用いて千金をはたいて絳侯と交わりを結び、遂に諸呂を誅して劉氏の世を定めたのである。
 この二人が手を組むことができずに、将軍と宰相で互いに主導権争いをしていたならば、どうして劉・呂の存亡に関わることができようか!
 この結果から、次のように言える。
 将軍と宰相が手を結べば、士は挙って彼等に付き従う。士が一つに纏まったならば、天下に変事が起こっても、権は分裂しないのだ。
 ああ、これを知っておれば、大臣と言うに足りるだろう。 

  

(訳者、曰) 

 この論文を書いた時、蘇東坡の念頭に「新法派」があったのだろうか?王安石はともかく、彼が抜擢した官吏達は、高い理想も持たずに出世だけに燃える小人揃いだったと聞く。もっとも、「旧法派」にしても、新法を憎む余り既に社会に根付いた制度も全て破棄して、社会に大きな混乱を生じさせたのだから、大した人間とは思えないが。(あれだけの著作を書いた司馬光が、その急先鋒だったのだから、何か割り切れない気もする。この時の進退では、蘇東坡を最も尊敬します。)それとも、宦官の事だけしか考えていなかったのだろうか? 

 ところで、身近な例では、日本の官僚はどうだろうか? 
 小人は利に走る。彼等が賄賂を貪ることを考えるなら、立派な小人だ。だが、彼等は絶対に先輩を売らない。喩えその身が不利になっても、必ず省益を優先させ、又、そのような官吏は見捨てられることがない。そして各省は争うこともあるが、概ね自分達の既得権益を守ることを優先させるので、互いに相手の既得権へは殆ど突っ込まない。
 自分が出世する為に、現在のトップを陥れようと謀る人間が大勢居てこそ全ての人間が疑心暗鬼に駆られて、離間もし易くなるのだ。互いに権力を拡張しようと欲して奪い合うから派閥の分裂が激化するのだ。「小人達は離間しやすく、その党は破りやすい。」とはこの事である。だが、彼等は絶対にそのようなことを行わない。何と、信義篤く、節義正しく、礼の行われていることだろうか。かつて、盗跖の言った「仁・義・智・信の四徳を持たずして大盗賊となれた者はいない」(荘子)とは、この事だ。
 そもそも、目先の怠惰に流れて将来を考えない人間は、勉学など絶対にできない。逆に、学業の成績が良い人間は、将来の為に今の辛苦を忍ぶことのできる人間である。今の高級官僚達は、皆、東大を出ている。それならば、その長所は推して知れる。このような誘い水に乗って組織そのものを崩したら、甘い汁が吸えないことくらい知悉しているに決まっているし、その為に今を犠牲にすることのできる人間なのだ。
 ああ、無知無教養な昔の宦官達と比べて、今の高級官僚とゆう連中は、何と有能な人材の揃っていることか!