代宗皇帝   政治制度
 
 廣徳元年(763)五月丁卯、河北諸州を分割すると、制が降った。
 幽、莫、為(「女/為」)、檀、平、薊を幽州の管轄とし、恒、定、趙、深、易を成徳軍の、相、貝、ケイ、名を相州の、魏、博、徳を魏州の、滄、棣、冀、瀛を青シの、懐、衞、河陽を沢路の管轄とする。 

 六月癸酉、禮部侍郎の華陰の楊綰が上疏した。その大意は、
「昔は、士を選ぶときに、行動を観ました。近世では文辞ばかりを尚んでいます。隋の煬帝が始めて進士科を置いたときには、まだ試策のみしかありませんでした。高宗の時にいたって、考功員外郎劉思立が始めて進士へ雑文、明経を加えました。これによって弊害が積み重なり、いつの間にかそれが当然のことになってしまいました。朝廷の公卿は、これをもとに士を選別し、家の長老はこれを以て子へ訓えますが、その明経とゆうのは、経典を丸暗記して僥倖を求めるだけです。また、挙人は皆投牒にてこれに応じています。このようであれば、風俗を純朴へ戻し廉譲を尊ぼうとしても、どうしてできましょうか!
 どうか県令へ孝廉を観察させて、郷閭にて行いの正しい者や経術を学び身につけた者を州へ推薦させるようにしてください。それを刺史が試験して、省へ挙げるのです。朝廷では儒学の士を選び、各々一経を専門にして経義二十条と政策三道を問います。成績上位は任官し、中位は出身を得、下位は故郷へ帰します。また、道挙も国の理ではありません。明経、進士も共に停止してください。」
 上は、諸司に協議させた。給事中李栖均(「竹/均」)、左丞賈至、京兆尹厳武は、綰へ同意した。
 至の議は次の通り。
「今、試学というのは帖字に精通しているだけ。考文というのは音声の選別がつくだけ。風流の頽廃は、まさしく改めるべきであります。しかしながら、東晋以来、人々は浮薄になり、郷土に住む士は百人に一、二もおりません。どうか、広く学校を設立して、農事に勤しむ者も郷里から推挙させ、田舎者でも学校から推挙させるようにしてください。」
 具体的な條目を上聞するよう禮部へ敕する。
 綰はまた、五経秀才科を置くよう請願した。
 七月戊辰、楊綰が挙人の条目を上貢した。秀才は教義二十条、対策五道を問う。国子が挙人を監督し、博士に祭酒を推薦させ、祭酒で試験に合格した者が省へ升る。これらは郷貢法と同じである。明法は考試を刑部へ委ねる。
 ある者は、明経、進士は施行されてから長く、早急に改めてはならないとした。結局改正は実行されなかったが、有識者はこの改正を是とした。
 二年五月庚申、禮部侍郎楊綰が上奏した。
「歳貢の孝弟力田の科目は実情とかけ離れており、童子科などは皆、僥倖で合格する者ばかりです。」
 これらを悉くやめた。 

 二年正月癸卯、剣南東と西川を一道とし、黄門侍郎厳武を節度使とする。 

 五月癸丑、初めて五紀暦を施行する。 

 かつては安、史が洛陽に據っていたので、諸道へ節度使を置いてその要衝を制していた。しかしながら、既に大盗は平定したので、郭子儀は、兵を集めておくと農事を損なうと考え、これをやめるよう上表し、まずは河中から始めるよう請うた。
 六月、河中節度使及び耀徳軍を廃止すると敕が降りた。
 子儀は又、関内副元帥をやめるよう請うたが、これは許さなかった。 

 七月庚子、天下から青苗銭とゆう税を取り、これで百官の棒給を払った。 

 戸部の報告によると、この年、戸は二百九十余万、人口は千六百九十余万人だった。 

  永泰元年(765)三月壬辰朔、左僕射裴免(「日/免」)、右僕射郭英乂等文武の臣十三人を集賢殿へ待機させる。詢問に備えて待機させたのである。ただ、彼等の言葉は余り採用せず、結果として飼い殺しに過ぎないと評価する者も居た。詳細は、「代宗」に記載する。 

 五月、畿内で麦が実った。京兆尹の第五gは、百姓の田に十分の一の税を掛けるように請い、言った。
「これは、古来の『十分の一の法』です。」
 上は、これに従った。
 しかし実施すると、民はその重さに苦しみ、大勢が流亡した。
 十月、僕固懐恩の乱が平定され、戒厳令が解かれた。
 同月丁未、百官が、職田を撤廃して、その分を軍糧へ充てるよう請うた。これを許す。
 翌年十一月に改元される時、十分の一税は全て停止された。 

 大暦二年(767)、鎮西の呼称を安西へ戻す。
 かつては安、史が洛陽に據っていたので、諸道へ節度使を置いてその要衝を制していた。しかしながら、既に大盗は平定したので、郭子儀は、兵を集めておくと農事を損なうと考え、これをやめるよう上表し、まずは河中から始めるよう請うた。
 六月、河中節度使及び耀徳軍を廃止すると敕が降りた。
 子儀は又、関内副元帥をやめるよう請うたが、これは許さなかった。 

五年三月己丑、度支使及び関内等道転運使、常平、鹽鐵使をやめ、その度支事は宰相に委ねる。 

 七年十二月辛未、滑州へ永平軍を置く。 

 十二年三月、元載が誅殺された。
まだ元載が専横をふるっていた頃、大勢の人間が元載へ仕官のツテを求めたが、彼らの大半は、京師へ住みたがっていた。載は、彼等が自分へ迫ることを憎み、制を降ろして、俸禄は地方官へ厚く朝臣へは薄くするようにした。こうして京師の官吏達は自活することもできないくらい困窮し、地方官から金を借りるようになった。
 元載が誅殺されると、楊綰と常コンは、京官の棒禄が薄すぎることを上へ訴えた。
 四月己酉、詔が降りて、京官の棒給が、年間約十五万六千緡加増された。
 五月辛亥、都団練使以外、諸州団練守捉使を全てやめる。また、軍事の急を要する使者以外、全ての使者へ対して、勝手に刺史を呼び寄せたり、その職務を邪魔したり口を挟んだりしないように命じた。
 また、諸州の軍へ対して定数を定めた。家族の食糧と春冬衣の支給で募った兵を、「官健」と言う。土人を呼び寄せて、春夏は農地へ返し、秋冬に軍事へ就かせ、本人一人分の食糧だけを支給する者を「団結」と言った。
 大乱以来、州県の官吏の棒給に格差が出た。そこへ、載、縉の私情による贔屓が重なり、刺史の月給は、千緡から数十緡までの開きが出た。ここに至って、始めて節度使以下主簿、尉へ至るまでの棒禄が定めた。それは、領地の広狭や収益の鷹によって数等に分けられ、法による整備が粗方整った。

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