宗教 

  

景龍元年(707)二月、丙戌、上は武攸既、武三思を乾陵へ派遣して、雨を祈らせた。すると、雨が降ったので、上は喜び、武氏の祟恩廟と昊陵、順陵を復すよう制を降ろした。豊王廟を褒徳、陵を栄先と名付ける。
 また、祟恩廟齋郎は五品子から任命するよう詔した。すると、太常博士楊孚が言った。
「太廟は、皆、七品以下の子を齋郎としております。今、祟恩廟を五品子から任命すれば、太廟はどうすればよいのか判りません。」
 上は、太廟も又祟恩廟に準じるよう命じた。孚は言った。
「臣を以て君へ準じさせてさえ、なお、僭逆と為します。ましてや君を以て臣へ準じさせるのですか!」
 それで、上はこれを中止した。 

 景龍三年(709年)八月、上が南郊にて祀ろうとした。丁酉、国子祭酒祝欽明、国子司業郭山軍が建言した。
「昔の大祭祀では、皇后が立派な杯で献じました。皇后は、天地の祭を助けるべきです。」
 太常博士唐紹、蒋欽緒がこれへ反駁して言った。
「鄭玄の注釈した周礼、内司服では、ただ『先王先公の祭を助ける』とだけあり、『天地の祭を助ける』の文はありません。皇后が南郊での祭を助けるのは礼に背きます。」
 国子司業の鹽官のチョ無量が議した。
「天を祭る時、ただ始祖を主としており、祖妣を配しておりません。ですから、皇后は祭りに関与しないでいるべきです。」
 韋巨源は儀注を定め、欽明の建議に従うよう請うた。上はこれに従い、皇后を亜献とした。宰相の娘を斎娘として、豆を盛った器を持って助けた。
 欽明は、また、安楽公主を終献としようとしたが、紹と欽緒が固く争ったので、果たせなかった。巨源を摂太尉として、終献とする。
 欽緒は膠水の人である。 

  

  

造反 

  

 初め、秘書監鄭普思が、娘を後宮へ納めた。監察御史の霊昌の崔日曜はこれを弾劾したが、上は聞かなかった。
 神龍二年、(706)普思は、ヨウ、岐二州で仲間をかき集めて乱を謀った。発覚して西京留守蘇壊(本当は王偏)が牢獄へ繋ぎ、この件を糾明した。ところが、普思の妻の第五氏は鬼道の術で皇后から寵用されていたので、上はこの件を糾治しないよう、壊へ敕を降ろした。
 車駕が西京へ帰るへ及んで、壊は朝廷でこれを争った。上は壊を抑えて普思へ加担した。すると、侍御史范献忠が進み出て言った。
「どうか蘇壊を斬ってください!」
 上は言った。
「何故?」
「壊は留守大臣ですから、まず普思を斬ってからその後に奏聞するべきなのに、そうしないで、聖聴を惑わさせました。その罪は大きいのです。それに、普思の反状は明白なのに、陛下は曲げて庇っております。『王者は死なぬ』と、臣は聞いていますが、これこそ、それです!どうか臣へも死を賜って、普思へ北面して仕えることができなくしてください。」
 魏元忠も言った。
「蘇壊は長者で、刑法の適用は間違っていません。普思は、法に照らせば死罪です。」
 上はやむを得ず、十一月戊午、普思を 州へ流した。余党は全て誅へ伏す。 

  

  

風俗 

 神龍元年(705)六月戊辰、洛水が氾濫し、二千余家が流される。
 七月、河南、北十七州で大水が起こった。
 八月戊申、水災を以て直言を求めた。すると、右衞騎曹参軍の西河の宋務光が上疏した。
「水は陰に類しますから、臣妾の象です。恐らくは、外朝の政へ干渉する者が後庭にいるのでしょう。どうか、その萌のうちに閉ざしてください。今、長雨が止まないので坊門を閉めてお祓いをしたら、巷では、朝廷は坊門を宰相として陰陽を調和させていると言い合うでしょう。また、太子は国の本です。早く賢能を選んでこれを立てください。又、外戚が権勢を持ちすぎています。武三思等のような者は、機要から外して禄のみを厚く賜ってください。また、鄭普思、葉静能は小技で大位を与えられました。朝廷の毒です。」
 疏は上奏されたが、かえりみられなかった。 

 この年、天下の戸は六百十五万、人口は三千七百十四万余人と、戸部が報告した。 

 以前、韋玄貞が欽州へ流されて卒した時、蛮酋のィ承基兄弟が彼の娘を渡すよう迫った。妻の崔氏は与えなかったので、承基等は崔氏とその四人の子息洵、浩、洞、此(「水/此」)等を殺した。
 二年、上は廣州都督周仁軌へ二万の兵を与えてこれを攻撃させた。承基等は海へ逃げたが、仁軌はこれを追って斬った。その首を以て崔氏の墓を祭る。その部落の人間も、殆ど殺し尽くした。
 上は喜び、仁軌へ鎮国大将軍を加え、爵汝南郡公を賜下する。韋后は御簾を隔てて仁軌を拝し、父へ対する礼で対した。
 後、韋后が敗北するに及んで、仁軌は彼女の仲間とみなされ、誅された。 

 景龍元年(707)二月、上は、旱害で穀物が高騰したので、太府卿紀處訥を呼び出して対策を講じた。
 翌日、武三思が知太史事迦葉志忠へ奏上させた。
「この夜、天文を観ると、摂提が太微宮へ入り、帝座へ至りました。大臣が天子へお目通りして忠義な策を納れたようです。」
 上は同意し、敕にて處訥の忠誠を称し、衣一襲と帛六十段を賜下した。 

 三年(709)、関中は飢饉で、米一斗の価格は百銭にもなった。山東、江、淮の穀物を京師へ運び込む。牛は、八、九割が死んだ。
 大勢の群臣が、東都へ御幸するよう請うたが、韋后は杜陵の人間なので、東都へは行きたくなかった。そこで、巫女の彭君卿等へ上へ言わせた。
「今年東へ行くのは、不吉です。」
 その後は、御幸を言う者がいると、上は怒って言った。
「食糧が天子を追い払うとゆう法があるか!」
 こうして、御幸しなかった。
(訳者、注。天子が東都へ御幸すると、百官達も随行します。そうすると、長安では彼等の食糧などの負担がなくなるわけです。関中で飢饉が起きると、その為に東都へ御幸するのが、唐代の風習でした。当時は今と違って物資の流通に労力がかかっていたのでしょう。) 

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