中宗大和大聖大昭孝皇帝 上
 

 神龍元年(705)六月癸亥、右僕射豆盧欽望へ、軍国の重大事は中書門下と共に議論するよう命じた。
 もともと、僕射は正宰相だった。その後、多くは中書門下の職務を兼任するようになり、午前中は朝政を決定して午後は省の事を決裁していた。ここに至って、欽望は僕射を専任して、政事には関与しなくなった。だから、特にこの様に命じたのである。
 この後、僕射を専任する者は宰相ではなくなった。
 又、韋安石を中書令、魏元忠を侍中、楊再思を検校中書令とする。 

 二年(706)閏月丙午、制を降ろす。
「太平、長寧、安楽、宜城、新都、定安、金城公主は皆、府を開いて官属を置く。」 

 同月、旻(「門/旻」)郷の僧萬回へ、法雲公の号を賜下する。
 二月丙申、僧恵範等九人へ皆五品階を加え、爵郡、県公を賜下する。道士史祟恩等へ五品階を加え、国子祭酒、同正へ任命する。葉静能へ金紫光禄大夫を加える 

二月乙未、刑部尚書韋巨源を同中書門下三品とした。依然として、皇后は宗族を登用した。 

 二月、左、右台及び内外五品以上の官から二十人を選び、十道巡察使として、これへ察吏撫人及び薦賢直獄を委ねる。二年で交代し、その功罪を考課してこれを進退する。
 易州刺史の魏の人姜師度、禮部員外郎馬懐素、殿中侍御史の臨章(「水/章」)の源乾曜、監察御史の霊昌の盧懐慎、衞尉少卿の釜(「水/釜」)陽の李傑が、これに任命された。 

 三月甲辰、中書令韋安石を罷免して戸部尚書とする。戸部尚書蘇壊(本当は王偏)を侍中、西京留守とする。壊は、延(「延/頁」)の父である。
 唐休景が老齢退職した。 

 員外官を京司から諸州までで凡そ二千余人大増員した。宦官で七品以上の員外官も又、千人に及ぼうとした。
 魏元忠は端州から戻ってきて相となってからは、強諫せずにただペコペコするばかりだったので、中外は失望した。
 酸棗尉袁楚客が元忠へ書を遣った。その大意は、
「主上が新たに政権を執ったのなら、ただその徳を新たにせよ。君子を進め小人を退け以て大化を興すべき時だ。どうして栄寵に安んじて黙り込んでいて良いものか!今、早く太子を立てて師傅を選んで補導しなければならないのに、やっていない。これが一失だ。公主が府を開いて僚属を置いた。二失だ。僧侶を祟び権門へ走らせ、権勢を借りて賄賂を取らせている。三失だ。俳優小人へ官位を与えている。四失だ。賢才の選挙が、金によって決まる。五失だ。寵用される宦官が千人にも及び、更に乱れて行く兆しである。六失だ。王公貴族への賜下品が際限なく、彼等は贅沢を競い合っている。七失だ。員外官を大勢設置し、財政を浪費して民を傷つけている。八失だ。先朝の宮女を外へ住ませているが、彼女達は宮内と外と好き勝手に行き来している。九失だ。左道の人が主上を惑わし、禄位を盗んでいる。十失だ。この十失を君侯が正さなければ、誰が正せるのか!」
 元忠はこの書を得たが、恥じ入るばかりだった。 

 四月。后父の韋玄貞を豊(「豊/里」)王と改め、后の四人の弟全員へ郡王を賜下した。 

 御史大夫李承嘉が武三思に媚びへつらい、朝廷にて尹思貞を譏った。思貞は言った。
「公は姦臣へ媚びて不軌を図り、その手始めに忠臣を除くつもりか!」
 承嘉は怒り、思貞を弾劾して青州刺史として下向させた。
 ある者が思貞へ言った。
「公はいつもは朴訥なのに、朝廷ではどうしてああも過敏に承嘉へ言い返したのか?」
 思貞は言った。
「鳴らない物でも、これを叩けば音を立てる。承嘉は権威を恃んで他人を凌いだから、僕は義として屈辱を受けることができなかったのだ。その結果がどうなるかなど、知ったことではないよ。」 

 七月戊申、栄禹重俊を太子へ立てる。翌年七月、太子は造反した。詳細は「太子の乱」に記載する。 

  丙寅、李喬を中書令とした。
  初め、李喬が吏部侍郎となった時、私恩を植えておいて再度宰相になろうと欲し、員外官を大勢置くよう上奏し、貴勢や親しい者を広く採用した。
 宰相になってしまうと、秩序が無くなり国庫が底をついたので、濫官の弊害を上表して、降格を願い出た。上は慰諭して、許さなかった。
 冬、十月己卯、車駕が東都を出発した。前の検校并州長史張仁原(「原/心」)を検校左屯衞大将軍兼洛州長史とした。
 十一月乙巳、天下へ恩赦を下す。 

 丙辰、蒲州刺史竇従一をヨウ州刺史とする。従一は徳玄の子息である。初めの名は懐貞と言ったが、皇后の父の諱を避けて、従一と改名した。権貴への諂いばかりの人間。
 太平公主と僧寺が臼がもとで訴訟した。ヨウ州司戸李元絋は、僧寺の勝訴とした。従一は大いに懼れ、判決を改めるよう、元絋へ速やかに命じた。だが、元絋は判決を大署した後、言った。
「南山は移せるとも、この判決は動かない!」
 従一は判決を覆せなかった。
 元絋は道廣の子息である。 

 安楽公主は寵愛を恃んで驕慢放埒になった。金を貰えば官位も裁判の判決も売り、権勢は朝野を傾けた。ある時は自ら制や敕を書き、その文章を隠して上へ署名をねだった。上は笑ってこれに従い、文章を見ない。自ら皇太女になることを請うた。これには上も従わなかったが、譴責もしなかった。 

 景龍元年(707)二月庚寅、諸州の中興寺、観を龍興と改称し、今後は奏事に「中興」の言葉を使わないよう敕が降りた。すると右補闕の権若訥が上疏した。その大意は、
「天、地、日、月等の文字は皆、則天が新しく造りましたが、賊臣敬暉等が軽々しく元へ戻しました。今、それらの文字を削っても淳化には何の益もなく、そのまま使ったら孝理が光るというのに。又、神龍元年の制書で、全て貞観の故事に依るとありましたが、近き母を棄てて遠い祖徳を尊ぶとゆう理屈が、どこにありましょうか!」
 疏が上奏されると、上は自ら制を書いて、これを褒めた。 

 七月、太子が造反する。この乱で、武三思が殺された。詳細は、「太子の乱」に記載する。 

 八月戊寅、皇后と王公以下が、上へ「應天神龍皇帝」の尊号を献上し、玄武門を神武門、楼を制勝楼と改称するよう上表した。宗楚客は、また、百官を率いて皇后へ「順天翊聖皇后」の尊号を加えるよう請願した。
 上は、どちらも許した。 

 九月丁卯、吏部侍郎蕭至忠を黄門侍郎、兵部尚書宗楚客を左衞将軍、兼太府卿紀處訥を太府卿として、全員を同中書門下三品とした。中書侍郎、同中書門下三品于惟謙が、やめて国子祭酒となる。 

 庚子、天下へ恩赦を下し、改元する。 

 上青光禄大夫、上庸公、聖善・中天・西明三寺主恵範が、東都へ聖善寺を作り、長楽坡へ大像を作り、これらの為に府庫が虚耗した。上も韋后も彼を重んじていたので、彼の権勢は内外を傾け、敢えて指さす者はいなかった。
 九月戊申、侍御史魏傅弓が彼の四十余万の収賄を摘発し、極法へ当てるよう請うた。上は宥めようとしたが、傅弓は言った。
「刑賞は国の大事です。陛下は既に、賞を妄りに加えました。とうして刑を及ばさずにいられましょうか!」
 上は恵範を削黜し、家へ放った。
 宦官の左監門大将軍薛思簡等は安楽公主から寵愛されていたので、横暴で法をなみしていた。傅弓がこれを誅するよう上奏して請おうとしたら、御史大夫竇従一がこれを固く止めた。従一はヨウ州刺史及び御史大夫となっていたが、髭がない者が訴訟するのを見ると、必ず情実を加えた。 

 同月、楊再思を中書令とし、韋巨源、紀處訥と共に侍中とする。 

 壬戌、左、右の羽林千騎を、万騎に改める。 

 江、淮の人間は魚や鼈を捕って暮らしていた。上は彼等が生き物を傷つけているので、この年、江、淮へ使者を派遣して、それらの生物を金を出して買い取らせた。中書舎人の房子の李乂が諫めた。
「江南の郷人は漁業を生業としており、魚鼈の利は人民の資産です。雲雨の私恩は末利を潤していますが、生成の恵みはまだ人々へ和らいでおりません。何故でしょうか?それは、江湖の饒が無限なのに対して、府庫の財産には限りがあるからです。彼等へ支払う金が少なければ、支給したところで何の役に立ちましょうか!多くの金を支払ったなら、財政は常に不足します。物を救って人を苦しませるようなことが、どうしてありましょうか!それに、漁師達はただ利益だけしか考えませんから、金が貰えるのなら網を投げ入れる人間は益々増えます。一朝施したら、その百倍は漁夫が増えます。彼等を救う為に物を銭で贖うのなら、むしろ貧しい人々の徭役を減らした方が効果的です。国を生かし人を愛することでは、その福は今のやり方に勝ります。」 

 二二月庚寅、皇后の衣装箱の上から五色の雲が沸き上がっていると、宮中で噂が立った。上は、これを図に書かせて百官へ示した。韋巨源はこれを天下へ公表するよう請うた。これに従う。そして、天下へ恩赦を下した。
 迦葉志忠が上奏した。
「昔、神堯皇帝が命を受ける前、天下の人々は『桃李子』を歌いました。文武皇帝が命を受ける前、天下の人々は『秦王破陣楽』を歌いました。天皇大帝が命を受ける前、天下の人々は『堂々』を歌いました。應天皇帝が命を受ける前、天下の人々は『英王』を歌いました。順天皇后が命を受ける前、天下の人々は『桑條韋』を歌いました。けだし、天意は順天皇后を国母となすよう示しております。今、蚕桑の仕事をもとにした桑韋歌十二篇を、謹んで献上いたします。どうかこれを楽府にて編み、皇后が先蚕を祀る時に演奏させてください。」
 上は悦び、皆、厚い恩賞を受けた。
 右補闕趙延禧が上言した。
「周が唐へ戻り、符命も回復しました。さて、故高宗は陛下を周王へ封じましたし、則天武后の頃、唐同泰は洛水図を献上しました。かつて、孔子が言われました。『周を継ぐ者があれば、百代後でも知ることができる。』と。陛下は則天武后を継がれたのです。子孫は百代まで天下の王となります。」
 上は悦び、延禧を諫議大夫へ抜擢した。 

 丁亥、蕭至忠が上疎した。
「恩倖を蒙る者は、金帛で富ませてふんだんな食い扶持を与えるべきで、公器を私物化させてはなりません。今、官職は多すぎますし、予備人員はそれに倍していますのに、縁故などで採用を求める者は後を絶たず、その人員は日々増加しております。陛下は無用の恩沢を賜下し、近戚は無茶な請願をして官位を売ったり法を曲げたりして私腹を肥やしており、台寺の内には朱や紫が溢れ返っています。全てのことは職務に関わらず、ただ勢力を恃んで大っぴらに法律を踏みにじっているだけです。いたずらに官職ばかり増やしても、政事には何の役にも立ちません。」
 上はその意を嘉したが、ついに採用できなかった。
(訳者、曰く)既得権益を削るのは難しい。だから、一度官職を作ると、それが不用となった後でも人員を削ることはできない。こうして役人の数は段々増えて行き、こうゆう遊んで暮らす手合いへの扶持が膨れ上がる。これはどの時代にも共通の通弊で、平和な時期が長引くほど酷くなる。いわゆる、「動脈硬化を起こした」と称される社会である。
 今の日本とて例外ではない。官庁の人件費が膨れ上がっただけではなく、有害無益の各種法人が利権を貪り、彼等が形だけの仕事をする為に掛けている無用の規制までも年々増加している。それに対応する為の民間の労力も、全て無駄である。しかしながら、これらのことを徐々に改正して行くことはなかなかできない。結局、行き着くところまで行き着いて、その負担に耐えられなくなった人民が暴動を起こして国が亡びる。一つの王朝の命脈が数百年しか保たれないのは、このようなダニが増えすぎるのが原因だと言われている。 明治維新で日本が躍進できたのは、江戸幕府が亡びて特権階級が一掃されてしまったことが一番の要因だと私は考えている。幕府の臣下の中にも、有能にして誠実勤勉な人間が何人も居た。彼等は改革を進めるために必死の努力を続けたが、それらは全て有力者の事なかれ主義に寄ってたかって潰されてしまった。歴史にifはないが、もしも彼等の努力が稔って少しでも改革の実が上がり、それによって江戸幕府の命脈が僅かでも繋がっていたとしても、結局は民の苦しみがその分長引くだけに過ぎなかっただろう。
 腐り始めた社会は、改革するよりも、もっと腐らせて革命によって根こそぎ崩壊させるべきなのかも知れない。老子の言った「縮めんと欲したら、まず伸ばせ。」とは、このいいか。
 史書を読んで「冗員、冗官」のくだりに至る度に、私は書を閉じて瞑想嗟嘆せずにはいられなくなるのだ。 

 四月癸未、修文館を設置した。大学士四人、学士二十人を選び、公卿以下李喬のように文章の巧い物を選んでこれに充てた。
 禁苑へ遊幸した時や、宗戚が集まって宴会を開く時など、学士は必ず参席し、詩を賦して皆で和した。上官ショウジョへ審査させて優れた者へ金帛を賜下する。この宴会へ列席できる者はただ中書、門下及び長参王公など親貴数人だけだった。だが、大規模な宴会では八座九列を召して、五品以上が参席した。
 ここにおいて天下の人々は争って華麗な文章を貴ぶようになり、儒学や忠義の士は栄達しなくなった。 

 七月甲午、清源尉呂元泰が上疎した。
「辺境は不穏で警戒を厳重にせねばなりません。ですから、兵卒は困苦し兵糧の輸送に民は疲弊しています。それなのに仏寺を建造することは日々多くなり、労力や財政を際限なく浪費しています。昔、黄帝、堯、舜、禹、湯、文、武の聖君達は、ただ倹約と仁義で徳を立て名を遺しました。晋、宋以降は塔や廟を競い合って造り、騒乱が相継ぎました。これは、正しくないものを好み尚び奢靡を競い合ったので、人々が権豪の命令に耐えられなくなった為です。どうか造営の費用を軍費へ回し、この戦争を永遠に終わらせ、民を裕福にさせてください。それは則ち、如来の慈悲の施しです。平等の心は、これ以上のものはありません。」
 疏は上奏されたが、顧みられなかった。 

 安楽、長寧公主及び皇后の妹の成(「成/里」)国夫人、上官ショウジョ、ショウジヨの母の沛国夫人鄭氏、尚官柴氏、賀婁氏、女巫第五英児、隴西夫人趙氏は、皆、権勢に依って専横し、賄賂による請願を受けた。下賎の身分でも三十万銭を用いれば墨敕が降りて除官され、斜封が中書へ届けられた。当時の人々は、これを「斜封官」と言った。銭三万を渡せば、すぐに僧尼になれた。その員外、同正、試、摂、検校、判、知官はおよそ数千人。西京、東都の各々に二人の吏部侍郎を置いて四度人選し、年間数万人が登用された。
 上官ショウジョ及び後宮の女性の多くは外第に立ち、無節操に出入りした。朝士は往々にしてこれにこれに随行して遊んで遊び、栄達を求めた。
 安楽公主は最も驕慢横暴で、宰相以下大勢の人間が彼女の縁故で任命された。彼女と長寧公主は競って邸宅を造り、とめどなく侈麗になっていった。それは宮掖を模擬していたが、それ以上に精巧だった。
 安楽公主が、昆明池を請うた。上は、それが百姓達の漁業資源になっていることを考え、許さなかった。公主は不機嫌になり、民の田を強奪して定昆池を造営した。それは南北数里に連なり、石を積み重ねて華山を形撮り、水を引き入れて天の川に模した。彼女はこの池を昆明以上の池にしようと思い、「定昆」と名付けたのである。
 安楽が、織物でスカートを作ったが、その値は一億した。描かれている花弁鳥獣は、皆粟粒くらいの大きさ。真っ直ぐに見たり端から見たり、日中だったり陰になったりした一様ごとに、それらは各々違った色に見えた。
 上は蹴鞠が好きだった。すると皆が蹴鞠を持てはやすようになり、フバの武祟訓、楊慎交は油を播いて毬場を造った。慎交は、恭仁の曾孫である。
 上と皇后、公主は多くの仏寺を造営した。左捨遣の京兆の辛替否は、上疏して諫めた。その大意は、
「『昔は、役所では必要ない部員は欠員としており、士は行いを全うし、どの家庭も廉節だったので、朝廷には棒禄が余り百姓は食糧が余っていた。』と、臣は聞いております。それなのに今は、陛下が恩賞を百倍賜下し官員を十倍増員しておりますので、金銀も束帛も規定にさえ不足しております。遂には富豪達をことごとく朝臣として採用し、芸伎や巫女も肥え太らせている有様です。」
 又言う。
「公主は陛下の愛娘。それなのに彼女達への接し方は古義に合わず、彼女達の行動は人心をなみしております。これでは将来、愛情が憎しみに変わり、福が転じて禍となるのではないかと恐れます。何故でしょうか?人の労力を尽くし人の財産を費やし人の家を奪う。数人の娘を愛して三怨を取る。辺境の士には力を尽くさせず、朝廷の士には忠義を尽くさせない。これでは人は散って行きます。愛する人がいるのに、彼等を守るために何を恃みとするのですか!主君は、人を以て本とします。本が堅ければ国は安寧です。国が安寧ならば、陛下の夫婦母子も長くその地位を保てます。」
 又言う。
「寺を造るならば、国情を考えなければなりません。大切にしている人間には、国を経営する能力がありません。彼等は、『殷・周時代は既に遠い過去だから馬鹿者ばかりだったし、漢・魏は最近のことですから、聖人君子揃いだ。殷・周は遠い過去だから、見習う物は何もなく、漢・魏は最近の時代だから欠陥がない。』くらいにしか考えていない人間なのです。陛下は大切なことをゆるがせにし、つまらないことに力を注いでいます。未来ばかりを見て今を見ていません。真実を失って虚無を冀っています。俗人のやることを重んじ、天子の仕事を軽んじています。これでは、炭や銅がどこにでもゴロゴロ転がっており食糧や衣服なしでも生きて行ける人間を使役したとしても、なお物資に不足してしまいます。ましてや天が産み地が養った物を材料にして、風が吹き雨が潤した後に、ようやく物資ができるのですぞ!一旦風塵がかき乱して霜や雹が作物を台無しにしたら、僧侶は農具を操れず、寺塔は飢饉の役に立ちません。、臣はひそかにこれを惜しむのです。」
 疏は奏上されたが、顧みられなかった。
 この頃、斜封官は両省を経由せずに授けられるようになった。両省は何も奏上することがなく、ただ告知するだけの役所になった。ただ吏部員外郎李朝隠だけは、合わせて千四百余人の登用の告知を破り捨てた。おかげで怨みや誹謗が紛然とまきおこったが、彼は全く気にしなかった。
 十月己酉、修文館直学士、起居舎人武平一が上表して、外戚や権寵の横暴を抑えるよう請うた。韋氏を敢えて名指しにはせず、ただ自分の一族を抑えるように請うた。上はこれをやんわりと断った。平一の名は甄だが、字の方が有名である。戴徳の子息である。
 十一月、安楽公主が左衞中郎将武延秀へ嫁ぐことになったので、上は嵩山へ使者を派遣して、太子賓客の武攸緒を呼び付けた。攸緒の到着間際、上は両儀殿へ別位を設けるよう礼官へ敕した。攸緒が平服のままで謁見して不名不拝の礼を執れるように、ここにて問道の礼を行おうと思ったのだ。ところが攸緒がやってくると、通事舎人は彼を所定の場所へ誘導し、ここにて質道の礼を執らせた。攸緒は小走りに歩き、常礼のように再拝した。上は愕然としたが、ついに思うような礼は執らせられなかった。上は屡々内殿にて煩わしい礼儀を省略させようとしたが、皆、拝謝するだけで受けなかった。親貴が顔を遭わせたら、天候の話以外、一言も言葉を交わさなかった。
 話は遡るが、武祟訓が公主を娶った時、延秀は屡々宴に参席した。延秀は姿が美しく歌舞が巧いので、公主は悦んだ。祟訓が死ぬと、遂に公主は延秀を後添えにしたのである。
 己卯、婚礼が行われた。公主へ、皇后の杖を渡す。禁兵へ儀衞させ、安国相王へ障車を命じる。
 庚辰、天下へ恩赦を下す。延秀を太常卿兼右衞将軍とする。
 辛巳、両儀殿にて群臣と宴会を開く。公主に出て来させて公卿へ拝礼させたが、公卿は皆、地へ平伏して頭を上げなかった。
 また、長寧、安楽の諸公主は奴隷を使い、百姓の子女を勝手に掠奪して奴婢としていた。三年正月、侍御史袁従之が、これを捕まえて牢獄へぶち込み、取り調べた。公主が上へ訴えると、上は自ら制を降ろして彼等を釈放した。従之は、上奏して言った。
「陛下は、良人を勝手に掠められました。天下にどのような理がありましょうか!」
 だが、上は遂にこれを釈した。 

 十一月、ショウジョの上官氏を昭容とする。 

 十二月、御史中丞姚延均(「竹/均」)が上奏した。
「最近、諸司が法律を遵守せず、大小と無く全て聞奏するようになりました。臣は、『君主となったら臣下へ任せ、臣下となったら法を奉る。』と聞きます。万機を委ねられたら、全てへ目を通すことなどできません。小川の治水から枯れ木の伐採まで全て主上の意見で決定するようなことが、どうしてありましょうか!今後は軍国の大事や法律に定めがない物のみ聴奏して指示を仰ぎ、それ以外は各々法によって処分させましょう。結果に疑滞や過失があったなら、御史に糾弾させればよいのです。」
 これに従う。 

 丁巳晦、中書、門下と学士、諸王、フバへ入閣して宴会を開くよう詔があった。庭に篝火を設け、酒を出して音楽を演奏する。
 宴たけなわの時、上は御史大夫竇従一へ言った。
「今日が長い間独り身だと聞き、とても気になっているのだ。こんばんは大晦日。卿のために婚礼を為そう。」
 従一は、ただ拝謝するだけだった。すると突然、内侍が灯籠、歩障、金縷羅扇を率いて西廊からやって来た。扇の後ろに礼衣、花釵を身につけた人がおり、従一と相対して坐らせられた。上は、従一へ”卻扇詩”数首を誦させた。花嫁が扇を取り除き、花釵を取り去り、服を変えて出てくるのをゆっくりと見れば、皇后の老乳母の王氏だった。彼女は、もとは蛮人の婢である。上も侍臣も大笑いした。
 王氏を呂(「草/呂」)国夫人に封じ、従一の妻とした。俗に、乳母の婿を「阿シャ」と言うが、従一は謁見や上表の度に「翊聖皇后阿シャ」と自称した。人々はひれを「国シャ」と呼んだが、従一は大喜びで自慢げだった。
(訳者、曰く) ”卻扇詩”の「卻」は、”取り除く”とゆう意味。扇で姿を隠した女性へ、「姿を見せてください」と訴えかける歌なのでしょうか?そうゆう歌があるのなら、「お見合い」の形式がキッチリと決まっていたのでしょうね。「花釵」は、「つのかくし」に相当するのかな?顔を隠した女性がシズシズとやって来て、男が歌を歌うと、ゆっくりと顔を現す。そんなイメージでしょう。顔を見たらお婆さんだった。みんな爆笑するでしょうね。 

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