趙徳麟の字の説
 
 宋が天下を取って百余年。その間、天下を治める人材は、これを微賤の人間から採用し、親しい者に贔屓したりしなかった。だから、宗室の賢人が勲功を建てた話など、未だに聞いたことがない。
 神宗皇帝はこの事実に慨然とした。そして、宗室から英才を見いだし、これと共に天下を統治しようとて、教養選挙之法を増立したのである。それは、封爵の子孫を琢磨させ、賢才を輩出させようと考えてのことである。
 その法案が樹立してから、二十年が経った。しかし、文武の器は、お寒い限りだった。 

 元裕六年(1096年)、私は中央から汝南へ下り、そこで越王の孫、華原公のご子息が書いた「主君の祭礼について。」の意見書に触れた。
 彼こそ正しく、その人を得たというもの。その為人は、博学にして文章に秀で、篤行で剛直、道へ対しては信、そして政治へは俊敏だった。彼は必ず大きく用いられ、高官に至り、天下の耳目を驚かすだろう。それは、彼が高貴な出身だからではない。あくまで、彼の才覚によってである。 

 昔、漢の武帝の頃、白麟が獲えられ、武帝へ献上された。それは、「白麟の歌」まで作られて、讃えられたものである。それにも関わらず、司馬遷や班固は歴史書に、こう記した。
「一角獣を獲える。」
「けだし、麟と言う。」
「けだし」と一言付け加えたのは、この事実を疑っていたからだ。
 一角の獣ならば、もとより麒麟である筈なのに、両先生は何を疑ったのだろうか?それは、武帝の業績を見た時に、麒麟が出現する理由が見い出せなかったからに違いない。
 武帝は、一人の汲黯でさえも用いることができなかった。それなのに、白麟や赤雁を祥瑞として有難がったのである。してみると、両先生は、これを疑ったのではない。茶番劇と看破したのだ。 

 今、先帝は法を立ててまで、宗室の賢人を世に出そうとしている。主上が虚心に人材を探し、優秀な人間を洩らさないかと汲々としているのに、四方からの瑞兆は手元で押さえて流布させない。これこそ正しく麒麟を獲えたのである。
 麒麟は、もともと獲われたくはないのだ。だが、不幸にして徳があり、形を備えていた。それは、麒麟の病根である。 

 今、君の学問は玄妙である。自分を守ることには淡泊で、富貴など浮雲のように見ているのに、文章や議論は君の令名を載せて天下に羽ばたいている。既に麒麟の病根を備えているのだ。どうして逃げることができようか。
 敬って、君に「徳麟」と字し、それが為に説を立てた。 

  

(訳者、曰) 

「宋書」を紐解いて、越王を探したところ、「越王元傑」を見つけた。(列伝第四)その孫は「宗望」と記されている。彼がこの説の主人公なのだろうか?「華原公」の名前は見つからず、半信半疑とゆうところ。又、「宗望」の字は「子国」となっている。たった三行しか記述がないが、殿試は一番で通り、文章が非常に巧く、「国子監書を賜った」とある。 

 さて、この文章は、「立派な提灯持ち」とゆう気がします。しかし、武帝の獲麟への解釈は面白く、表現も楽しい。
「麟固不求獲、不幸而有是徳与是形、此麟之所病也」なんか、特に好きな一文です。