晋の趙穿、霊公を弑す(付、許の悼公、太子止の薬を飲みて卒す)
 
(春秋左氏伝) 

 晋の霊公は、諫言を繰り返す趙盾を疎ましがり、これを殺そうと兵を伏せたが、趙盾はこれを辛くも切り抜け、そのまま国外へ亡命しようとした。(詳細は、「晋の霊公の不君」に記載。)
 この事件が起こると、趙穿が霊公を弑逆した。逃げ出していた趙盾は、まだ国境を越える前にこれを知り、そのまま引き返してきた。すると、大史の董狐は、国史に「趙盾が霊公を殺した。」と書いて、朝廷へ示した。
 趙盾が言った。
「そうではない。」
 すると、董狐は答えた。
「貴方は正卿の身分でありながら、亡命して国境も越えないうちに引き返して来て、しかも逆賊を討伐しようともしない。責任者が貴方でなくて、一体誰だというのですか。」
「ああ、詩に『我が胸の思いの外、我からになせる悲しみ』とあるが、私の身の上だ。」
 後、孔子が言った。
「董狐は良い大史だ。法を守って正しいことを隠さずに書いた。趙盾は良い大夫だ。法の為に悪名を受け容れた。惜しいかな、事件が起こった時に国境を越えてさえいれば、悪名を免れたのに。」
 趙盾は、趙穿を使者として公子コクトンを周から呼び戻して晋侯を襲爵させた。 

 魯の昭公の十九年。許の悼公が発病し、太子の勧めた薬を飲んだ所、崩御した。太子は晋へ逃げた。それで春秋経には、「許の世子の止が、主君の買を弑逆した」と書いてある。
 君子は言った。
「真心を込めて看病すれば、自分で薬を勧めたりしなくても良いのに。」 

  

(東莱博議) 

 手に物を持った時、持つ高さによって重さが違うように感じる。だから、正確を期す為に、秤を使って重さを量る。目には愛憎がある。だから、美醜の判断は鏡に任せる。同じように、心には偏りがある。だから、是非の判断は聖人に任せるのである。
 天下の人々が、誠を尽くして己を委ね、ただただ聖人の判断のみに従うのは何故だろうか?私心を持たず、公の想いに満たされた人間だからこそ、天下の不公を裁くことができるからだ。全く偏らず、本当に公平な人間だからこそ、諸々の不公平を指摘できるからだ。本当に正しい人間が相手だからこそ、不正な人間が屈服するからだ。
 ああ、君子とゆう人々は、天下に中立して万世是非の判断を委ねられる。そして彼等の答えによって、まるで天が晴れ海が澄み渡るように、諸々の理が顕れるのである。
 たとえ相手が顔回でも、それが過ちだったなら過ちと指摘して、毫毛の容赦もしない。たとえ相手が盗跖でも、悪くない行いは非難せずに、砂粒ほどの水増しも行わない。それでこそ、至公にして愛憎なし。それこそが君子なのだ。善悪の基準がフラフラとして定まらず、褒貶がコロコロ変わるようでは、どうして万世公議の主人となれようか。 

 左丘明は、趙盾が主君を弑逆した記述を載せ、孔子の名に託して言った。
「法を守る為に、悪名を受け入れた。」と。
 だが、私は密かに思っているのだが、孔子がこのような言葉を言うわけがない。
 悪いことをしたのなら、非難されるのが当然である。どうしてこれを逃がそうか。逆に、悪いことをしていないのなら、どうして彼を非難しようか。賞罰を下す人間は、ただ、有罪無罪のみを明言すればよい。宣告された人間が、辞退するも受け入れるもあるものか。
 それなのに、今、「法を守る為に、悪名を受け入れた。」と言った。この言葉を突っ込んで解釈すると、次のようになる。
「もともと、趙盾にはもともと主君を弑逆した悪行などなかった。しかし、歴史を記す役人が、法を守る為に、事実を曲げて『趙盾が主君を弑逆した』の一言を加え、趙盾も、法を守る為に、『趙盾が主君を弑逆した』の一言を、強いて受け入れた。」
 だが、歴史編纂官が歴史を曲げて悪行を勝手に書き加えることを認可する聖人など、どこの世界にいるとゆうのだ。聖人がこれを許したら、万世是非の基準があやふやになってしまうではないか。
 そもそも、法とゆうのは、罪を規制する為に作られた物だ。病気でなければ治療する必要がないように、無実の人間に法は必要ない。もしも、「趙盾はもともと主君を弑逆した悪行などなかったのに、法を守る為に、事実を曲げて悪名を受け入れた。」と言うのなら、罪と法は、全く別個の物なのか?
 単にこの事実が羅列されているだけだったなら、「なるほど、酷いようだが趙盾は主君弑逆事件の責任者だ。」と判断するところなのに、孔子が言ったと称されるこの言葉の為に、「趙盾には、本当は罪がなかったのではないか」と、後世の人々が疑問に思い始めたのである。 

 だが、冷静に考えてみよう。趙盾が主君を弑逆したのは、疑うことのできない事実である。確かに、霊公は趙穿の手に掛かった。しかし、霊公が「桃園の難」を受けたのは、趙盾が出奔する前ではなく、出奔した直後だったのだ。朝、趙盾が出奔したら、その夕べには趙穿が変事を起こした。趙盾が出奔しなければ、弑逆は起こらなかったに違いない。つまり、趙穿が主君を弑逆した原因は、趙盾の出奔なのだ。趙穿は、ただ単に趙盾の為に行ったに過ぎないのである。
 もしも趙穿が野望に燃えて弑逆したのならば、それが成功した後、自分が権力の椅子に座って、国家の実権を盗むに決まっている。どうして、亡命しようとしていた一大夫に権力を明け渡したりするだろうか。これを見ても、趙穿の弑逆が、自分個人の私利私欲ではなく、趙盾の為に行われた事は、明白である。
 片や趙盾は、主君が弑逆されたと聞くや、忽ち舞い戻ってきた。その上、下手人の趙穿を討伐しなかったばかりか、趙穿に新君を迎え入れさせて、彼の寵を固めてしまった。これは、自分の為に弑逆してくれた趙穿へ対して、趙盾が密かにその恩に報いたのである。
 兵卒が将軍の為に敵を破った時、その戦勝を、「兵卒の某が、敵を破った」と記載することがあるだろうか?そんな事はあり得ない。必ず、「将軍の誰それが、敵を破った」と称される。同様に、奴隷が主人の為に人を殺すとゆう事件が起こり、その罪を糾明する時には、必ず、「主人の誰それが人を殺した。」と言われ、「奴隷の某が人を殺した」とは言われないのである。
 趙穿は、趙盾の為に主君を弑逆した。趙盾が、「主君を弑逆した」とゆう悪名を逃れようとしても、どうしてできようか。既に避けることができないのなら、どこを指して「悪名を受けた」などと称するのだ。
 その証拠に、春秋経には、「晋の趙盾が、その主君のイコウを弑逆した」と書いてあるではないか。史官の董狐が自国の国史にこのように書き、孔子はそれを踏襲したのである。これは全て、趙盾が本当に犯した悪行について、正しく述べてあるのであり、いわゆる、「法を守る為に悪名を受け止めた」訳ではないのだ。 

 後世、世間の人間が、誤って左丘明の言葉を信じ、遂には、これは孔子の言葉であると言い出した。
 彼等は言う。
「聖人の筆は、表現では誅しながら実はその罪を緩くするように、文章ではなく心で伝える事がある物だ。」
 そして、許の世子の止が弑逆した事件に関しても、「あれは自分の手で親を弑逆すしたのではない。趙盾に対して、『弑逆した』と記載した事例があったように、この事件に関しても、『弑逆した』と春秋経には書かれているが、実は法を守るために、わざと悪名を与えているだけなのだ。」と評価している。
 だが、彼等は知らないのだ。そもそも人を殺すときの状況には、計画的な犯行の場合があり、故意の場合があり、戯れの場合があり、過失致死の場合もある。しかし、どの場合についても、「これを殺した」と表現することに変わりはないのだ。人を殺す道具には、刃があり、縄があり、毒薬があるが、そのどれを使っても、「人を殺した」と表現することは変わらない。それと同じ事だ。
 それは勿論、過失致死と計画犯とでは、与えられる罰に軽重がある。しかしながら、「過失致死だから、『人を殺した』と表現するのは誤りだ。」と言ったら、それこそ間違いである。
 許の止は、薬を勧めて、誤って殺してしまった。それを、野望に燃えて弑逆した大悪党共と比べれば、確かに数千倍もマシではある。しかしながら、主君を弑したとゆう事実だけは同じなのである。だから、この事件について、「弑した」と記載したのは、法に照らし合わせて当然の表現であり、決して「法の為に悪名を着せた。」訳ではない。
 左丘明は、孔子の名に仮託して、後世の人々を誤らせたのである。 

 その後に続く文章は、更に酷い。益々以て、これが聖人の言葉ではないと明白に判るのである。
 董狐が趙盾を責めた言葉は、趙盾の本心をズバリ衝いていた。「国境を出てもいない。」と言ったのは、グズグズと逗留して何かを待っていた様なその態度を責め、弑逆計画に加担していた証拠としたのである。それは決して、「国境を出ていなかったから有罪であり、国境を出ていたら無罪である。」とゆう想いで言った言葉ではないのだ。
 左丘明はその真意を察することができず、孔子の言葉に仮託していった。
「惜しいかな、国境を越えていたら悪名を免れていたのに。」と。
 だが、こんな言葉を正当として認めてしまったら、どのようになるだろうか。
 後世に趙盾のような姦臣賊子が顕れて、弑逆計画を立てたとしよう。そして国境を越えて事件が起こるのを悠々と待ち、弑逆が起こってからノコノコと戻ってきたら、「弑逆した」とゆう悪名を逃れられることになってしまう。
 これでは、姦臣賊子へ罪から逃れる方法を教授しているだけではないか。聖人が、どうしてこんな言葉を吐くだろうか。 

(訳者、曰) 

 霊公は、道行く物へ弾丸を射掛ける程の暴君である。遂には諫争する臣下を殺そうとまでした。趙盾は忠臣である。その端座する姿を見ただけで、刺客が慚愧して自殺してしまったのだから、人格的に余程高邁だったとしか思えない。だから、春秋左氏伝のこの件を読んだ時、趙盾へ思い入れ、「罪を受け入れる。」の言葉に疑念を懐かなかったどころか、趙盾の態度が潔いと感嘆し、孔子の言葉に対しても、心中深く頷いてしまったものだ。
 だが、このように論じられてみて、深く考え直してしまった。 

 この論文を読む前に、私は次のように解釈していた。
 趙盾が霊公から殺され掛かっていた。趙盾は命を守る為に亡命し、ここに至って、見るに見かねた趙穿が、主君を弑逆した、と。
 これは、趙盾にとって、最も好意的な解釈だが、真実ではあるまいか。
 だが、それにしても、趙盾の立場ならば、趙穿を誅殺しなければならなかった筈だ。それを看過したどころか、新君から寵愛されるよう気を配る。これは恩賞を与えたに他ならない。それは確かに、自分の為に動いてくれて、自分の命を救ってくれた相手を誅殺するなど、まともな人間ならばできる訳がない。しかし、それをしなかった以上、趙盾が首謀者と決めつけてしまわなければならない。
 趙盾が、霊公の弑逆に全く関与せず、そんな想いも毫程もなかったとしよう。そうすると、趙盾には二つの選択肢がある。主君殺しの悪名を遺すのが嫌だったなら、趙穿を処罰すれば良かった。情に於いて忍びず、趙穿を処罰できないのならば、自分が首謀者になれば良かった。そして、趙盾は趙穿を処罰しなかったのだ。
 だから、史官の記述は正しいし、趙盾が「罪を受け止めた」と表現しても、まあ、あながち過ちと言うこともできないだろう。しかし、それならば、趙穿を処罰しなかった時点で、しっかりと覚悟を決めるべきだった。史官へクレームを付けたのは未練である。そして、「罪を受け止めた」とゆう表現も、「無理したらそう表現できないことはない、」程度であり、正確に言うならば、「趙盾は哀れだ。あれだけの人格者でありながら、置かれた状況が悪すぎて、心ならずも弑逆事件の首謀者になってしまった。」と表現するべきだろう。
 亡命した時にはグズつき、事件が起こったら即座に引き返す。指摘されてみると、そこから穿った見方もできる。最初から計画を知っており、(あるいは自分が立案して)嫌疑を逃れる為に移動した、と考も考えられるが、確証がない。「未練たらしくぐずついている間に事件が起こり、引き返した」とも考えられるし、こちらの方が自然な気もする。(勿論、こちらの方にも、何の論拠もないのだが。) 

 もしも、春秋左氏伝のここの記述だけを読んだとしたら、趙盾が趙穿を処罰しなかった事を挙げて、「趙盾を首謀者としなければ、筋道が通らない。」と判断する人間も多いだろう。やはり、霊公と趙盾の人格へ対する先入観は、判断を誤らせる。成る程、冒頭で述べた「心には愛憎あり」とはこの事か。
 この一件で見る限り、趙盾は、これ以上ないって位、物の見事な弑逆者である。それは紛れもない事実であり、その罪状は正しく追求するべきである。彼が立派な人格者であったとか、霊公が暴君だったとか、趙盾の置かれた立場が同情できる、とゆうことは、事実を洗い直した上で加味するべき事である。決して、それらの事情によって、事実を曲げてはいけない。
「たとえ相手が顔回でも、それが過ちだったなら過ちと指摘して、毫毛の容赦もしない。たとえ相手が盗跖でも、悪くない行いは非難せずに、砂粒ほどの水増しも行わない。」
 冒頭で述べられたこの台詞は、言葉にすればこれだけだが、実践するとなれば、何と愛憎を押し潰すことだろうか。これができる人間を君子というのなら、確かに君子の言うことは信頼が置ける。その上、もしも彼等が情状酌量をしてくれるならば、親しむこともできるだろう。(この論文は罪状を正しく糾明することを言っており、罰を与えることに関しては言及されていない。君子ならば、情状酌量してくれるだけの背景は、十分すぎる程整っていると思います。) 

 孔子が言った台詞の後半は、確かに論外だ。パッと聞けば、耳に心地よい。だが、儒教は上辺の派手さを追い求める教えではないのだ。多分、左丘明は、趙盾へ対する愛着から、弁護の筆を滑らせ過ぎたのだろう。 

 それにしても、文末に書かれた「後世に趙盾のような姦臣賊子が顕れて」とゆう一文は過激だ。もしかして呂東莱は、この事件は趙盾が計画した、正真正銘の弑逆事件だと考えているのだろうか?