三国鼎立時代 

 武徳四年(621年)六月、乙丑、高句麗王建武が使者を派遣して唐へ入貢した。建武は、元の弟である。
 隋の末期に、大勢の戦士が高麗の捕虜となった。武徳五年、唐の高祖(李淵)は高麗王建武へ書を賜り、捕虜を全員返還させた。また、中国に住んでいる高麗人を各州県に探させ、帰国させた。
 建武は詔を奉じ、中国の民を返還した。その数は、合計で一万人ほどだった。

 七年、二月、丁未。高麗王建武が使者を派遣し、暦を奉じることを請願した。そこで、高麗へ使者を派遣して、建武を遼東郡王、高麗王とした。
 百済王扶餘璋を帯方郡王、新羅王金眞平を楽浪郡王とした。

 新羅、百済、高麗の三国は宿敵として互いに攻撃し合っていた。
 九年、太宗皇帝が国子助教朱子奢を派遣して諭させたところ、三国は皆、上表して謝罪した。

 貞観五年(辛卯、631)八月、甲辰、高麗へ使者を派遣して、隋氏の起こした戦争で戦死した兵卒達の骸骨を回収し、これを葬って祭った。

 同年、新羅王真平が卒した。世継ぎがいなかったので、国人はその娘の善徳を王に立てた。

 十五年、五月丙子。百済がその王扶餘璋の喪を告げてきた。使者を派遣して、その嗣子義慈の継承を認めた。

 同年、上が、職方郎中陳大徳を高麗へ派遣した。八月、己亥。高麗から還る。
 大徳は高麗へ入国した時には山川風俗を知ろうと思い、行く先々の城邑で、その太守へ綾綺を贈り、言った。
「我は、山水の愛好者です。この近辺の景勝地を観たいのです。」
 太守達は喜んで、彼を連れて遊覧し、隅々まで見せた。道々中国人に会ったが、彼等は言った。
「私の家は某郡にあります、隋末に従軍して高麗に取り残されて高麗人と結婚し、ここへ来てから、もう人生の半分が過ぎております。」
 そして親戚が健在か尋ねるのだ。対して大徳は、大抵こう答えた。
「皆さん、元気ですよ。」
 そして、彼等は相対して涕泣する。
 数日後、彼を遠くから眺めやって涙を零す隋の人間で、郊野が埋まった。
 大徳は、帰国すると上へ言った。
「あの国では、高昌が滅亡したと聞いて、大いに懼れています。平常の兵力で取れます。」
 上は言った。
「高麗は、もともと四郡しかない。我が数万の軍を動かして遼東を攻撃すれば、奴等は必ず国を傾けてこれを救援する。我等は別働隊として東莱から水軍を出し、海路で平壌へ赴き、水陸から協力して攻めれば、あの国は難なく取れる。ただ、山東の州県は戦争の疲弊からまだ立ち直っていないので、彼等へ戦役を与えたくないのだ!」

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