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張軌、涼州に據る。

 

 八王による天下大乱の最中にあって、散騎常侍の張軌は河西に確固たる基盤を築こうと考え、涼州刺史の地位を願い出ていたが、恵帝の永寧元年(301年)、それが認められた。
(涼州は、中国の北西部の端に位置し、西域への出口とも言える。片隅へ寄れば四方の敵と戦うことはないとの計算だろうか。まあ、戦乱が長引いた時には、結局、端っこに割拠した諸侯が強大になって行く。それに対して、中央に位置した諸侯は、相継ぐ戦争に曝されて、なかなか実力を付けられないものである。)
 その頃、涼州では盗賊が横行し、又、屡々鮮卑が入冠していた。涼州へ赴任した張軌は、宋配と己援とを軍師としてこれらを尽く平定したので、彼の威名は西土に鳴り響いた。

 懐帝の永嘉二年(308年)。二月、張軌はてんかんを病み、喋ることさえできなくなった。そこで、息子の張茂を摂政として涼州の政治を任せた。
さて、西内史の張越は、涼州では羽振りの良い一族だったので、いつも張軌にとって代わろうと狙っていた。そこで、このチャンスを逃さず、兄の酒泉大守張鎮と、西平大守曹去を引きずり込んで謀略を巡らせた。
 彼らはまず長安の南陽王模のもとへ使者を派遣し、張軌が重症であることを訴え、秦州刺史の賈龕を後任とするよう願い出た。
 これに対して賈龕は承諾しようとしたが、兄の賈譲が言った。
「張軌と言えば、一時の名士だ。おまえは何の徳があってその後任に成れるのかね?」
そこで、賈龕は辞退した。
 すると曹去は、今度は自分を刺史とするよう上請した。更に、その返事が降りる前に、張軌を罷免させて軍司の杜耽を摂政とさせるよう、近隣へ檄文を回した。そして杜耽には、張越を刺史とするよう上奏させた。
 こうゆう事態になって、張軌は官位を辞退して隠遁しようとしたが、長吏の王融と参軍 の孟陽は承服しなかった。彼らは逆に檄文を近隣に回し、更に朝廷へ上奏した。
「今は国家多難の時期です。明君は西夏を慰撫するよう心がけてください。張鎮兄弟は凶悪な輩。断固誅殺するべきです。」
そして、彼らは戒厳令を布いた。
丁度その時、張軌の長男の張寔が都から帰ってきたので、王融と孟陽は彼を中督護として、張鎮討伐軍を組織した。しかし、出陣に先立ち、張鎮の甥の太府主簿張令のもとへ使者を派遣して張鎮を説得するよう頼んだ。
 張鎮が利害を説くと張鎮は涙をこぼして言った。
「つまらない人間に惑わされていた。」
張鎮は張寔のもとへ自ら出向き、前非を悔いた。そこで、張寔は曹去を攻撃し、撃破した。
こうして騒乱は終わったかに見えたが、逃げ出した曹去は、侍中の袁瑜を涼州刺史とするよう上奏した。
 それを知った治中の楊澹は長安へ赴いて、張軌の罷免は冤罪であると訴えた。南陽王模も袁瑜を諭すよう上奏し、武威太守の張典も張軌の留任を請願した。 
とうとう、朝廷では南陽王模の言い分を採択し、併せて曹去を誅するよう詔が降りた。
 ここに至って、張軌は曹去攻撃を張寔へ命じた。張寔は三万の軍隊で曹去を攻撃し、これを斬り殺した。張越は逃げ、こうして涼州の騒動はけりがついた。

 五月、正式に詔が降り、張軌は西平郡公へ封じられたが、張軌はこれを辞退した。
この頃、州や郡では長安へ使者を出さなくなっていたが、張軌だけは、上貢品を欠かさなかった。
 四年十一月。張軌は鎮西将軍、右諸軍事に任命された。この頃、都では深刻な飢饉にみまわれているとの報告もあったので、張軌は馬五百匹と布三万匹を献上した。

 六年三月。涼州主簿の馬魴が張軌へ出陣を説いた。
「皇室の危機です。勤皇の軍を興しましょう。」
張軌はこれに従い、まず、関中一円へ檄を飛ばした。
「共に決起して、秦王の為に戦おうではないか。私は、今、督護宋配を先鋒として、二万の軍で長安へ向かわせる。更に、西中郎将の張寔へ三万の兵を預けて中軍とし、武威大守の張與に胡騎二万を預けて後詰めとし、引き続き出陣させる予定である。」
 同年九月。秦州刺史の排苞は険阻な地形で涼州軍を迎撃したが、張寔と宋配はこれを撃破し、排苞は柔凶まで逃走した。

 愍帝即位。建興二年(314年)の二月、張軌は太尉、涼州牧に任命され、西平郡公に封じられた。又、張軌は既に老齢だった為、息子の張寔を副刺史に任命した。

 五月、西平武穆公張軌は病の為、床へ伏した。
「文武の将は百姓を守ることを勤めと心得よ。そして、上は国家に尽くし、下は我が家を安泰とさせよ。」
 この遺言を残して、崩じた。
 十月、張寔は都督涼州諸軍事、涼州刺史、西平公へ任命された。

 三年、十月。涼州の張冰とゆう兵卒が、印璽を発見した。その文面は、「皇帝行璽」。彼はこれを張寔へ献上した。幕僚達は大いに喜び祝賀したが、張寔は言った。
「これは、人臣の持つものではない。」
そして、使者を派遣して長安へ届けた。
四年四月、張寔は有能な吏民を抜擢し、布や米を賜下して賞するよう命じた。すると、かつて曹去の部下だった隗瑾が言った。
「政治を執る時、明公は事の大小となく自分で裁断なさいます。朝廷の臣下達に何も知らせずに、いきなり出陣を命じることさえあったほどです。これでは、政策に誤りがあっても、事前に指摘することができませんし、大勢の下っ端達は、刑罰を恐れてただ上に従うだけ。この有様では、千金で賞したとしても、意見は出ないでしょう。どうか、公の聡明さを少し覆い隠してください。諸々の問題が起こりましたら、まず臣下達へ提示して各々の意見を存分に述べさせ、その後に裁断なさいますよう。そうすれば、嘉言は自ずからやって参ります。何も絹や金で賞する必要はありません。」
 張は悦んでこれに従い、隗瑾の位を三等特進させた。
 同月、張寔は、王該に五千の兵を与え、長安救援に派遣した。また、同時に任地から上がった貢物も届けさせた。この功績に対して詔が降り、張寔は都督陜西諸軍事に、弟の張茂は秦州刺史に、それぞれ任命された。

 元帝の建武元年(317年)、正月。黄門郎の史淑と侍御史の王沖が、長安から涼州へ逃げてきた。
「愍帝陛下は降伏なさいました。我等は、陛下の詔を持って逃げてきたのです。」
 その詔は、張寔を大都督・涼州牧・侍中・司空・承制行事に任命し、更に告げた。
「朕は既に、瑯琅王を摂皇帝と認めた。共に手を取り合って、この大難を乗り切ってくれ。」
 張寔は、この二人の勅使を盛大にもてなし、その宴会は三日三晩続いたが、任命された官職は辞退した。
 さて、話は遡るが、西海太守の張粛は張寔の叔父である。彼は、長安に危機が迫ると聞くと援軍の先陣を切ることを願い出たが、その老齢故に、張寔はこれを許さなかった。今回、長安が陥落したと聞いて、張粛は悲嘆の余り憤死した。
 張寔は、太府司馬の韓璞と撫じゅう将軍張良に一万の兵を与え、漢討伐を命じた。更に、討虜将軍陳安、安故太守賈騫、隴西太守呉紹には各々領地の兵を率いて先陣となるよう命じ、相国を派遣して告げた。
「王室の一大事。身命をなげうて。以前、賈騫が勤皇の軍を興した時、急な事情で呼び戻したが、長安はたちまち危機に陥った。再び賈騫を派遣しようとした矢先、朝廷は滅んだのである。忠義を行ってもやり遂げない。憤痛は深く、死んでもなお余責が残る。今、韓璞達を派遣する。ただ、公命にこれ従え。」
 韓璞軍が南安まで戻った時、諸きょうの軍に進路を絶たれた。百日余り対峙し、遂に韓璞軍は矢も食糧も尽きてしまった。そこで、韓璞は軍中の牛を殺して兵卒に振る舞い、泣いて言った。
「お前達、父母に会いたいか?」
 兵卒は答えた。
「会いたい!」
「妻子に会いたいか?」
「会いたい!」
「生きて帰りたいか?」
「その通り!」
「ならば、俺の命令に従うか。」
「従います!」
 かくして、彼等は総攻撃を掛けた。丁度張良が金城の兵を率いてやって来たので、きょう軍を挟撃する形となり、大いにこれを撃破し、数千の首級を挙げた。
 しかし、韓璞軍はそれ以上進軍できずに引き返した。

 これより先、長安ではこんな歌が流行っていた。
「秦川は血の海で、腕まで浸かってしまう。ただ、涼州だけは安全だ。」
 漢の軍が愍帝政権を滅ぼすに及んで、「てい」や「きょう」と言った異民族(共に五胡の一つ)が隴右・よう・秦の地方を略奪し、住民の八割方が殺されたが、涼州のみは安全だった。
 大興元年、(318年)三月、張寔は牙門の蔡忠を使者として建康へ派遣した。この時、元帝は皇帝として正式に即位する。しかし、張寔は大興の年号を用いず、あくまで愍帝時代の建興の年号を使用した。

 大興三年(320年)、六月。劉弘の事件が起こった。
 劉弘は京兆生まれで、涼州の天梯山へ移住していたが、彼は妖術を使って人々を惑わしていた。彼の弟子になる者は千余人を数え、張寔の側近にも、彼へ帰心した者が大勢居た。
 帳下の閻渉と牙門の趙卯は劉弘と同郷だったが、劉弘は彼等に言った。
「天が、私に神璽を下さった。私は、必ずや涼州の王となるだろう。」
 二人共これを信じ、張寔の近習十余人と共に、張寔暗殺を企てた。
 この計画を知った張茂は即座に張寔へ知らせた。張寔は牙門将の史初を呼んで捕縛を命じようとしたが、その前に閻渉達が躍り込み、張寔を殺した。そこへ史初がやって来たので劉弘は言った。
「お前の主君は死んだ。今更俺を殺しても手遅れだぞ!」
 史初は激怒し、劉弘の舌を切った上でこれを捕らえ、姑蔵でさらし首とし、その党類数百人を誅殺した。
 張寔の息子の張駿はまだ幼かったので、左司馬の陰元達は張茂を涼州刺史・西平公へ推戴した。位に即いた張茂は領内へ大赦を行い、張駿を撫軍将軍とした。

 同年八月、張茂は張駿を世継ぎとすることを宣言した。

太興四年、二月。張茂が霊鈞台を築かせた。その高さは九仞(1仞は7尺〜8尺)。つまり、20m以上もの高さの壮大な台である。
 すると、ある夜、閻曾とゆう男が府の門を叩いて叫んだ。
「私は武公(張軌)から遣わされた使者だ。武公は言われた。『こんな台の為に人民をこき使って疲弊させるのか!』と。」
 だが、真実を知った役人が、閻曾を告発した。
「妖言で主君を誑かす者。死罪にするべきでございます。」
 すると、張茂は答えた。
「確かに人民をこき使いすぎた。閻曾は先代の名を借りて朕を戒めたのだ。それをどうして妖言などと言うのか!」
 張茂は台の増築半ばにて、労役を中止した。

 永昌元年(322年)、十二月。張茂は、韓璞将軍に隴西、南安を攻略させた。そしてここを占領し、秦州とした。

 明帝の太寧元年(323年)八月。趙の劉曜が隴上から西進して涼州を攻撃した。劉感は冀城の韓璞を攻め、呼延晏は桑壁の陰鑑を攻め、劉曜自身は二十八万の大軍を率いて黄河を攻め上った。その陣営は延々百余里も続き、金鼓の音は天地を揺るがし、黄河の水さえ沸き立たせる。趙茂が築いた黄河沿岸の砦は全て壊滅してしまった。
「このまま全軍を挙げて進撃し、姑藏まで落としてやる。」
 劉曜がそう広言した為、涼州は大騒動となってしまった。
 これに対して、参軍の馬岌が張茂に親征を勧めたところ長史の氾緯が大怒した。
「不逞なことを言う奴。斬罪に値する!」
 だが、馬岌は怒鳴り返した。
「口先だけの学者風情は黙ってろ!お前如きの小才で国家の大計が謀れるか!そもそも、朝廷の御為に劉曜を滅ぼすことこそ、明公親子積年の宿願だったのだ。今、その劉曜が自分の方から向かって来ている。そして、明公の挙動は、天下全ての軍閥が注視しているのだ。だからこそ、ここで信義と勇気を誇示せねばならぬ。そうやって、隴・秦の人民を奮い立たせるのだ。例えかなわないとしても、出撃せずにはおられんのだ!」
 張茂は言った。
「善し。」
 そして、石頭(姑藏の東にある)まで出陣した。
 石頭に陣を張ると、張茂は参軍の陳珍へ言った。
「劉曜は三秦の軍勢を率い、勝ちに乗じて席巻している。どうすればよいか?」
「劉曜の軍隊は、数が多いだけ。精鋭兵は少なく、大半は征服されたばかりの「てい」や「きょう」の兵卒。彼等はまだ劉曜から恩愛を受けたわけではありませんので、彼を主君として敬愛しておりません。その威勢に仕方なく従っている烏合の衆です。更に、劉曜は、山東に大敵を控えております。持久戦に持ち込めば、顧後の憂いも大きくなり、我等と河西の地を荒そう段ではなくなりましょう。もし、二旬を過ぎても敵軍が退却しなければ、私が敵を蹴散らすのに、二千の老残兵でも十分でございます。」
 張茂は大いに喜び、陳珍へ韓璞救援を命じた。
 一方、趙の諸将は先を争って渡河を望んでいた。しかし、劉曜は言った。
「我が軍は勢い盛んではあるが、その兵卒の三人に二人までは威勢を畏れて仕方なく従っているような連中だ。そして頼みと為す中核の軍卒は疲弊しきっていて役には立たん。ここは、せいぜい総攻撃の格好だけつけて、敵を脅しつけよう。もしも旬日のうちに張茂からの使者が来なければ、不本意だが退くしかない。」
 果たして張茂は、迎撃の準備をする一方、和睦の使者も派遣した。劉曜へ献上した馬、牛、羊、珍宝は挙げて数えることもできない。ここに於いて劉曜は、張茂へ「侍中、都督涼・南・北秦・梁・益・巴・漢・隴右・西域雑夷・匈奴諸軍事、涼州牧」の官職を与え、涼王に封じ、九錫を与えた。

 劉曜が兵を退くと、張茂は霊鈞台の工事を再開した。そこで、別駕の呉紹が諫めた。
「明公が城を修備したり台を築かれたりなさるのは、劉曜の来寇に懲りたからでしょう。しかし、愚考いたしますに、人心が懐かなければ、いくら堅固な要塞に居しても臣下達の嫌疑を醸すだけでございます。士民からの宿望を失い、城に頼るとゆう怯弱の形を示せば、隣敵は我等を侮り様々な陰謀を企てましょう。そうなれば、天子を補佐して諸侯に覇たることなど、どうしてできましょうか!どうかこの労役を中止し、民力を培われて下さい。」
 すると、張茂は答えた。
「亡き兄が刺し殺された時、忠臣義士の一人も居なかったと申すのか!不意の禍が起こった時には、智勇兼備と言っても手を施す暇がないのだ。だからこそ、王公が険阻な砦を構え、勇者でさえ警備を厳重にするとゆうのが古の道であるぞ。今、我が国はまだ騒乱のただ中にある。泰平の理屈で世を渡るわけにはいかん。」
 遂に、工事を続行した。

 大寧二年、五月。張茂は病に倒れた。彼は世継ぎの張駿の手を執り、涙を零した。
「我が家は、孝友忠順と天下に評判の一族だ。今、確かに天下大乱の時機ではあるが、お前はこの家訓を遵守して決して見失ってはならんぞ。」
 又、臣下達へ言った。
「我が官位は陛下から拝受したものではない。志を持って集まった者が、このようなことを誉れとしてはならんぞ。だから、我が死ぬ時は白服を着せよ。決して朝服で埋葬してはならない。」
 この日、張茂は息を引き取った。
 さて、愍帝の使者としてやって来た史淑は、役目が済んだ後も帰る場所がなく、姑藏で暮らしていた。そこで、左長史の氾緯と右長史の馬謨は、史淑の手で張駿へ大将軍、涼州牧、西平公の官職を授けさせ、領内に大赦を行った。
 前趙の主君劉曜は使者を派遣し、張茂へ太宰の職を追賜し、成烈王と諡した。又、張駿へは大将軍、涼州牧、涼州王の官位を授けた。

 同年十二月。枹干は、涼州の中でも唯一黄河の南側にある土地である。涼州の将辛晏がここを拠点として独立の構えを取った。張駿はこれを討伐しようとしたが、従事の劉慶が言った。
「覇王が出陣する以上、天の時と人の和に合致しなければなりません。そもそも、辛晏は凶暴残忍な男ですから、必ず滅亡します。そうゆう相手を討伐するのに、わざわざ飢饉の歳に大挙し、寒い盛りに城攻めを行われるつもりですか!」
 張駿は納得し、討伐を中止した。

 張駿は参軍の王陟を和平の使者として趙へ派遣した。劉曜は言った。
「今、貴州とは和平を結んでいるが、卿はこの友好を保たせることができるかな?」
 すると、王陟は答えた。
「できません。」
「君はよしみを結ぶために来たのだろう。それが『できない』とはどうゆう訳だ?」
「昔、斉の桓公が貫沢で盟約を結んだ時、つまり彼が覇者として始めて諸侯へ号令を掛けた時ですが、斉の桓公はこの大切な役目に兢々としとおりましたので、諸侯は召集されなくても進んでやって来ました。それが葵丘での盟約の時には、桓公は覇者として奢り高ぶりましたので、嫌気がさして斉に背いた諸侯が九カ国も出てしまいました。
 ですから、趙国がいつでも今のようでしたら、きっと修好できましょう。しかし、主君が傲慢になり、政治が乱れましたら、臣下達でさえ造反を考えてしまうもの。ましてや隣国がよしみを通じる筈がございません。」
 劉曜は頷いた。
「君は涼州の君子と言うべきだな。使者としては善い人選だ。」
 かくして、王陟を厚く礼遇して涼州へ帰らせた。

 大寧三年、二月。元帝崩御の悲報が涼州へ届き、張駿は三日の喪に服した。
 この頃、嘉泉に黄龍が現れた。氾緯達はこれを祥瑞と見なし、これをきっかけに改元するよう乞うたが、張駿は許さなかった。
 この月、枹干の辛晏が降伏してきた。

 成帝の感和元年(326年)。張駿は、趙の来寇を畏れ、隴西・安南の二千世帯の民衆を、姑藏へ移住させた。更に、成とよしみを結ぶことを考え、成の主君の李雄へ、帝号を取り下げ晋の藩国となることを勧めた。すると、李雄は返事をよこした。
「私は部下達から推戴されてこの地位へ就いただけであり、帝王になりたかったわけではない。本心を言えば、晋皇室の忠臣として夷敵を払いたかったのだ。ただ、晋皇室が長い間衰退していたので、住民の人望を集めねばならず、帝王を称せざるを得なかった。今、貴公からの勧めがあったが、これを善いきっかけにして、帝号を取り下げようと思う。」
 これ以後、成とは使者が頻繁に行き来するようになった。

 感和二年。趙の軍隊が後趙に大敗したとの報告が入ったので、張駿は趙から貰った官爵を撤廃し、再び晋の大将軍、涼州牧を名乗った。又、武威太守竇濤、金城太守張良、武興太守辛巖、揚列将軍宋耳達へ数万の兵卒を与え、韓璞と合流して趙の秦州諸郡を攻略するよう命じた。
 趙は南陽王胤に迎撃を命じ、胤は狄道へ駐屯した。枹干護軍の辛晏が急を告げたので、張駿は韓璞と辛巖を救援に向かわせた。
 韓璞は沃干嶺に陣取った。辛巖は速戦を望んだが、韓璞は言った。
「この夏以来、天文の動きが悪い。軽々しく動いてはならぬ。それに、劉曜は石勒と戦っているので、胤もいつまでも我等と対峙するとゆう訳にはいくまい。」
 こうして、彼等は川を挟んで七十余日、胤軍と睨み合った。
 十月、韓璞は兵糧を金城へ運ぶよう辛巖へ命じた。それを知って、胤は言った。
「韓璞の兵力は我々の十倍。その上我々は兵糧が少なく持久戦ではかなわなかった。今、敵が軍を分けて兵糧を運ぶとゆうのは、天の配剤か。ここで辛巖を破れば、韓璞も自滅する。」
 そこで、三千騎を率いて沃干嶺で辛巖を襲撃し、これを破った。そのまま彼等は韓璞の陣営へ迫り、韓璞も大敗した。
 胤は、勝ちに乗じて追撃した。黄河を渡った後、令居を攻め抜き、二万の首級を挙げた。そして、その軍は振武まで進撃し、河西地方は恐慌を来した。
 取り残された張良と辛晏は数万の兵卒と共に趙へ降伏した。こうして、涼州は河南の土地を全て失った。

 感和三年。趙は、あいかわらず後趙との戦争を繰り返している。そこで張駿は軍隊を再編成して長安を襲撃しようと考えた。すると理曹郎中の索詢が諫めた。
「劉曜は確かに東征へ出ておりますが、息子の劉胤が長安を守っており、易々とは落とせません。仮に、少しばかりの戦果を建てたとしても、彼等がもし東方と和睦でもすれば、全力を挙げて報復に出ます。そうならないとは言い切れませんよ。」
 張駿は、出陣を中止した。

 感和四年、八月。後趙は、遂に趙を滅ぼした。
 感和五年。趙が滅亡したため、張駿は河南の失地を回復しようと、狄道へ五つの軍団を屯営し、後趙との国境とした。
 六月、後趙では鴻臚の孟毅を使者として涼へ派遣し、張駿を征西大将軍、涼州牧に任命し、九錫を加えた。しかし、張駿は後趙の臣下となることを恥じて、この官位を受けず、孟毅を抑留した。

 感和七年。涼州の幕僚達は、張駿へ王号を勧めた。秦、涼二州の牧となり、魏の武帝や晋の文帝の故事に倣って、公卿百官を設置するように乞うたのだ。しかし、張駿は言った。「それは臣下として口にすべき言葉ではない。敢えて口にする者は罰する!」
 しかし、領内の人々は皆、張駿のことを「王」と称した。
 この年、張駿は息子の張重華を世継ぎとした。

 感和八年。初め、張駿は成を通って建康へ使者を派遣しようと思ったが、成の李雄が許さなかった。そこで、張駿は治中従事の張淳を派遣し、成の臣下と称し、通行を許可して貰おうとした。李雄は偽ってこれを許可したが、盗賊の仕業に見せかけて途中で殺そうと考えていた。ところが、蜀の民で橋贊とゆう男がこの陰謀を知り、密かに張淳へ告げた。そこで、張淳は李雄へ言った。
「我が君が私を異国へ派遣し、変わらぬ忠誠を建康へ伝えようとしましたのは、陛下が忠義を喜ぶと聞き、その美徳を完遂させようとの想いからです。陛下がもしも私を殺そうとお考えならば、なにとぞ町中で斬罪とし、大いに宣伝なさって下さい。
『涼州は古いよしみを忘れず、未だに東晋へ使者を派遣して居る。その主君は聖にして臣下は明哲。それが発覚したによって、死刑と為す。』と。
 そうすれば、陛下の正義は遠くまで宣伝され、天下の万民が陛下へ服従するでございましょう。
 今、盗賊に命じて私を殺させようとなさって居られるそうですが、これでは賞罰があらわになりません。それでは、天下に規範を示すことができないではありませんか。」
 李雄は大いに驚いていった。
「君を殺すなどとんでもない。きっと誰かの勘違いだ。」
 司隷校尉の景騫が李雄に言った。
「張淳は壮士。我が国に留めて臣下としましょう。」
「確かに奴は壮士だ。だからこそ、そのようなことを肯べる筈がない!しかし、まあ、ものは試し。何か策があるのならやって見ろ。」
 そこで、景騫は張淳に言った。
「今は暑い盛りです。まずは下役人でも先触れとして派遣し、涼しくなってから出かけられては如何ですか?」
「うち続く大乱で、首都が陥落し、玉体は南へ移られた。民は塗炭の苦しみを味わい、これを救う術もない。この最中だからこそ我が君は、私を建康へ派遣して、忠節をなくさない者が居ることを天下に示そうとなさっているのだ。この事の重さを思うなら、なんで下役人などに任せられようか。例え火の山が在ろうが、沸き立つ海が横たわろうが、それを乗り越えてでも行かねばならぬ。ましてや暑いだの寒いだの、そんなことに構って居られようか!」
 すると、李雄が言った。
「君の主君の英名は世を覆い、領土は広く兵卒は強い。皇帝を自称して楽しみを極めれば宜しかろうに。」
「我が君は、祖父の代から忠貞で知られております。今、夷狄が我が物顔で振る舞い、皇室は疎開したまま。この恥を雪ぐ日まで、臥薪嘗胆の毎日を送っております。何で楽しむ暇がありましょうか!」
 李雄は恥じ入って言った。
「我が祖父とて、晋の臣下だった。ただ、天下大乱の時機に六郡の民がこの州へ逃げ込み、その移民達から推戴されて今日へ至っただけであった。建康が大晋を中興してくれるのなら、我等も国を挙げてそれを補佐せねばならない。」
 そして、張淳を厚くもてなした。
 こうして張淳は、建康への使者としての務めを無事に果たすことができた。

 さて、話は遡るが、以前、敦煌では計吏の耿訪を長安へ派遣していた。長安が陥落し愍帝が前趙へ降伏した後、耿訪は漢中経由で建康へ逃げ込んだ。彼は「涼州へ使者を派遣して慰撫するように。」と、屡々上書していた。そこで朝廷は耿訪を守侍御史に任命し、隴西の賈陵ほか十二名を配下につけ、張駿へ鎮西大将軍を授ける詔を持たせて派遣した。
 ところが、この一行が梁州まで来た時、通行止めにあってしまった。そこで彼等は商人に姿を変えて苦難の旅を続け、この年、涼州へ到着した。鎮西大将軍を拝受した張駿は、部曲督王豊を派遣して報謝した。

 感和九年、二月。朝廷は耿訪と王豊を派遣して、張駿を大将軍、都督陜西・よう・秦・涼州諸軍事の印受(正しくは「糸/受」)を授けた。これ以降、涼では毎年、朝廷へ使者を送った。梁、涼の通路が開けた為である。

 感康元年(335年)。初め、張軌と二人の息子張寔、張茂は河右に割拠したとは言っても、戦争のない年はなかった。だが、張駿に及んで、ようやく平和になってきた。張駿は制度の不備を改修し、文武の官吏をよく看て、能力に応じた官職を与えた。これによって、民は富み軍事力は増強したので、近隣の人々から賢君と称されていた。
 国力が増強した後、張駿は楊宣将軍に西域討伐を命じた。楊宣は、クチャ、ゼンゼンを討伐した。これによって、他の諸国も属国と称して貢物を捧げてくるようになった。
 張駿には、秦・よう併呑の野望があった。そこで、使者を派遣して朝廷へ言った。
「石勒や李雄は既に死にましたが、(成の李雄は感和九年、卒)石虎や李期が後を継いで反逆を続けております。民が陛下から離れておりますと、時が経つに従って、老人は死んで行き、陛下の御恩を知らぬ若者達ばかりが増えて行きます。こうして、皇室への恋慕の心は日に日に衰えて行くのです。復興を考えないではいられません。どうか、司空の鑑と征西将軍の亮の水軍を江・べんへ派遣し、我等と呼応して遠征を行われて下さい。」

 感康五年、九月。張駿は明堂を建て、先祖を祀った。十一月、世継ぎの張重華を涼州の摂政とした。

 感康六年、張駿は別駕の馬先を派遣して、後趙へ入貢した。その上表文が傲慢だったので、石虎は怒り、馬先を斬ろうとした。すると、侍中の石璞が諫めた。
「今、国家の優先事業は、東晋討伐です。河西など片田舎。気にすることはありません。今、馬先を殺すと、必ず張駿を討伐せねばならず、兵力が二分されます。そうすると、建康政権が更に数年間延命する事となります。」
 そこで、石虎は処刑を思いとどまった。ちなみに、石璞は石苞の曾孫である。

 穆帝の永和元年(345年)、12月。張駿は西域を伐ち、一カ国を併呑した。
 この年、張駿は、武威を始めとする十一郡を涼州とし、世継ぎの張重華を涼州刺史とした。又、興晋を始めとする八郡を河州とし、寧じゅう校尉の張灌を刺史とした。そして敦煌を始めとする三郡と西域都護の三営を沙州とし、西胡校尉の楊宣を刺史となした。
 張駿自身は、大都督、大将軍、仮涼王、督摂三州と自称した。そして祭酒、郎中、大夫、舎人、謁者などの官を置き、官号も全て皇帝を真似てその名称を変更した。車服旌旗も、全て王者を真似たものだった。
 永和二年、五月。西平忠成公張駿が没した。官吏達は、世継ぎの張重華を使持節、大都督、太尉、護きょう校尉、涼州牧、西平公、仮涼王とし、領内に大赦を行った。又、嫡母の厳氏を尊んで大王太后と為し、母の馬氏を王太后と為した。

 後趙の将軍王擢が涼を攻撃した。武街(隴右の一軍営)を襲撃し、護軍の曹権と胡宣を捕らえ、七千余世帯の住民を、よう州へ強制移住させた。又、後趙の涼州刺史麻秋と孫伏都将軍が金城を攻略し、太守の張沖は降伏。涼州の民は恐怖におののいた。
 これに対して、張重華は領内の兵卒を総動員し、征南将軍の裴恒を総大将にして趙軍を迎撃させた。裴恒は広武まで出向いたが、そこで砦を築いて、しばらく戦わなかった。
 涼州司馬の張耽が張重華へ言った。
「国家の存亡は兵にあり、兵の勝敗は将にあります。今、将軍を推挙する者の大半は、古くからの宿将を挙げておりますが、韓信の抜擢は年功の故ではありませんでした。そう、名君が推挙する場合は常人を選ばず、才覚を持った人間に大事を任せるのです。今、強敵が攻めてきており、諸将は前進せず、人情は動揺しております。この危機に当たって使える者は、主簿の謝艾しかおりません。彼は文武の才を兼備しております。必ずや後趙を迎撃するでしょう。」
 そこで、張重華は謝艾を召し出して方略を尋ねた。すると、謝艾は答えた。
「七千の兵卒が在れば、撃退して見せましょう。」
 そこで張重華は、謝艾を中堅将軍に任命し、五千の兵卒を与えて麻秋を攻撃させた。
 謝艾が兵を率いて振武から出陣すると、夜、二羽の梟が鳴いた。
 謝艾は言った。
「六博によると、『梟を得る者は勝つ』とゆう。今、梟が鳴いた。これは吉兆。必ず勝てる。」
 謝艾軍は進撃して後趙軍と戦い、大勝利を収めた。挙げた首級は五千。張重華は、謝艾を福禄伯とした。

 永和三年、四月。趙の麻秋が枹干を攻めた。晋昌太子湯の郎坦は、籠城が難しいと見て、枹干城を放棄することを提案した。すると、武成太守の張悛が言った。
「枹干城を放棄したら、兵卒が動揺する。それでは勝てん。」
 すると、寧じゅう校尉の張據がこれに同意し、枹干城を固守した。
 麻秋の軍勢は八万。枹干城を幾重にも取り巻き、雲梯をズラリ揃え、トンネルまで掘り、百方から同時攻撃する有様だった。しかし、枹干城はこれを善く防ぎ、敵に数万人の打撃を与えた。そこで、後趙王石虎は劉渾将軍に二万の兵を与えて増援軍として派遣した。
 一方、涼の晋昌太守の郎坦は、自分の発案が却下されたことに不満を持ち、軍士の李嘉へ命じて、趙兵千人を密かに城壁へ導かせた。だが、張據は部下を励まして防戦し、二百人を殺した為、趙兵は退却した。張據は趙の城攻めの道具を焼き払う。遂に、麻秋は大夏まで退却した。
 石虎は、中書監の石寧を征西将軍に任命し、併・司二州の兵卒二万人を与えて秋麻の後詰めとした。張重華の将宋秦は、二万戸の領民を率いて趙へ降伏した。
 張重華は謝艾を使持節、軍師将軍に任命し、三万の兵卒を与えて臨河まで進軍させた。謝艾は車に乗り、白服を着、太鼓を鳴らして進軍した。これを望み見て、麻秋は怒った。
「謝艾は年少の書生。しかもあの格好は何だ。俺を愚弄するのか!」
 そこで、三千の精鋭兵に突撃させた。謝艾の側近達は大いに慌て、ある者は謝艾へ対して乗馬を勧めたが、謝艾はこれを断り、車から降りると、椅子を持ってこさせた。そしてそれに座ってあちこちをさしまねいたので、趙兵は伏兵を恐れて攻撃をぐずついた。その間に張瑁将軍が別道から趙軍の背後へ回り、攻撃した。趙軍は混乱して退いたので、謝艾は勢いに乗って進撃し、大いに敵を破った。杜勲、汲魚の二将を斬り、捕らえた敵兵は一万三千。麻秋は単騎で大夏まで逃げ帰った。

 五月、石寧が再び攻撃してきた。十二万の軍勢で河南へ駐屯し、劉寧と王擢は晋興、広武、武街を抜き、曲柳まで進撃した。張重華は牛旋将軍を差し向けたが、彼は枹干まで退いて守りを固めた。姑藏は大いに動揺した。
 張重華は自ら出征して迎撃しようとしたが、謝艾は堅く諫めた。又、索遐も言った。
「主君は一国のかなめです。軽々しく動いてはなりません。」
 そこで、謝艾を使持節、都督征討諸軍事、行衛将軍に、索遐を軍正将軍に任命し、二万の軍勢を与えて迎撃に向かわせた。
 この間に、別将の楊康が、劉寧と戦い、沙阜にてこれを撃破した。劉寧は金城まで退却した。

 七月、石虎は又も涼攻略を断行した。孫伏都、劉渾の両将へ二万の兵を与えて麻秋と合流させ、彼等は長躯河を渡り、金城の北へ長最城を築いた。
 これに対して謝艾は軍を整えた。その出陣の儀式の最中に風が吹いて旌旗が全て南を指した。すると、索遐が言った。
「風が号令を掛けた。今、全ての旌旗は敵を指している。これこそ天の意志だ。」
 謝艾は神鳥に陣を布いた。王擢はこれと戦ったが破れ、河南まで逃げ帰った。
 八月、謝艾は進撃して麻秋と戦い、これを撃破。麻秋は金城まで逃げ帰った。
 この報告を受けて、石虎は嘆いて言った。
「俺は、一州の兵だけで、九州を平定した。それが今、九州の総力を挙げて、一つの枹干を落とせない。奴のもとに有能な将軍達が居る限り、手が出せん!」
 謝艾は、姑藏へ帰る途中、反旗を翻した其骨真を討伐し、平定した。

 同年七月、趙の麻秋が、又も襲撃した。そして今回は、涼将張瑁を破り、三千余の首級を挙げた。枹干護軍の李逵は七千の部下と共に趙へ降伏した。これによって、涼の河南の領土は皆趙に奪われてしまった。

 同年十月、晋皇帝の使者愈帰が涼州へ来て、張重華へ侍中、大都督、督隴右・関中諸軍事、大将軍、涼州刺史、西平公の称号を授けた。張重華は涼王の爵位を望んだが、愈帰は詔を貰うことを引き受けなかった。そこで重華は、愈帰の友人である沈猛に説得させようと謀った。そこで、沈猛は私的に愈帰と会い、その席で言った。
「我が君は、数世代にも亘る晋の忠臣。それが、かえって鮮卑にも劣るとはどうゆう事かな?朝廷は、慕容光(正しくは「皇/光」)を燕王へ封じたではないか。それなのに、我が君の官職はたかだか大将軍。これで忠賢を褒勧できるのか!貴公が建康へ帰ったら、我が君が涼王となれるよう運動してはくれぬか。人の臣下となって使者に出たのだ。いやしくも社稷に役に立つことならば、断じて行うべきである。」
 すると、愈帰は答えた。
「その言葉は間違っている。昔、堯・舜・夏の三代の頃は、主君は王と名乗り、爵位では、公爵が最高のものだった。それが、周王室の衰退によって、楚や呉が始めて王を名乗るようになったのである。しかしながら、この時、諸侯は彼等を非難しなかった。彼等を野蛮人扱いしていたからだ。もしもこの時、王と名乗ったのが斉や魯だったら、諸侯達は彼等に総攻撃を加えたに違いない。
 漢の高祖(劉邦)は、確かに韓信や彭越を王としたが、後に彼等を誅殺した。してみるとこの時の王号の賜下は、彼等を優遇したのではなく、一時的に引き留めるための単なる方便だったと判る。
 今上の陛下は、涼公の忠と賢を貴べばこそ、最高の公爵位を賜下し、藩塀の任を与えたのだ。これこそ寵栄の極みだ。鮮卑などの野蛮人と、どうして比べ物になろうか!
 それに、『功績に大小があるから、褒賞には重軽がある』と聞いている。今、涼公は位を継いだばかりで、晋へ対して功績があったわけではない。この状況で王号を与えたら、中原に割拠して勝手に趙や燕といった国を建てた野蛮人共を一掃して、陛下を洛陽へ迎え入れるような手柄を建てた時、どんな爵位を以てこれに加えればよいのだ?」
 これを聞いて、張重華は王号を諦めた。

 永和五年、九月。涼州の官属達は、張重華を宰相とし、涼王、よう・秦・涼三州牧とするよう、連名で朝廷へ請願した。
 この頃張重華は、寵愛する臣下達へ銭帛を屡々賜下していた。又、臣下達の間では賭博が流行り、政治がだんだん荒廃してきた。そこで、徴事の索振が諫めた。
「先王は夜遅くまで勤められ、倹約の成果もあってようやく府庫が満ちたのです。その努力も、ひとえに野蛮人共を一掃して四海を平定しようと思えばこそです。
 殿下が即位された当初、強大なる趙はひっきりなしに侵略してきました。この時、褒賞を惜しまずに賜下したからこそ、兵卒達は死力を尽くして戦い、どうにか社稷を保つことができました。今、蓄えは底を尽きかけておりますのに、強敵は健在。どうして功績のない者へ軽々しく褒美を賜下することができましょうか!
 昔、漢の文帝は、自ら万機を裁断し、朝廷への報告は終日かけても終わらない有様でした。ですが、その努力があってこそ、中興の業を達成できたのです。今、我が国で朝廷への報告は一月余りも滞ったまま。下々の実状が上の者に伝わらない。冤罪に困っている人々も大勢おります。これでは我が君を、明君とは呼べないではありませんか。」
 張重華は謝った。