長安恢復
 
 八月戊辰、上は諸将を労って宴会を開き、長安攻撃に派遣しようと、郭子儀へ言った。
「事の成否は、この一挙にある!」
 対して言った。
「今回勝てなければ、臣は必ずこれに死にます!」
 辛未、御史大夫崔光遠が駱谷にて賊を破った。
 光遠の行軍司馬王伯倫、判官李椿が二千人を率いて中渭橋を攻撃し、橋を守っている賊兵千人を殺した。勝ちに乗じて苑門へ進む。
 先に武功に駐屯していた賊軍がこれを聞き、急いで帰ってきた。苑北にて官軍と遭遇し、合戦する。伯倫を殺し、椿を捕らえて、洛陽へ送る。
 しかしながら、これ以後賊はもう武功へ進駐しなかった。
 郭子儀は、回乞の兵が精鋭なので、もっと徴兵して賊を撃つよう上へ勧めた。懐仁可汗はその子葉護と将軍帝徳等へ精鋭兵四千余人を与えて鳳翔へ派遣した。上は葉護を謁見し、宴会を催して慰労し、求める物を賜下した。
 丁亥、元帥廣平王俶は朔方等の軍及び回乞、西域の衆十五万を率い、鳳翔を出発した。号して二十万。
 俶は葉護と会って、兄弟の約束をした。葉護は大いに喜び、俶を兄と呼んだ。
 回乞が扶風に到着すると、郭子儀は留めて三日間宴会を続ける。葉護は言った。
「国家は危急です。遠くから助けに来たのに、どうしてのんびりと食べていられましょうか!」
 宴会が終わると、すぐに行軍した。その軍には、一日当たり、羊二百口、牛二十頭、米四十斛を給付する。
 庚子、諸軍が共に出発する。壬寅、長安の西へ到着。香積寺の北、豊(「水/豊」)水の東へ布陣する。李嗣業を前軍、郭子儀を中軍、王思禮を後軍とする。賊軍はその北に十万で布陣する。
 李帰仁が出て戦いを挑んだが、官軍はこれを追い払い、敵陣へ迫った。しかし、賊軍が一斉に進むと、官軍は少し退却した。そこを賊軍に乗じられて、軍中は驚き乱れた。賊は、争って輜重を奪う。
 嗣業は言った。
「今日は身を以て賊の餌とならなければ、軍は全滅だ。」
 そこで肌脱ぎとなり、長刀を執って陣の前に立ち、叫びながら奮戦した。その刀に当たる者は、人馬もろともに砕ける。敵兵数十人を殺したので、陣はやや静まった。
 ここにおいて嗣業は前軍に各々長刀を持たせ、これを率いてひめがきのようになり前進した。自ら士卒に率先し、向かうところは斬り靡かせた。
 都知兵馬使王難得が、その裨将を救おうとすると、賊の射た矢が眉に当たり、皮が垂れ下がって目を塞いだ。難得は自分で矢を抜き、皮を剥いだ。流血は顔を覆ったが、戦い続けた。
 賊は、陣の東へ精鋭兵を伏せており、官軍の後方を襲撃しようとしていたが、偵察者がこれを知った。朔方左廂兵馬使僕固懐恩が回乞を率いてこれを襲撃し、殆ど殲滅する。これによって、賊軍の士気は阻喪した。
 李嗣業は又、回乞と共に賊陣の後方へ出て、大軍と挟撃した。午から酉まで、六万級の首を斬り、大勢の賊兵が溝へ落ちて死んだ。賊軍は、遂に大いに潰れた。敗残兵は走って入城し、夜になるまで叫声が止まなかった。
 僕固懐恩が、廣平王俶へ言った。
「賊は城を棄てて逃げました。二百騎で追撃させてください。安守忠や李帰仁等を縛り上げて見せます。」
 俶は言った。
「将軍は戦って疲れている。しばらく休んで、明け方になってから追撃せよ。」
「帰仁と守忠は、賊の驍将です。何度も勝った後に敗北したのは、天が我等へ賜ったのです。どうして逃がせましょうか!彼等がまた衆を得て我等の患いとなったら、悔いても及びませんぞ!戦いは神速を尊びます。明旦とは何ですか!」
 俶は固く止め、陣営へ帰した。それでも懐恩は固く請い、行っては又帰り、一夜のうちに四、五回も起きた。
 明け方遅く、守忠、帰仁と張通儒、田乾眞は皆逃れ去ったとの報告が入った。
 癸卯、大軍が西京へ入った。
 当初、上は少しでも早く長安へ入りたくて、回乞と約束した。
「城を回復したなら、土地や士庶は唐の物だが、金帛や子女は皆、回乞へ与える。」
 ここに至って、葉護は約束の履行を望んだ。すると、廣平王俶は葉護の馬の前にて拝んで言った。
「今は、西京を回復したばかり。もしも掠奪を行えば、東京の人は皆、賊のために固守するようになり、奪取できなくなります。約束は、どうか東京まで待ってください。」
 葉護は驚いて、馬から下りて答拝し、跪いて王の足を捧げ、言った。
「殿下の為に、東京まで参りましょう。」
 そこで、僕固懐恩と回乞、西域の兵を率いて城の南を過ぎ、産(「水/産」)水の東へ宿営した。
 百姓、軍士、胡虜は俶を見ると拝み、皆、泣いて言った。
「廣平王はまことに華、夷の主です!」
 上は、これを聞いて喜んで言った。
「朕も及ばないぞ!」
 俶は、衆を整えて入城した。百姓老幼は道を挟んで歓呼し、泣き崩れた。俶は長安に留まって三日間鎮撫すると、大軍を率いて東へ出た。太子少傅カク王巨を西京留守とする。
 甲辰、戦勝の報告書が鳳翔へ到着し、百僚が入って祝賀した。上は、涙と鼻水を交々流した。即日、中使の啖庭瑶を蜀へ派遣して、上皇へ奏した。また、左僕射裴免(「日/免」)を京師へ入れて、百姓を宣慰した。
 上は、李泌を長安へ駿馬で呼び寄せた。到着すると、上は言った。
「朕は既に上皇へ、東へ帰るよう表にて請願した。朕は東宮へ戻って、臣子としての職務を復修しようと思う。」
 泌は言った。
「表には追いつけますか?」
「既に遠い。」
「上皇は、きっと戻ってきません。」
 上は驚いて理由を尋ねた。すると、泌は言った。
「理として、自然にそうなります。」
「どうすれば良い?」
「今、更に群臣達の賀表を出してください。それで言わせるのです。『馬蒐で留まることを請うてから、霊武にて兵をかき集め、今に及んで功を建てました。聖上は正式な即位を望んでいます。どうか速やかに京へ帰って、聖上の孝養の想いを遂げさせてください、』と。そうすれば宜しいでしょう。」
 上は、泌へ草稿を書かせた。それを読んで、上は泣いて言った。
「朕はもともと至誠の想いで万機を帰すことを願っていたのだ。だが、今、先生の言葉を聞いて、今までの過ちに気が付いた。」
 すぐに表を奉じて蜀へ行くよう、中使へ命じた。そして泌と共に酒を飲み、同じベッドで寝る。
 李輔国が、泌の持っている鍵を取り返すよう請うと、泌は、これを輔国へ預けるように請うた。上は、これを許す。
 泌は言った。
「臣は今、陛下の恩徳へ十分に報いました。再び庶民へ戻れたら、何と楽しいことでしょうか!」
 上は言った。
「朕は先生と長年憂患を共にしてきた。これからは共に楽しもうと思っていたのに、どうしてそんなに早く去って行くのか!」
「臣には、留まってはならない理由が五つあります。どうか陛下、臣が去るに任せて、臣を死なせないでください。」
「何を言っているのだ?」
「臣は陛下と会うのが早すぎました。陛下は、臣を重く用いすぎておりますし、寵愛が深すぎます。臣の功績は高すぎますし、才能が有りすぎます。ですから、留まることはできないのです。」
「今は眠ろう。後日議論しよう。」
「陛下は今、臣と共に寝ているのに、それでも請いを得られないのなら、後日になれば尚更無理です!陛下が臣の去ることを赦されないのは、臣を殺すことですよ。」
「卿がそこまで朕を疑っているとは思わなかった。どうして朕が卿を殺したりするものか!朕を句踐と同列に見るのか!」
「陛下が、臣を殺さないと言うから、臣は帰ることを求めるのです。もしも臣を殺すつもりなら、どうしてこんなことを言えましょうか!それに、臣を殺すのは陛下ではありません。『五つの理由』なのです。かつて陛下が臣のことをこのように扱ってくださったときでさえ、臣はなお、敢えて言えないことがあったのです。ましてや天下が既に安定した今、臣はどうして言えましょうか!」
 上はしばらくしてから言った。
「卿は、朕が卿の北伐の謀に従わなかったことを言っているのか!」
「そうではありません。どうしても口にできなかったのは、建寧の事だけです。」
「建寧は、朕の愛子だった。英果な質で、艱難の時に功があった。朕がそれをどうして知らなかっただろうか!だが、小人から詰まらないことを吹聴され、実の兄を殺害して世継ぎになろうと図ったから、朕は社稷の為にやむを得ず似これを除いたのだ。卿はその細かい事情を知っているのか?」
「もしもそんな心があったなら、廣平はきっと怨んでいるでしょう。ですが、廣平はいつも臣へ『あれは冤罪だ』と言い、涙を流して嗚咽なさるのです。臣が今、どうしても陛下の許を去らなければならないのは、これを言いたかったからです。」
「あれは夜半に廣平のもとへ行った。殺そうと思ったからだ。」
「それは讒言です。建寧のように孝友聡明な方が、どうしてそんなことをなさいましょうか!陛下は昔、建寧を元帥にしたがっていましたが、臣は廣平を用いるよう請いました。建寧にもしもそんな心があったならば、臣を深く怨んでいるはずです。それなのに、臣を忠義となし、ますます親しんでくれました。陛下、それを以てその心をお察しください。」
 上も泣き濡れて言った。
「先生の言う通りだ。しかし、『過去は咎めまい。』と言うではないか。朕はもう聞きたくない。」
「臣がこれを言ったのは、過去を咎める為ではありません。陛下に将来を慎んで欲しいだけです。昔、天后には四人の子息がありました。長男は太子弘。天后は摂政を望むようになると、彼が聡明なのを憎み、毒殺して、次男のヨウ王賢を建てました。賢は内心憂懼し、黄台瓜辞を書いて、天后を感悟させようとしましたが、天后は聞かず、賢はついに黔中にて死にました。その辞にあります。『黄台の下に瓜の種を播く。瓜が熟すと、離ればなれ。瓜を一つ摘むのは良い。二つ摘んだら、残り少なくなった。三つ目までは摘めるけれど、四つ目を摘んだら、もう蔓しか残らない!』今、陛下は既に一つ摘まれました。どうか二つ目を摘まないよう、慎んでお願い申し上げます。」
 上は、愕然として言った。
「どうしてそんなことがあるものか!卿はこの辞を記録しておいてくれ。朕は紳に書き留めておこう。」
「陛下の心で判ってくださればよいのです。どうして形で残す必要がありましょうか!」
 この時、廣平王には大功があり、良テイはこれを忌んで、彼を讒言する噂を流していた。だから、泌はこう言ったのだ。
 十月、成都への使者が帰って来た。上皇は、誥して言った。
「我は、剣南一道さえ貰えれば余生を過ごせる。もう、来なくてもよい。」
 上は憂懼して、為す術を知らなかった。すると、次の使者が帰ってきて、言った。
「上皇は最初、上からの東宮へ帰るとゆう表を得ると、食欲もなくして歩き回るだけで、帰りたがらなかったのです。しかし、群臣の表が至るに及んで、大いに喜ばれ、食欲も出て、出発の日を下誥されました。」
 上は李泌を呼び出して言った。
「皆、卿の力だ!」
 泌は、山へ帰ることを求めて止まなかった。上は固く留めたが、やむを得ず、衡山へ帰ることを許した。彼の為に山中へ室を築くよう郡県へ敕し、三品料を給付する。 

 九月、郭子儀は、番、漢の兵を率い、賊を潼関まで追撃した。五千級の首を斬り、華陰、弘農二郡を解放した。
 関東は、捕虜百余人を献上した。全員斬るよう敕が降りる。すると、監察御史李勉が上へ言った。
「今、元悪はまだ生きておりますし、天下の大半は賊に汚されました。陛下が龍興したと聞いて、心を洗って聖化を承ろうと思っていますのに、今、彼等を全員誅殺しては、天下を賊の方へ駆り立てるようなものでございます。」
 上は、これを赦免した。
 十月壬子、”武関にて賊を破り、上洛郡を解放した”と、興平軍が上奏した。
 張通儒等は敗残兵をかき集めて陜を保った。安慶緒は洛陽の兵を総動員してその御史大夫厳荘へ率いさせ、通儒と共に官軍を拒ませた。通儒の兵と併せて、歩騎はなお十五万の兵力である。
 己未、廣平王は曲沃へ進軍する。回乞葉護は、その将軍鼻施吐撥裴羅等へ軍を与えて南山の傍らの伏兵を探らせた上で、嶺北へ駐軍した。
 郭子儀等は新店にて賊軍と遭遇する。賊は山に依って布陣する。子儀等は、これと戦って押される。賊は遂に下山した。すると、回乞が南山からその背後を襲撃し、黄埃の中から十余矢を発射する。
 賊は驚いて顔を見合わせ、言った。
「回乞が来た!」
 遂に、潰れる。
 官軍と回乞はこれを挟撃して、賊は大敗する。屍が野を覆った。
 厳荘、張通儒等は陜を棄てて東へ逃げる。廣平王俶、郭子儀は陜城へ入った。僕固懐恩等は道を分けてこれを追う。
 厳荘は先に洛陽へ入り、安慶緒へ報告した。
 庚申、慶緒はその党を率いて苑門から出て、河北へ走る。捕虜としていた唐将哥舒翰、程千里等三十余人は殺して行く。許遠は偃師で殺された。
 壬戌、廣平王俶が東京へ入った。回乞はまだ満足しなかったので、俶はこれを患った。父老の請願で、羅錦一万匹を回乞へ贈ったので、回乞は掠奪をやめた。
 癸亥、上が鳳翔を出発した。太子太師韋見素を蜀へ派遣して、上皇を奉迎する。 

 乙丑、郭子儀が、左兵馬使張用済、右武鋒使渾釈之へ兵を与え、河陽及び河内を攻略させた。
 厳荘が来降する。陳留の人が尹子奇を殺して郡を挙げて降伏した。
 田承嗣は穎川にて来眞(「王/眞」)を包囲していたが、彼も又、使者を派遣して降伏する。郭子儀はこれを受けて、攻撃の手を緩めた。すると田承嗣はまた叛いて、武令cと共に河北へ逃げた。制を降ろして、眞を河南節度使とする。 

 丙寅、上が望賢宮へ到着した。東京からの勝報を得る。
 丁卯、上が西京へ入る。百姓は国門を出て奉迎した。その人の列は二十里も続く。彼等は皆、踊りまくって万歳を叫び、泣き出す者さえ居た。
 上は大明宮へ入居する。御史中丞崔器は、賊の官爵を受けた百官を含元殿の前に集め、頭巾と靴を脱がせて頓首謝罪させた。これを兵卒が取り巻き、百官へ見物させる。
 太廟は賊に焼き払われていた。上は素服にて廟へ向かって三日哭した。
 この日、上皇は蜀を出発した。
 廣平王俶が東京へ入ると、陳希烈を始めとする安禄山親子の官を受けた百官三百余人は、みな、素服で悲泣して罪を請うた。俶は、上旨を以て、これを赦し、ついで西京へ行くよう促した。
 己巳、崔器は、彼等を朝堂へ詣でさせ、西京の百官の時のように罪を請わせた。その後に、これを大理や京兆の獄へ繋いだ。その府県の、賊の駆使追捕を受けた所由人や祇承人等も、皆、捕まえて獄へ繋いだ。
 話は前後するが、汲郡の甄済は素行が高くて青巖山に隠居していた。安禄山は、采訪使、奏掌書記とする。済は、安禄山に異志があることを察し、仮病を使って家へ帰る。禄山は造反すると、蔡希徳へ処刑人二人をつけて刀で脅して彼を呼び出した。だが、済は首を伸ばして刀を待った。そこで希徳は、本当に病気だったと報告した。後に安慶緒もまた、使者を派遣して東京へ来るよう強制した。
 それから一ヶ月余りして、廣平王俶が東京を平定すると、済は立ち、軍門を詣でて上謁した。俶は、彼を京師へ派遣する。上は、三司へ館を造らせた。賊の官爵を受けた者へ、彼を列拝させてその心を羞じ入らせた。済を秘書郎とする。
 国子司業蘇源明は、病気と称して禄山の官爵を受けなかった。上は考功郎中、知制誥に抜擢する。
 壬申、上は丹鳳門へ御幸して、制を下した。
「賊の官禄を受けて賊の為に働いた士庶は、三司へ事情を聴取させる。戦争で捕虜となった者や、或いは住居が近すぎて賊と行き来した者は、皆、自首すれば罪を赦す。賊から汚された子女については、詰問してはならない。」
 癸酉、回乞葉護が東京から帰ってきた。上は、長楽駅まで百官を出迎えに遣る。宣政殿にて、上と宴をする。
 葉護は上奏した。
「軍中には馬が少ないのです。兵卒は沙苑に留めさせてください。馬をとってきてから、陛下の為に范陽の残党を掃除いたします。」
 上は、賜下してこれを遣った。
 十一月己丑、回乞葉護を司空、忠義王とする。毎年、回乞へ絹二万匹を贈る。これは、朔方軍まで取りに来らせることになった。
 十一月、廣平王俶と郭子儀が東京から帰って来た。上は、郭子儀を労って言った。
「吾の家国は、卿のおかげで再建した。」
  鎬が魯Q、来眞、呉王祇、李嗣業、李奐の五節度使を率いて河南、河東の諸郡を攻略し、全て下す。ただ、北海に據った能元皓、大同に據った高秀巖のみが降らなかった。
 郭子儀が東都へ戻ってくると、今度は河北を経営させた。
 同月、 厳荘を司農卿とする。 

 上は彭原に居た時、栗を九廟主とした。庚寅、長楽殿にて朝を享けた。 

 辛亥、禮部尚書李見(「山/見」)、兵部尚書呂煙(本当は、言偏)を詳理使とし、御史大夫崔器と共に陳希烈等の疑獄を詮議させた。
 見は殿中侍御史李栖均(「竹/均」)を詳理判官とした。栖均は多忙でも穏やかだった。人々は煙や器の刻深を怨み、見ひとりだけ誉れを得た。 

 戊午、上が丹鳳楼へ御幸し、天下へ恩赦を下す。ただ、安禄山と共に造反した一味と、李林甫、王ヘ、楊国忠の子孫は除いた。
 廣平王俶を楚王へ立て、郭子儀へ司徒を、李光弼へ司空を加える。その他の、蜀郡や霊武から随従して功績を建てた臣は、皆、進階し、それぞれへ応じて爵を賜り食邑を増加した。
 李登(「心/登」)、盧奕、顔杲卿、袁履謙、許遠、張巡、張介然、蒋清、龍(「广/龍」)堅等は皆、その子孫へ官位を加贈された。戦死者の家は、二年間賦役を免除する。郡県の来年の租、庸は三分の一を減らす。近いところは、郡名、官名を従来の名将に戻す。蜀郡を南京、鳳翔を西京、西京を中京とする。
 張良テイを淑妃とする。皇子南陽王係を趙王に、新城王僅を彭王へ、穎川王間(「人/間」)を?王に、東陽王廷(「人/廷」)を王へ、黄(「人/黄」)を襄王へ、垂(「人/垂」)を杞王へ、偲を召王へ、召(「人/召」)を興王へ、同(「人/同」)を定王へ立てる。
 議論する者の中には、張巡がスイ陽を守って去らなかった事と人を食べたことを罪として、人々を守れなかったことを非難した。だから、張巡の友人李翰は、彼の為に伝を作り、上表して、論評した。
「巡は、寡で以て衆を撃ち、弱を以て強を制しながら、江、淮を保って陛下の軍隊を待ったのですが、軍が到着した時には、巡は死んでいました。巡の功績は偉大です。それなのに、議論する者は、或いは巡が人を食べたとか、巡が死守したのは愚かだとか言います。善を遮り悪を揚げ、瑕を記録し用を棄てる。臣は、ひそかにこれを痛みます。
 巡が固守したのは、諸軍の救援を待っていたのです。ですが、救援軍が着く前に食糧が尽きました。そして、食が尽きてしまってから人を食べました。それは、彼の本意ではないのです。たとえ、巡が城を守る当初から人を食べることを念頭に置いていたとしても、数百の衆を犠牲にして天下を保全するのですから、臣はなお功績が過失を覆って余りあると考えます。ましてや本意ではなかったのです!
 今、巡は大難に死にました。苦難続きの人生で、ただ令名だけが彼の栄禄なのです。もし、これを今記録に残しておかなければ、時が経つと共に伝承されなくなり、巡の生き様が消え去ってしまいます。まことに悲しいではありませんか。 ですから臣は敢えて一巻を編纂し、献上いたします。どうか史官へ列べてください。」
 これによって、衆議は収まった。
 この後の赦令は李登にまで及んだが、ただ程千里だけは賊庭に捕虜となったので、褒贈へ預からなかった。 

 崔器、呂煙が上言した。
「賊官へ陥った者共は、国に叛いて偽に従ったのです。律に準じれば、全員死刑にするべきです。」
 上はこれに従おうとしたが、李見が言った。
「賊が両京を落とし、天子が南巡したから、人々は自分で我が命を守ったのです。彼等は皆、陛下の親戚や勲旧の子孫です。今、一概に法に背いたからといって処刑するのでは、恐らくは仁恕の道に背きます。それに、河北は未だ平定されていません。賊へ陥った群臣は、まだ多いのです。もしも寛大に接したら更生の道も開けますが、悉く誅殺したら、彼等は賊へ堅く結びつきます。書経に言います。『その巨魁を殲滅して、脅従は治むるなかれ(胤征)』と。煙、器は文を守って大礼に達していません。ただ陛下、これを図ってください。」
 累日論争し、上は見の意見に従った。罪を六等に分け、重い者は市で処刑。次は自殺させ、その次は重杖百。残りの三等は、流罪や貶である。
 壬申、城西南の一つ柳の下にて達奚c等十八人を斬る。陳希烈等七人は、大理寺にて自殺させた。杖刑は京兆府門で行う。
 上は、張均と張自を死刑にはしたくなかったが、上皇は言った。
「均も自は賊に仕えて要職に就いた。均等は、賊のために我が家事を壊したのだ。その罪は赦せない。」
 上は叩頭再拝して言った。
張説親子が居なければ、臣の今日はありません(粛宗は、母が懐妊したときに堕胎されそうになったが、説のおかげで生まれることができた)。臣が均、自を守りきれなかったことを死者が知ったならば、あの世で何の面目があって説に会えましょうか!」
 そして、地面に身を投げ出して泣き濡れた。上は、左右に助け起こさせて、言った。
「張自はお前のために嶺表への流罪としよう。だが、均は生かしておくことはできない。汝もこれ以上救命するな。」
 上は泣いて命令に従った。
 安禄山に従った官吏の中で、河南尹張萬頃だけは、賊の中にあって百姓を庇うことができたので、無罪となった。
 この頃、賊中から来た者があり、言った。
「安慶緒に従って業に居る唐の群臣は、廣平王が陳希烈等を赦したと聴いて、皆、自ら悼み、賊庭へ落ちたことを恨みました。ですが、陳希烈が誅殺されたと聞くに及んで、気持ちが変わりました。」

(臣光、曰く)名簿に載って人質を差し出して人臣となったのなら、死んでも二心を持たないものだ。希烈等は、あるいは相卿のように貴い身分となり、或いは一族に連なったりした。それでいて平穏な日々には、人主の過失を糺したり社稷の危機を救う為の一言の諫言もなく、主君に迎合して富貴を盗んだだけである。そして四海に動乱が起り乗輿が疎開するような時、彼等は生を貪って難を逃れようとし、妻子を顧恋して賊へ媚びて臣と称し、彼等の為に力を尽くす。こんな行いは、屠殺業の人々でさえ恥とするもので、犬馬にも劣る。そんな輩が全員命を全うし、元の官爵へ戻れるならば、これは諂諛の臣が大手を振って好き勝手できる。
 あの顔杲卿や張巡といった人々は、平和な時には地方にて下級官吏として抑えられ、戦乱になれば孤城に棄てられ、賊軍の手で粉々にされる。何と、善を為す者は不幸にして、悪を為す者が幸せなことか。朝廷は、忠義の臣下へ対して何と薄く、姦邪の者へ何と厚いことか!微賎の臣や随従の小者へ至っては、謀議には預かれず号令は聞かされず、朝に親征の詔を聞いて夕に天子の所在を見失えば、随従出来なかったと言って責められる。何と難しいことか!
 六等の議刑は当然のことだ。何を悔いることがあるか! 

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