長安恢復 |
八月戊辰、上は諸将を労って宴会を開き、長安攻撃に派遣しようと、郭子儀へ言った。
「事の成否は、この一挙にある!」 対して言った。 「今回勝てなければ、臣は必ずこれに死にます!」 辛未、御史大夫崔光遠が駱谷にて賊を破った。 光遠の行軍司馬王伯倫、判官李椿が二千人を率いて中渭橋を攻撃し、橋を守っている賊兵千人を殺した。勝ちに乗じて苑門へ進む。 先に武功に駐屯していた賊軍がこれを聞き、急いで帰ってきた。苑北にて官軍と遭遇し、合戦する。伯倫を殺し、椿を捕らえて、洛陽へ送る。 しかしながら、これ以後賊はもう武功へ進駐しなかった。 郭子儀は、回乞の兵が精鋭なので、もっと徴兵して賊を撃つよう上へ勧めた。懐仁可汗はその子葉護と将軍帝徳等へ精鋭兵四千余人を与えて鳳翔へ派遣した。上は葉護を謁見し、宴会を催して慰労し、求める物を賜下した。 丁亥、元帥廣平王俶は朔方等の軍及び回乞、西域の衆十五万を率い、鳳翔を出発した。号して二十万。 俶は葉護と会って、兄弟の約束をした。葉護は大いに喜び、俶を兄と呼んだ。 回乞が扶風に到着すると、郭子儀は留めて三日間宴会を続ける。葉護は言った。 「国家は危急です。遠くから助けに来たのに、どうしてのんびりと食べていられましょうか!」 宴会が終わると、すぐに行軍した。その軍には、一日当たり、羊二百口、牛二十頭、米四十斛を給付する。 庚子、諸軍が共に出発する。壬寅、長安の西へ到着。香積寺の北、豊(「水/豊」)水の東へ布陣する。李嗣業を前軍、郭子儀を中軍、王思禮を後軍とする。賊軍はその北に十万で布陣する。 李帰仁が出て戦いを挑んだが、官軍はこれを追い払い、敵陣へ迫った。しかし、賊軍が一斉に進むと、官軍は少し退却した。そこを賊軍に乗じられて、軍中は驚き乱れた。賊は、争って輜重を奪う。 嗣業は言った。 「今日は身を以て賊の餌とならなければ、軍は全滅だ。」 そこで肌脱ぎとなり、長刀を執って陣の前に立ち、叫びながら奮戦した。その刀に当たる者は、人馬もろともに砕ける。敵兵数十人を殺したので、陣はやや静まった。 ここにおいて嗣業は前軍に各々長刀を持たせ、これを率いてひめがきのようになり前進した。自ら士卒に率先し、向かうところは斬り靡かせた。 都知兵馬使王難得が、その裨将を救おうとすると、賊の射た矢が眉に当たり、皮が垂れ下がって目を塞いだ。難得は自分で矢を抜き、皮を剥いだ。流血は顔を覆ったが、戦い続けた。 賊は、陣の東へ精鋭兵を伏せており、官軍の後方を襲撃しようとしていたが、偵察者がこれを知った。朔方左廂兵馬使僕固懐恩が回乞を率いてこれを襲撃し、殆ど殲滅する。これによって、賊軍の士気は阻喪した。 李嗣業は又、回乞と共に賊陣の後方へ出て、大軍と挟撃した。午から酉まで、六万級の首を斬り、大勢の賊兵が溝へ落ちて死んだ。賊軍は、遂に大いに潰れた。敗残兵は走って入城し、夜になるまで叫声が止まなかった。 僕固懐恩が、廣平王俶へ言った。 「賊は城を棄てて逃げました。二百騎で追撃させてください。安守忠や李帰仁等を縛り上げて見せます。」 俶は言った。 「将軍は戦って疲れている。しばらく休んで、明け方になってから追撃せよ。」 「帰仁と守忠は、賊の驍将です。何度も勝った後に敗北したのは、天が我等へ賜ったのです。どうして逃がせましょうか!彼等がまた衆を得て我等の患いとなったら、悔いても及びませんぞ!戦いは神速を尊びます。明旦とは何ですか!」 俶は固く止め、陣営へ帰した。それでも懐恩は固く請い、行っては又帰り、一夜のうちに四、五回も起きた。 明け方遅く、守忠、帰仁と張通儒、田乾眞は皆逃れ去ったとの報告が入った。 癸卯、大軍が西京へ入った。 当初、上は少しでも早く長安へ入りたくて、回乞と約束した。 「城を回復したなら、土地や士庶は唐の物だが、金帛や子女は皆、回乞へ与える。」 ここに至って、葉護は約束の履行を望んだ。すると、廣平王俶は葉護の馬の前にて拝んで言った。 「今は、西京を回復したばかり。もしも掠奪を行えば、東京の人は皆、賊のために固守するようになり、奪取できなくなります。約束は、どうか東京まで待ってください。」 葉護は驚いて、馬から下りて答拝し、跪いて王の足を捧げ、言った。 「殿下の為に、東京まで参りましょう。」 そこで、僕固懐恩と回乞、西域の兵を率いて城の南を過ぎ、産(「水/産」)水の東へ宿営した。 百姓、軍士、胡虜は俶を見ると拝み、皆、泣いて言った。 「廣平王はまことに華、夷の主です!」 上は、これを聞いて喜んで言った。 「朕も及ばないぞ!」 俶は、衆を整えて入城した。百姓老幼は道を挟んで歓呼し、泣き崩れた。俶は長安に留まって三日間鎮撫すると、大軍を率いて東へ出た。太子少傅カク王巨を西京留守とする。 甲辰、戦勝の報告書が鳳翔へ到着し、百僚が入って祝賀した。上は、涙と鼻水を交々流した。即日、中使の啖庭瑶を蜀へ派遣して、上皇へ奏した。また、左僕射裴免(「日/免」)を京師へ入れて、百姓を宣慰した。 上は、李泌を長安へ駿馬で呼び寄せた。到着すると、上は言った。 「朕は既に上皇へ、東へ帰るよう表にて請願した。朕は東宮へ戻って、臣子としての職務を復修しようと思う。」 泌は言った。 「表には追いつけますか?」 「既に遠い。」 「上皇は、きっと戻ってきません。」 上は驚いて理由を尋ねた。すると、泌は言った。 「理として、自然にそうなります。」 「どうすれば良い?」 「今、更に群臣達の賀表を出してください。それで言わせるのです。『馬蒐で留まることを請うてから、霊武にて兵をかき集め、今に及んで功を建てました。聖上は正式な即位を望んでいます。どうか速やかに京へ帰って、聖上の孝養の想いを遂げさせてください、』と。そうすれば宜しいでしょう。」 上は、泌へ草稿を書かせた。それを読んで、上は泣いて言った。 「朕はもともと至誠の想いで万機を帰すことを願っていたのだ。だが、今、先生の言葉を聞いて、今までの過ちに気が付いた。」 すぐに表を奉じて蜀へ行くよう、中使へ命じた。そして泌と共に酒を飲み、同じベッドで寝る。 李輔国が、泌の持っている鍵を取り返すよう請うと、泌は、これを輔国へ預けるように請うた。上は、これを許す。 泌は言った。 「臣は今、陛下の恩徳へ十分に報いました。再び庶民へ戻れたら、何と楽しいことでしょうか!」 上は言った。 「朕は先生と長年憂患を共にしてきた。これからは共に楽しもうと思っていたのに、どうしてそんなに早く去って行くのか!」 「臣には、留まってはならない理由が五つあります。どうか陛下、臣が去るに任せて、臣を死なせないでください。」 「何を言っているのだ?」 「臣は陛下と会うのが早すぎました。陛下は、臣を重く用いすぎておりますし、寵愛が深すぎます。臣の功績は高すぎますし、才能が有りすぎます。ですから、留まることはできないのです。」 「今は眠ろう。後日議論しよう。」 「陛下は今、臣と共に寝ているのに、それでも請いを得られないのなら、後日になれば尚更無理です!陛下が臣の去ることを赦されないのは、臣を殺すことですよ。」 「卿がそこまで朕を疑っているとは思わなかった。どうして朕が卿を殺したりするものか!朕を句踐と同列に見るのか!」 「陛下が、臣を殺さないと言うから、臣は帰ることを求めるのです。もしも臣を殺すつもりなら、どうしてこんなことを言えましょうか!それに、臣を殺すのは陛下ではありません。『五つの理由』なのです。かつて陛下が臣のことをこのように扱ってくださったときでさえ、臣はなお、敢えて言えないことがあったのです。ましてや天下が既に安定した今、臣はどうして言えましょうか!」 上はしばらくしてから言った。 「卿は、朕が卿の北伐の謀に従わなかったことを言っているのか!」 「そうではありません。どうしても口にできなかったのは、建寧の事だけです。」 「建寧は、朕の愛子だった。英果な質で、艱難の時に功があった。朕がそれをどうして知らなかっただろうか!だが、小人から詰まらないことを吹聴され、実の兄を殺害して世継ぎになろうと図ったから、朕は社稷の為にやむを得ず似これを除いたのだ。卿はその細かい事情を知っているのか?」 「もしもそんな心があったなら、廣平はきっと怨んでいるでしょう。ですが、廣平はいつも臣へ『あれは冤罪だ』と言い、涙を流して嗚咽なさるのです。臣が今、どうしても陛下の許を去らなければならないのは、これを言いたかったからです。」 「あれは夜半に廣平のもとへ行った。殺そうと思ったからだ。」 「それは讒言です。建寧のように孝友聡明な方が、どうしてそんなことをなさいましょうか!陛下は昔、建寧を元帥にしたがっていましたが、臣は廣平を用いるよう請いました。建寧にもしもそんな心があったならば、臣を深く怨んでいるはずです。それなのに、臣を忠義となし、ますます親しんでくれました。陛下、それを以てその心をお察しください。」 上も泣き濡れて言った。 「先生の言う通りだ。しかし、『過去は咎めまい。』と言うではないか。朕はもう聞きたくない。」 「臣がこれを言ったのは、過去を咎める為ではありません。陛下に将来を慎んで欲しいだけです。昔、天后には四人の子息がありました。長男は太子弘。天后は摂政を望むようになると、彼が聡明なのを憎み、毒殺して、次男のヨウ王賢を建てました。賢は内心憂懼し、黄台瓜辞を書いて、天后を感悟させようとしましたが、天后は聞かず、賢はついに黔中にて死にました。その辞にあります。『黄台の下に瓜の種を播く。瓜が熟すと、離ればなれ。瓜を一つ摘むのは良い。二つ摘んだら、残り少なくなった。三つ目までは摘めるけれど、四つ目を摘んだら、もう蔓しか残らない!』今、陛下は既に一つ摘まれました。どうか二つ目を摘まないよう、慎んでお願い申し上げます。」 上は、愕然として言った。 「どうしてそんなことがあるものか!卿はこの辞を記録しておいてくれ。朕は紳に書き留めておこう。」 「陛下の心で判ってくださればよいのです。どうして形で残す必要がありましょうか!」 この時、廣平王には大功があり、良テイはこれを忌んで、彼を讒言する噂を流していた。だから、泌はこう言ったのだ。 十月、成都への使者が帰って来た。上皇は、誥して言った。 「我は、剣南一道さえ貰えれば余生を過ごせる。もう、来なくてもよい。」 上は憂懼して、為す術を知らなかった。すると、次の使者が帰ってきて、言った。 「上皇は最初、上からの東宮へ帰るとゆう表を得ると、食欲もなくして歩き回るだけで、帰りたがらなかったのです。しかし、群臣の表が至るに及んで、大いに喜ばれ、食欲も出て、出発の日を下誥されました。」 上は李泌を呼び出して言った。 「皆、卿の力だ!」 泌は、山へ帰ることを求めて止まなかった。上は固く留めたが、やむを得ず、衡山へ帰ることを許した。彼の為に山中へ室を築くよう郡県へ敕し、三品料を給付する。 九月、郭子儀は、番、漢の兵を率い、賊を潼関まで追撃した。五千級の首を斬り、華陰、弘農二郡を解放した。
乙丑、郭子儀が、左兵馬使張用済、右武鋒使渾釈之へ兵を与え、河陽及び河内を攻略させた。
丙寅、上が望賢宮へ到着した。東京からの勝報を得る。
上は彭原に居た時、栗を九廟主とした。庚寅、長楽殿にて朝を享けた。 辛亥、禮部尚書李見(「山/見」)、兵部尚書呂煙(本当は、言偏)を詳理使とし、御史大夫崔器と共に陳希烈等の疑獄を詮議させた。
戊午、上が丹鳳楼へ御幸し、天下へ恩赦を下す。ただ、安禄山と共に造反した一味と、李林甫、王ヘ、楊国忠の子孫は除いた。
崔器、呂煙が上言した。
(臣光、曰く)名簿に載って人質を差し出して人臣となったのなら、死んでも二心を持たないものだ。希烈等は、あるいは相卿のように貴い身分となり、或いは一族に連なったりした。それでいて平穏な日々には、人主の過失を糺したり社稷の危機を救う為の一言の諫言もなく、主君に迎合して富貴を盗んだだけである。そして四海に動乱が起り乗輿が疎開するような時、彼等は生を貪って難を逃れようとし、妻子を顧恋して賊へ媚びて臣と称し、彼等の為に力を尽くす。こんな行いは、屠殺業の人々でさえ恥とするもので、犬馬にも劣る。そんな輩が全員命を全うし、元の官爵へ戻れるならば、これは諂諛の臣が大手を振って好き勝手できる。
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