張易之
 
 尚乗奉御張易之は、行成の族孫である。年は若く、容姿が美しくて音楽が巧かった。太平公主が、易之の弟の昌宗を禁中に入侍させるよう推薦した。昌宗は、易之を推薦する。こうして、兄弟揃って太后の側に仕えた。彼等はいつも朱や白粉で化粧し、錦繍で着飾っていた。
 神功元年(697年)、昌宗は散騎常侍まで累進し、易之は司衞少卿となった。その母の藏(ほんとうは草冠がない)氏と韋氏は太夫人となり、数え切れない程の宝物を賜下される。また、鳳閣侍郎李迥秀を藏氏の夫とするよう敕が降りた。迥秀は、大亮の族孫である。
 武承嗣、三思、懿宗、宗楚客、晋卿は、皆、易之の門庭へご機嫌窺いに出向き、争って鞭轡を執った。易之は五郎、昌宗は六郎と呼ばれる。 

  内史王及善には学術はなかったが、清正を曲げず、大臣の節義があった。
 張易之兄弟は、内宴に相伴した時には人臣の礼がなかった。及善は屡々、上奏して非難したので、太后は不機嫌になり、及善へ言った。
「卿は既に御高齢。遊宴へ参加するのは良くありません。検校閣以外での宴会のみに参加するようにしなさい。」
 すると及善は病気と称して、一ヶ月余りも謁見しなかった。太后は、それに対して何も言わない。及善は嘆いて言った。
「中書令となったら、天子に謁見しない日が一日でもあってはならぬのに!これで、御心が知れた!」
 そして、上疏して隠居を請うた。太后は許さない。
 聖歴二年(699)八月庚子、及善を文昌左相とし、太子宮尹豆盧欽望を文昌右相とし、共に鳳閣鸞台三品とした。鸞台侍郎、同平章事楊再思は、罷免されて左台大夫となる。
 丁未、相王へ検校安北都護を兼任させる。天官侍郎陸元方を鸞台侍郎、同平章事とする。
 九月庚子、王及善が卒した。 

 久視元年(700)六月、控鶴を奉宸府と改称し、張易之を奉宸令とする。
 太后は内殿で宴会を開く度に武一族や易之とその弟の秘書監昌宗と痛飲してふざけていた。しかし、太后はこれを覆い隠そうと、易之、昌宗と文学の士の李喬等へ、内殿にて三教珠英を学ばせた。
 武三思は、昌宗に王子晋の扮装をさせるよう上奏した。太后は、昌宗を庭中にて木鶴に乗せ、羽衣を着せて笙を吹かせた。文士は皆、詩を作って、これを讃えた。
 太后は又、美少年を大勢選んで奉宸内供奉とした。右補闕の朱敬則が諫めた。
「陛下の寵臣は易之と昌宗で充分ではありませんか。最近では右監門衞長史侯祥等が公然と寵愛されていると聞きますが、まだ恥を知らずに奉宸内供奉まで造り、無礼無儀が朝廷に溢れています。臣の職務は諫争です。敢えて奏上せずにはいられません。」
 太后は、これを労って言った。
「卿の直言がなければ、朕は気がつかなかった。」
 そして、綏百段を賜った。
 易之と昌宗は豪奢を競い合った。
 彼等の弟の昌儀は洛陽令で、彼が人事を請願すると必ず通った。
 ある朝、薛とゆう選人が、彼の馬を引き寄せて金五十両と自薦状を渡した。昌儀は金を受け取って、朝堂へ着くと、自薦状を天官侍郎の張錫へ渡した。数日後、錫は自薦状を紛失したので昌儀へ誰だったか尋ねると、昌儀は罵って言った。
「手遅れだ!俺も記録していない。こうなったら、薛とゆう男全員を任官せよ。」
 錫は懼れ、名簿に載っている薛姓の者六十余人を全て官吏とした。
 錫は、文灌(ほんとうは王偏)の兄の子である。 

 司府少卿楊元亨と尚食奉御楊元禧は、共に弘武の子息である。元禧は、かつて張易之に逆らった。すると、易之は太后へ言った。
「元禧は楊素の一族です。素親子は隋の逆臣でした。その子孫は供奉にふさわしくありません。」
 太后はこれに従い、閏月壬寅に制した。
「楊素及びその兄弟の子孫は、皆、京官に任命してはいけない。」
 元亨を陸州刺史、元禧を貝州刺史へ左遷する。 

 長安元年(701)太后は高齢で、政事の大半は張易之兄弟へ委ねていた。
 邵王重潤と、その妹の永泰郡主と、郡主の婿の魏王武延基は、この事を密かに相談した。易之は、これを太后へ訴えた。
 九月壬申、太后は彼等へ迫って自殺させた。
 延基は、承嗣の子息である。 

 二年八月戊午、太子、相王、太平公主が昌宗を王に封じるよう上表して請願したが、太后はこれを許さなかった。
 壬戌、再び請願されたので、業(「業/里」)国公の爵位を賜下した。 

 左台大夫、同鳳閣鸞台三品の魏元忠が洛州長史となった頃、洛陽令の張昌儀は諸兄の勢力を後援に恃んで、専横なことが多かった。長史聴事では、彼の地位なら庭下に立たなければならないのに、殿まで上がってきた。だが、元忠がやって来ると、これを叱りつけて庭下へ追い出した。また、張易之の奴隷が町中で暴れた時、元忠はこれを杖で殴殺した。
 元忠が宰相だった時の事、太后が易之の弟の岐州刺史昌期を呼びだした。太后は彼をヨウ州長史に任命したかったのだ。そこで、彼女は宰相へ問うた。
「ヨウ州長史の大任をこなせる者は誰ですか?」
 すると、元忠は言った。
「今の朝臣の中では、薛季昶に代わる者はおりません。」
「季昶は、長いこと京府で務めてくれましたから、朕は別の官を授けたいのです。代わりに、昌期はどうでしょうか?」
 すると、諸相は言った。
「陛下は人を得ています。」
 だが、元忠一人言った。
「昌期では役者不足です!」
 太后がその理由を聞くと、元忠は言った。
「昌期はまだ若くて吏事に精通していません。岐州に赴任した時には、大勢の民が逃げ出しました。ヨウ州は帝都です。その任務は更に煩雑になります。季昶のように政務に熟練した者でなければなりません。」
 太后は黙り込んで、昌期の件は沙汰やみとなった。
 又、元忠は、かつて面と向かって奏上した。
「臣は先帝以来の御恩を蒙り、朝廷の人材不足のおかげもあって宰相となりましたのに、死を賭けて節義を貫くこともできず、小人を君側に置かせる羽目になってしまいました。全て、臣の罪であります!」
 これは、張易之を排斥できなかったことを言ったのだ。太后は気を悪くした。
 これらのことで、張一族は元忠を深く怨んだ。
 司禮丞の高晋(「晋/戈」)は、太平公主から寵愛されていた。三年、九月。太后が危篤になると、張昌宗は、太后崩御の後に元忠から誅殺されることを畏れ、元忠を讒言した。
「魏元忠と高晋が、『太后はご老体だ。太子を擁立して長久を計るべきだ。』と語り合いました。」
 太后は怒り、元忠と晋を牢獄にぶち込み、昌宗と対決させようとした。昌宗は高官を賄賂にして鳳閣舎人張説を密かに抱き込み、この件の証人となることを承諾させた。
 翌日、太后は太子、相王及び諸宰相を呼び出して、元忠と昌宗を対決させた。これが水掛け論となり決着が付かないでいると、昌宗は言った。
「張説が、元忠の言葉を聞いたのです。呼び出して尋ねてください。」
 太后は説を呼び出した。説が入室しようとした時、鳳閣舎人の南和の宋景(「王/景」)が言った。
「名義は非常に重いし、鬼神はだませない。邪悪な者と徒党を組んで正しい者を陥れたら、必ずわが身に返って来るぞ!悪人に逆らえば、たとえ罪を得て流刑となっても、皆からは讃えられる。不測のことになったなら、景が閣門を叩いて力争し、お前と一緒に死んでやる。頑張れ。今の一挙で、万代先まで仰ぎ見られるのだぞ!」
 殿中御史の済源の張延珪は言った。
「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり!」
 左史の劉知幾は言った。
「青史を汚して、子孫の恥となるんじゃないぞ!」
 入室すると太后は、この件を尋ねた。すると、説が返答する前に、元忠は懼れ、説へ言った。
「張説は昌宗とグルになって、魏元忠を陥れるつもりか!」
 説は叱りつけた。
「元忠は宰相となったのに、小人の噂話を真に受けなさるか!」
 昌宗は傍らで、説を急かせて、速く返答させようとした。
 説は言った。
「陛下もご覧になられましたね。昌宗は、陛下の御前でさえ、臣へこのように迫るのです。ましてや外では尚更ですぞ!臣は今、朝廷にて対峙しております。どうして嘘が言えましょうか。臣は真実、元忠のその様な言葉を聞いておりません。ただ、昌宗が偽証するよう、臣へ迫っただけでございます!」
 易之と昌宗は慌てて叫んだ。
「張説は、魏元忠とグルになって造反したぞ!」
 太后がその訳を問うと、彼等は言った。
「説はかつて、元忠を伊尹、周公に喩えました。伊尹は主君の太甲を追放し、周公は王位を操った人間。これが造反でなくて何でしょうか!」
 説は言い返した。
「易之兄弟は小人。ただ伊、周の名を聞いただけです。伊、周の道を知りもしないのです!昔、元忠が始めて紫衣(三品以上の服)を着た時、臣が部下を祝賀に遣ると、元忠は言いました。『功もないのに寵を受けた。慚愧と懼れに耐えないのだ。』その折、臣は確かに言いました。『明公の才覚なら、伊、周の仕事でもこなせるぞ、三品くらいで、なんで愧じるか!』あの、伊尹、周公達は、臣となっては忠誠を尽くし、古今慕仰されているのです。陛下が宰相を用いる時、伊、周を学ばせなければ、誰を手本にさせるのですか?それに、臣とて今日昌宗へ取り入ったならば出世して、元忠へ加担したら一族誅殺されることくらい知っておりますぞ!それでは臣は元忠の魂の冤を畏れ、敢えて誣れないのです。」
 太后は言った。
「張説は反覆の小人。彼も牢獄へ繋ぎなさい。」
 後、更に引き出して尋問したが、説の言い分は変わらなかった。太后は怒り、宰相と河内王武懿宗に糾明させたが、説は言葉を変えなかった。
 朱敬則がこれに抗して理を上疏した。
「元忠はもともと忠正と称されていましたし、張説は無実です。もしも彼等が罪に落ちたら、天下は失望します。」
 蘇安恒もまた、上疏した。
「陛下が周を建国した当初は、諫言をよく聞き入れる君主だと人々は称していました。しかし、晩年になってからは奸佞を受ける主君になってしまいました。元忠が牢獄に繋がれてからは、人々は恐々としております。皆は、陛下が姦佞を信任し賢良を排斥すると思っています。忠臣烈士は皆、私室にて太股をさすりながらも公朝にては口を閉ざしています。易之に逆らっていたずらに犬死にすることを畏れるのです。今、賦役は非常に重く百姓は凋落し、讒言や隠匿を重んじて勝手気儘にやっておりますので刑賞は的外れ。このままでは人心の不安から大事件が勃発し、朱雀門の内にて刀戈交わり大明殿前にて鼎の軽重を問われかねなくなることを恐れます。陛下は、どのように謝し、どのように防ぐおつもりですか?」
 易之等は疏を見て激怒し殺そうとしたが、朱敬則や鳳閣舎人桓彦範、著作郎の陸澤の魏知古のおかげでどうにか免れた。
 丁酉、魏元忠を高要尉へ左遷する。晋、説は皆、嶺表へ流す。元忠は出立の挨拶の日、太后へ言った。
「臣は歳です。今、嶺表へ行ったら、十中八九、戻って来れません。陛下はいつか、必ず臣のことを思い出す日があるでしょう。」
 太后は、訳を尋ねた。この時、易之も昌宗も君側にいたので、元忠は彼等を指さして言った。
「この二豎子が、いずれ乱を起こすからです。」
 易之等は殿を下り、胸を叩き身を投げ出して冤罪と訴えた。太后は言った。
「元忠、サッサと出て行け!」
 殿中侍御史の景城の王俊(本当は日偏)が、再び上奏して元忠の為に理を述べた。宋景は彼へ言った。
「魏公は、命があっただけでも幸いだ。今、子が再び怒りを掻き立てても、何の役にも立たないぞ!」
 俊は言った。
「魏公は忠を尽くしたから、罪を得た。俊は義を行って憎まれるなら、死んでも悔いはない。」
 景は嘆いて言った。
「景は義公の無実を申し述べることができなかった。朝廷へ大きく背いてしまった。」
 太子僕の崔貞慎等八人が、郊外にて元忠を見送った。易之は”貞慎等が元忠と共に造反を謀んでいる、”と、柴明へ密告させた。太后は、監察御史の丹徒の馬懐素へこれを糾明させた。その時、太后は言った。
「これは事実です。適当に調べてサッサと答を出しなさい。」
 そして、何度も督促の使者を放った。
「反状は歴然としているのに、なんでこんなにグズグズしているのですか?」
 懐素は柴明へ問い質すことを乞うたが、太后は言った。
「柴明の居所など知りません。ただ、告発書に依って糾明すればよいのです。どうして本人に会う必要がありますか?」
 対して、懐素は事実を上聞した。太后は怒って言った。
「卿は造反者を逃がすつもりですか?」
「臣は、造反者を逃がすような真似はしません!しかし、元忠は宰相から降格し、貞慎等は親しかったから見送っただけです。これを叛逆と誣いろというのなら、そんなことは臣にはできません。昔、彭越が造反したとして処刑され梟首された時、欒布は首の下で復命してその首を祀り慟哭したと上奏されましたが、漢の高祖はそれを罪とはしませんでした。ましてや元忠の刑は彭越ほどではないのに、陛下はこれを見送った人間を誅殺なさりたいのですか!それに、陛下は生死の権利をお持ちです。彼等を罪に落としたいのなら、その一存で十分ではありませんか。もし、臣へ糾明しろとゆうのでしたら、臣は事実を上聞することしかできません。」
 太后は言った。
「汝は、全ての罪人を無罪にしたいのですか?」
「臣の愚浅な知識では、この件に関して、罪状が見えないのです。」
 太后は機嫌を直した。
 こうして、貞慎等は免れることができた。
 かつて太后は、朝廷の貴人を集めて宴会を開いた。この時、張易之兄弟の官位は宋景よりも上だったが、易之は平素から景を憚っており、その機嫌を取ろうとして、へりくだって言った。
「公は当今の第一人者です。なんでそんな下座に座るのですか?」
 景は言った。
「才が劣り位が卑しいことでは、張卿が第一ではないか。」
 天官侍郎鄭杲が景へ言った。
「中丞は、卿五郎に怨みでもあるのか?」
「官位で言うなら、まさしく卿だ。しかし、足下は張卿の奴隷でもないのに、どうして『郎』と言うのか!」(奴隷は、その主を呼ぶ時、名や字ではなく「○郎」と呼ぶ。)
 一座はピリピリと張りつめてしまった。
 この頃、武三思以下、皆が易之兄弟へ慎んで仕えていたが、景だけは礼遇しなかった。張一族は怨みが積もり、いつも中傷しようとしていたが、太后はそれを知っていたので、免れることができた。 

 四年七月丙戌、神都副留守楊再思を内史とする。
 再思は宰相になると、媚びへつらいに専念した。
 張易之の兄の司禮少卿張同休が、かつて公卿を集めて宴会を開いた。酒がたけなわの時、再思へ戯れて言った。
「楊内史の顔は、高麗人のようだ。」
 再思は大喜びで紙を切って頭巾へ張り付け、紫袍を翻して高麗の舞踊を踊ったので、一座は爆笑した。
 当時のある人が、張昌宗の美しさを褒めて、「六郎の顔は蓮の花のようだ」と言ったところ、再思一人、言った。
「そんなことはない。」
 昌宗が理由を尋ねると、再思は言った。
「蓮の花が、六郎に似ているだけです。」
 乙未、司禮少卿張同休、ベン州刺史張昌期、尚方少監張昌儀が、全て罪に触れて牢獄へ繋がれた。左右の台へ糾明を命じる。
 丙申、張易之、張昌宗が賞罰を専断したと敕が降り、これも糾明させた。
 辛丑、司刑正の賈敬言が上奏した。
「張昌宗は他人の田を押し買いした。銅二十斤の罰金。」
 制して、裁可される。
 乙巳、御史大夫李承嘉、中丞桓彦範が上奏した。
「張同休兄弟の収賄は、共に四千余緡に及びます。張昌宗は、法に照らせば免官です。」
 昌宗は上奏した。
「臣は御国へ功績がありますし、犯した罪も免官にはなりません。」
 太后が、諸相へ問うた。
「昌宗にどのような功績があったか?」
 楊再思は言った。
「太后は、昌宗が作った神丹を服用したおかげで健康になりました。これは国家への莫大な功績でございます。」
 太后は悦び、昌宗の罪を赦して官位を元へ戻した。
 左補闕の戴令言が両脚狐賦を作って、再思を譏った。再思は、令言を長社令へ飛ばした。
 癸丑、張同休が岐山丞へ、張昌儀は博望丞へ飛ばされた。
 鸞台侍郎、知納言、同鳳閣鸞台三品韋安石が張易之等の罪状を上奏した。安石と右庶子、同鳳閣鸞台三品唐休景へ、これを糾明するよう敕が降りた。だが、結論が出る前に事情が変わった。
 八月甲寅、安石は検校楊州刺史となり、庚申、休景は兼幽営都督、安東都護となった。
 休景は下向直前、密かに太子へ言った。
「二張は寵愛を恃んで不臣の態度をとっています。必ず乱が起きますぞ。殿下、準備をしておいてください。」
 やがて太后は病気になり、長生院で寝込んだ。宰相の中にさえ、数ヶ月も謁見できない者がいるくらいだったが、ただ、張易之と昌宗だけは側に侍っていた。
 病状が少し軽くなると、崔玄韋が上奏した。
「皇太子や相王は仁明孝友で、看病を任せられます。宮禁は重要な場所。伏してお願いいたします。どうか、異姓の者を出入りさせないでください。」
太后は言った。
「卿のご厚意に感謝いたします。」
 易之と昌宗は太后が重症なのを見て、我が身に禍が及ぶことを恐れ、党類と連絡を密にして密かに準備していた。しばしば、「易之兄弟が造反した」とゆう密告などが届いたが、太后は全て不問とした。
 十二月辛未、許州の人楊元嗣が告発した。
「昌宗は、かつて術士の李弘泰を召し出して、人相を占って貰いました。すると弘泰は、天子の相があると答え、定州へ仏寺を造って天下の人々の心を掌握するよう勧めました。」
 太后は、韋承慶と司刑卿崔神慶、御史中丞宋景へ、この件を糾明するよう命じた。神慶は、神基の弟である。承慶、神慶は上奏した。
「昌宗は、『弘泰の言葉は、既に奏聞した』と、述べています。法に依れば、自首した者は赦されます。ただ、弘泰は妖言を吐いたのですから、捕らえて処罰してください。」
 だが、景と大理丞封全禎は上奏した。
「昌宗はここまで寵愛され、栄達しております。それなのに術士を呼び出して人相を占わせるとは、何を求めていたのですか!弘泰は、『筮竹で純粋な「乾」が出ました。これは天子の卦です』と言いました。弘泰が妖妄を吐いたのに、昌宗の仲間達は、何故彼を捕らえて役人に突き出さなかったのですか!奏聞したとはいえ、彼等は禍心を包んでおりました。法に照らせば、斬罪破家に相当します。どうか牢獄へぶち込んで、その罪を徹底糾明してください!」
 太后がずっと黙りこくっていると、景は又言った。
「彼等の仲間を捕らえなければ、衆心が動揺してしまいますぞ。」
 太后は言った。
「卿は、しばらく控えて、もっと詳しい調書を待ちなさい。」
 景が退出すると、左捨遣の江都の李邑(「巛/邑」)が進み出て言った。
「宋景の言葉は、社稷の安泰を思ってのことで、我が身の為ではありません。どうか陛下、御裁可を!」
 太后は聞かなかった。
 やがて、景へ揚州の事件を裁くよう敕があり、幽州都督屈突仲翔の汚職事件を裁くよう敕があり、李喬の副官として隴、蜀を安撫するよう敕があったが、景は全て断って、上奏した。
「故事では、州県の官が罪を犯した場合、官位が高ければ侍御史が、卑しければ監察御史が裁きます。中丞は、軍国の大事でなければ地方への使者に出ることはありません。今、隴、蜀は無事です。陛下がどうして臣を派遣なさるのか、訳が判りません。ですから臣は、これら皆、敢えてお断りするのです。」
 司刑少卿桓彦範が上疎した。
「昌宗は功績もないのに寵愛され、禍心を内包し、自ら咎を招き寄せました。これは皇天が怒りを下したのです。陛下は誅を加えるのに忍びなければ、これは天の御心に背く不祥ですぞ。それに、昌宗が既に上奏したと言うならば、それからも弘泰と行き来して福を求め禍を払わせていたのは、筋道通りません。彼には、悔心など、最初からなかったのです。彼が奏聞したのは、事が露見したなら『先に奏聞していた』と言い訳し、露見しなければ時節を待って叛逆しようとの心です。これは奸臣の詭計。もしも捨て置くのなら、誰を罰するのですか!いわんや、事は再発したのです。これで陛下が赦して不問に処したのなら、昌宗はますます自分の計画に自負し、天下の人々は、『昌宗は天命を受けた人間だから絶対に死なないのだ。』と思ってしまいます。これは、陛下御自身が乱を養成するのです。逆臣を誅しなければ、社稷は亡びます。どうか鸞台鳳閣三司へ下げ渡し、その罪状をもう一度洗い直させてください!」
 返答はなかった。
 崔玄韋もしばしば言ったので、太后はその罪を再審するよう法司へ命じた。玄韋の弟の司刑少卿弁(「日/弁」)は、大辟(辟には、「取り除く」の意味があるから、極刑とゆう事でしょうか?)と裁いた。
 宋景は再び、昌宗を牢獄へぶち込むよう上奏した。太后は言った。
「昌宗は、既に自ら奏聞したのです。」
 対して言った。
「昌宗は、告発文に迫られて、切羽詰まって自白したに過ぎません。それに、謀反は大逆で、首謀者は免除されません。もし昌宗が大刑に伏さなければ、どうやって国法を用いますのか!」
 太后は、やんわりと説得したが、景はますます形相を激しくして言った。
「昌宗は分不相応の寵遇を受けています。臣とて、口が禍を招くことは知っていますが、義心が勃然と噴き出すのです。死んでも恨みはありません!」
 楊再思は、御心に背くことを恐れ、勅令を出して退出させようとしたが、景は言った。
「聖主がここに居ますのだ。宰相が勝手に敕命を宣べる必要はない!」
 太后は上奏を裁可し、昌宗を台へ呼び出した。
 景は庭に立ってこれを吟味したが、その途中で太后が中使を派遣して昌宗を呼び出し、特敕でこれを赦した。
 景は嘆いて言った。
「先にあの小僧の脳を打ち砕いていれば、こんな恨みはなかったものを。」
 太后は昌宗を、景のもとへ謝りに行かせたが、景は面会さえ拒絶した。
 左台中丞桓彦範と右台中丞の東光の袁恕己が、共に・事司直の陽喬(「山/喬」)を御史へ推薦した。すると、楊再思は言った。
「喬は捕り手の仕事など嫌がるのではないか?」
 彦範は言った。
「官吏が人を選ぶのに、本人の希望ばかり叶えられるものか!望まない者へ無理矢理やらせるのは、進級が難しいとゆう想いを持たせ、いたずらに出世を考える想いを抑えさせる為だ。」
 そして、喬を右台侍御史に抜擢する。喬は休之の玄孫である。
 これ以前に、李喬と崔玄韋は上奏した。
「かつての革命の時、大勢の人間が節義に逆らい、遂には酷薄の吏を登用して酷法を横行させることとなりました。その時に、周興等が弾劾して一族が罰された者は、どうか赦されて下さい。」
 司刑少卿桓彦範も又、これを奏陳し、合計十回以上も表疏した。
 太后は、これに従った。 

 太后の病気は依然重く、麒麟監張易之、春官侍郎張昌宗は中に居て事を用いた。張柬之、崔玄韋と中台右丞敬暉、司刑少卿垣彦範、相王府司馬袁恕己は、これを誅しようと謀った。
 柬之は右羽林衞大将軍吏多祚へ言った。
「将軍の今日の富貴は、誰のおかげかな?」
 多祚は泣いて言った。
「大帝のおかげです。」
「今、大帝の子は、二豎のせいで命も危ない。将軍は、大帝の恩に報いたくないのか!」
「いやしくも御国の為ならば、ただ相公に従い、わが身も妻子も顧みません。」
 そして、天地を指さして自ら誓った。ここに、謀略は定まった。
 始め、柬之と荊府長史の旻(「門/旻」)郷の楊元炎(「王/炎」)は相代となり、同様に江へ飛ばされた。その道中で、話題が太后の革命の事へ及ぶと、元炎は慨然として匡復の志を語った。柬之が相となるに及んで、元炎を右羽林将軍に抜擢して、言った。
「君は江中でのことをまだ憶えているか?今日の職務は、軽く与えたのではない。」
 柬之はまた、彦範、暉及び右散騎侍郎李湛を皆、左・右羽林将軍に登用し、禁兵を委ねた。易之等が疑懼したので、その党類の武攸宜を右羽林大将軍としたところ、易之等は安心した。
 突然、姚元之が霊武からやって来たので、柬之と彦範は共に言い合った。
「事は達成したぞ!」
 遂にその謀略を告げた。
 彦範がこの事を母へ言うと、母は言った。
「忠と孝は両立できません。御国第一。家のことは後回しです。」
 この頃、太子は北門に寝起きしていた。彦範と暉が謁見して密かに謀略を陳述すると、太子はこれを許した。
 神龍元年(705)正月癸卯、柬之、玄韋、彦範と左威衞将軍薛思行等は左右羽林兵五百余人を率いて玄武門へ至り、多祚、湛及び内直郎、フバ都尉の安陽の王同皎を東宮へ派遣して、太子を迎えた。太子が疑って出ないでいると、同皎は言った。
「先帝は神器を殿下へ与えられましたのに、横暴にも廃立、幽閉の憂き目に遭われたのです。人神共に憤って、二十三年が経ちました。今、天がその衷を誘い、北門、南牙が団結して凶豎を誅して李氏の社稷を復するのです。どうか殿下、衆望に応え玄武門まで出向いて下さい。」
 太子は言った。
「凶豎は、確かに一族皆殺しにして当然だ。だが、上の容態は悪い。驚愕や落胆させたくない。諸公、後日にできないか。」
 李湛が言った。
「諸将相は家族も顧みずに社稷に殉じるのですぞ。殿下は彼等を釜ゆでにしたいのですか!どうか殿下自ら出て行ってください。」
 太子は、とうとう出馬した。
 同皎は太子を抱きかかえて乗馬させ、玄武門までつき従い、関を斬って入った。
 太后は迎仙宮に居た。柬之は細殿(堂屋をめぐるように造られた部屋)にて易之と昌宗を斬り、太后が寝ている長生殿まで進み、侍衞で取り囲んだ。
 太后は驚いて飛び起き、問うた。
「誰が乱を起こしたのじゃ?」
 対して言った。
「張易之と昌宗が謀反しました。臣等は太子の命令を奉じてこれを誅したのです。奴等へ洩れることを恐れ、決行まで敢えて上聞しませんでした。宮禁へ兵を引き込んだ罪は、万死に値します!」
 太后は太子を見て言った。
「汝か?小子は既に誅したのだ。東宮へ帰りなさい。」
 彦範が進み出て言った。
「太子がどうして帰れましょうか!昔、天皇は愛子を陛下へ託されました。今、歳も長じられましたのに、いまだに東宮に居ます。ですが、天意も人心も李氏を慕い続けていたのです。群臣は太宗、天皇の徳を忘れておりませんので、太子を奉じて賊臣を誅したのです。どうか陛下、天人の望みに従って、位を太子へお譲りください!」
 李湛は義府の子息である。太后はこれを見て言った。
「汝も又易之将軍を誅したのか?吾は汝親子を手厚く遇したのに、なんでこんな事をした!」
 湛は、慚愧の想いで返答できなかった。
 又、太后は崔玄韋へ言った。
「他人は皆、他の人から推薦されて出世したが、ただ卿だけは朕が自ら抜擢したのです。それなのに、ここにいるのか?」
 玄韋は言った。
「これこそが、陛下の大恩に報いる事なのです。」
 ここにおいて、張昌期、同休、昌儀を捕らえ、全員斬罪とし、易之、昌宗と共に天津の南に梟首した。
 この日、袁恕己は相王に従って南牙兵を指揮して非常に備えていた。韋承慶、房融及び司禮卿崔神慶を捕らえて投獄した。彼等は皆、易之の仲間である。
 ところで、以前昌儀が新しい第を建てた時、それはとても美しくて、王や公主の第のようだった。ある夜、その門へ貼り紙がしてあった。
「一体幾日楽しめますか?」
 これを取り去ったが、再び貼られた。こんな事が六七回続いたので、昌儀は筆を取って、その下へ書いた。
「一日でも構わない。」
 すると、貼り紙は貼られなくなった。 

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