陳覇先、即位
 
残党狩り 

 杜龕は、王僧弁の娘婿。彼は舅の勢力を恃んで、陳覇先へ対しては無礼だった。彼が呉興へ赴任すると、法律を厳格に適用して、陳覇先の宗族を罰していたので、陳覇先は深く怨んでいた。
 王僧弁の暗殺を計画した時、陳覇先は、甥の菁を密かに長城へ帰し、柵を作らせて杜龕へ備えさせた。
 王僧弁が死ぬと、杜龕は呉興に據って、陳覇先を拒んだ。義興太守韋戴も、これに呼応した。
 呉郡太守の王僧智は、王僧弁の弟。彼も又、城へ據って拒守した。
 陳菁の兵力は、わずか数百人。これへ対して杜龕は、杜泰へ五千の精鋭を与えて差し向けた。将士は真っ青になったが、陳菁は自若として笑い、対策を明白に述べたので、兵卒の動揺は収まった。杜泰は、数旬に亘って昼夜となく攻撃したが、勝てずに退却した。 

 陳覇先は、周文育へ義興を攻撃させた。
 義興の兵卒達は、皆、もとは陳覇先の部下で、弩が巧かった。韋戴は、部下のうち主だった者数十人を鎖で縛り、監視人を付けて弩を射させた。
「十発射って二発以下しか当たらない者は、殺す。」
 だから、彼等が射るたびに、敵の兵卒が必ず倒れた。周文育軍は、少し退却した。そこで韋戴は城外へ壕を掘って水を張り、柵をたてた。こうして、両軍は数旬睨み合った。
 杜龕は、従兄弟の北叟を派遣して拒戦させたが、叟は敗北して義興へ帰ってきた。
 周文育軍が不利と聞いた陳覇先は、自ら出陣を表明した。台城は、侯安都と杜稜へ任せる。 

 焦・秦二州刺史徐嗣徽の従兄弟の徐嗣先は、王僧弁の甥だった。王僧弁が死ぬと、徐嗣先は徐嗣徽のもとへ逃げ込んだ。徐嗣徽は州ごと北斉へ降伏した。やがて、陳覇先が義興を討伐すると、徐嗣徽は南預州刺史任約と密約を結び、精鋭五千を率いて手薄になった建康を襲撃した。
 彼等は石頭を占領して、その軍は闕下まで至った。これへ対して侯安都は、城門を閉じ、旗をしまって、弱そうにみせかけた。又、城内の兵卒へ命令した。
「ひめがきへ登って賊軍を窺う者は、斬る!」
 夕方になって、徐嗣徽軍は石頭へ戻った。
 その夜、侯安都は戦闘の準備をさせた。案に違わず、明け方、徐嗣徽軍が再びやってきた。侯安都は、三百騎の武装兵を率いて東西の掖門から出撃し、大勝利を収めた。徐嗣徽は石頭へ逃げ込み、再び台城を攻撃しようとはしなかった。 

 陳覇先は、韋戴の一族の人間に、韋戴を説得させた。これによって、韋戴と杜北叟か降伏した。陳覇先は彼等を厚く慰撫した。説得した男を監義興郡として、韋戴は自分の側近にし、以後、共に謀略を練るようになった。
 陳覇先は、疾風のように建康へ戻り、周文育へ杜龕を攻撃させ、長城を救った。 

 将軍黄他は、呉郡の王僧智を攻撃したが、勝てなかった。陳覇先は、寧遠将軍裴忌を援軍として派遣した。裴忌は精鋭の軽騎を選んで呉郡へ急行した。
 彼等は夜半に到着し、そのまま軍鼓を盛大に鳴らして肉薄した。王僧智は大軍が来襲したと勘違いして、軽舟で呉興へ逃げた。裴忌は呉郡を占領したので、陳覇先は裴忌を呉郡太守とした。 

  

北斉介入 

 十一月、北斉は五千の兵力で揚子江を渡り、姑執を占領し、徐嗣徽・任約へ呼応した。対して陳覇先は、冶城城外へ柵を築くよう、合州刺史徐度へ命じた。
 庚寅、北斉は安州刺史テキ子祟、楚州刺史劉士栄、淮州刺史柳達摩へ一万の兵を与え、三万石の米や千匹の馬と共に、石頭へ入城させた。
 陳覇先が韋戴へ計略を問うと、韋戴は言った。
「北斉軍が、もしも先に三呉を占領して東境を略奪したなら、我等に打つ手はありませんでした。しかし、奴等は石頭を占領しました。我等は淮南へ急行し、侯景の造った塁を基にして城を築き、東道からの糧道を確保しましょう。そして、兵を派遣して敵の糧道を絶つのです。そうすれば、十日と経たぬうちに、奴等は退却いたしましょう。」
 陳覇先は、これに従った。
 侯安都は、北斉軍の上陸地点へ夜襲を掛けて、敵の舟千余艘を焼き払った。仁威将軍周鉄虎は北斉の糧道を絶ち、北斉の北徐州刺史張領州を捕らえた。韋戴は大航へ城を築いて杜稜へ守らせた。
 北斉軍は、石頭城の倉城門と秦淮水の南の二ヶ所へ柵を立て、梁兵と対峙した。
 壬辰、北斉の大都督蕭軌が兵を率いて江北へ屯営した。 

 甲辰、徐嗣徽等が冶城城外の柵を攻撃した。陳覇先は精兵を率いて西明門から出撃、徐嗣徽等は大敗した。徐嗣徽は、城を柳達摩へ守らせ、自身は石へ行って、北斉軍へ救援を求めた。
 十二月、侯安都が秦郡を襲撃して徐嗣徽柵を破り、数百人を捕虜とした。徐嗣徽の家にあった琵琶と鷹を手に入れてたので、これを徐嗣徽へ送って、伝えた。
「貴方の屋敷で手に入れたものを、お返しいたします。」
 徐嗣徽は、大いに懼れた。
 陳覇先は、冶城から出航し、北斉軍の二柵を攻撃した。柳達摩は淮水を渡って陣を布いたが、陳覇先は陣頭に立って指揮し、火を放って柵を焼き払った。北斉軍は大敗し、渡河する為の舟を奪い合う有様。千人からの兵卒が溺死して、叫び声は天地をどよめかせた。
 その日、徐嗣徽は任約と北斉軍万余を率いて石頭へ戻って来た。
 陳覇先は、江寧へ兵を向け、険阻な地形に據った。徐嗣徽の兵卒は、敢えて進もうとはしないで、江寧の浦口へ屯営した。陳覇先は、これを侯安都へ攻撃させた。徐嗣徽等は小舟で逃げ出し、陳覇先軍は多くの器械を押収した。
 己未、陳覇先は四面から石頭を攻撃した。城内には水がなかったので、一升の水が絹一匹と交換されるまでになった。
 庚申、柳達摩は、陳覇先へ講和を申し入れたが、その条件として人質を求めた。
 この頃、建康はまだ復興しておらず、兵糧の移入もままならなかったので、百官は講和を求めていた。彼等は、陳覇先甥の陳曇朗を人質に差し出すよう、陳覇先へ求めた。
 すると、陳覇先は言った。
「今、高い地位にある人々は、皆、講和を求めている。ここで衆議へ背いたら、ただ陳曇朗一人を愛して、国家をないがしろにしていると言われるだろう。今、曇朗を人質として、寇庭へ棄てよう。だが、北斉の人間には信義がない。いずれ我等が微弱と見たら、必ず盟約を踏みにじって来寇するだろう。その時には、諸君等は孤の為に奮闘してくれ!」
 そして、陳曇朗及び永嘉王荘、丹陽尹王沖の子の民を人質として北斉軍と盟約を交わした。こうして北斉軍は本国へ帰り、徐嗣徽と任約は北斉へ亡命した。陳覇先軍は、多量の馬船兵糧を押収した。
 北斉の文宣帝は、柳達摩を誅殺した。 

 太平元年(556年)、正月。大赦が降る。任約、徐嗣徽の党類についても、一切不問となった。
 陳覇先は、従事中郎江干を徐嗣徽のもとへ派遣して帰国するよう説得させたが、徐嗣徽は、江干を捕らえて北斉へ突き出した。
 二月、任約と徐嗣徽は采石を襲撃し、戍主の明州刺史張懐鈞を捕らえ、北斉へ送った。 

  

掃討 

 陳菁と周文育は、軍を合わせて呉興の杜龕を攻撃した。
 杜龕は、勇気はあったが、無謀な男。酒を飲んだら、酔い伏すまで止めない。彼の麾下の将杜泰は、ひそかに陳菁へ内通していた。
 杜龕は、陳菁と戦って敗北した。それを機会に陳菁は杜龕へ降伏を呼びかけ、杜龕は合意した。すると、妻の王氏が言った。
「陳覇先とは、ここまでこじれてしまっているのです。どうして和睦ができましょうか!」
 そして、私財を投じて兵を雇い、陳菁と戦って大勝利を収めた。
 だが、この時杜泰は既に陳菁へ降伏していた。杜龕が酔っぱらって寝ているのを幸い、人を派遣してこれを背負って運び出し、項王寺前で斬った。
 王僧智と、弟の豫章太守王僧音は、ともに北斉へ出奔した。 

 東揚州刺史張彪は、もともと王僧弁と仲が善かったので、陳覇先へはつかなかった。
 二月、陳菁と周文育は軽兵で会稽を襲撃した。張彪は敗北し、若邪山へ逃げ込む。陳菁は、麾下の将章昭達へ追撃させ、斬った。
 東陽太守留異は、陳菁へ兵糧を提供した。陳覇先は、彼を縉州刺史とした。 

 江州刺史侯真は、もともと王僧弁の部下だった。彼は豫章及び江周にて兵を擁して、陳覇先につかなかった。
 陳覇先は、周文育を南豫州刺史に任命し、盆城を攻撃させた。又、侯安都と周鉄虎へ水軍を与えて梁山へ柵を作らせ、江州へ備えさせた。 

  

北斉撃退 

 三月、北斉は、儀同三司蕭軌、庫狄伏連、堯難宗、東方老等を派遣し梁を攻撃した。彼等は任約、徐嗣徽と合流し、その総勢は十万。柵口から出て、梁山へ向かう。
 陳覇先は、帳内盪主の黄叢へ迎撃させ、これを破る。北斉軍は、退却して蕪湖を確保した。
 又、陳覇先は定州刺史沈泰等を侯安都の麾下へ入れ、共に梁山へ據って北斉軍を防御させた。周文育は、この時まだ盆城を落としていなかったが、これを呼び戻した。
 四月、陳覇先は梁山へ行き、諸軍を巡撫した。
 侯安都が、軽兵で北斉の行台司馬恭を攻撃し、大勝利を収めた。一万余の捕虜を獲る。
 五月、北斉軍は、建安公淵明を帰してくれたら退却しようと申し出た。陳覇先は、建安公を船に乗せて送ったが、その途中、建安公は背中にできものができて急死した。
 北斉軍は蕪湖を出発し、丹楊県へ入り、秣稜の故治へ至った。陳覇先は、周文育を方山へ、徐度を馬牧へ、杜稜を大航へ派遣して、防御させた。
 北斉軍は、淮水を跨いで橋を造り、兵を渡した。夜、方山へ到着する。徐嗣徽は、軍艦を揃えて七磯へ進軍し、周文育の退路を絶つ。
 だが、周文育が軍鼓を鳴らして進軍すると、徐嗣徽は制御できなかった。明け方になると、周文育は反転して徐嗣徽を攻撃した。
 徐嗣徽の驍将鮑碎が小艦で殿となるが、周文育はこれを斬り、艦を奪った。徐嗣徽の兵卒は大いに驚き、船を蕪湖へ残したまま丹陽から上陸した。
 陳覇先は、侯安都、徐度を建康へ呼び戻した。
 癸卯、北斉軍は方山から倪塘まで進軍。遊騎の姿は、台城からもチラホラ見えた。建康は震駭する。敬帝は、禁兵を総動員して長楽寺へ屯営させ、内外へ戒厳令を布いた。
 陳覇先は、白城にて、徐嗣徽等を防戦し、そこにて周文育と合流した。いざ合戦とゆう時、強風が吹いてきたので、陳覇先は言った。
「向かい風で戦ってはいけない。」
 すると、周文育は言った。
「事態は急を告げています。古法など、用いられますな!」
そして、馬を飛ばして突撃し、数百人を殺傷した。
 侯安都と徐嗣徽は耕壇(天子が自ら耕して、天を祀るための祭壇)の南で戦った。侯安都は十二騎を率いて突撃し、敵陣を破る。北斉の儀同三司乞伏無労を生け捕りとする。
 陳覇先は、精鋭三千を沈泰へ与え、密かに渡江させ、瓜歩に居る北斉行台の趙彦深を襲撃させた。沈泰は、戦艦百余艘と粟万斛を獲た。
 六月、北斉軍は、ひそかに鍾山へ進軍した。侯安都は、北斉の将王敬寶と鍾山の龍尾で戦い、軍主の張簒を戦死させた。
 丁未、北斉軍は、幕府山まで進軍した。陳覇先は、別将銭明へ水軍を与えて江乗へ派遣し、北斉の輜重隊を攻撃させ、その船米を悉く奪った。北斉軍は兵糧が欠乏し、軍馬や驢馬を殺して食べた。
 壬子、北斉軍は玄武湖の西北まで進んだ。梁軍は、これと対峙する。
 この時、連日の大雨で、平地は一丈程、水で溢れた。北斉軍は、昼夜、泥の中へ立ち続け。足の指がただれてしまった。しかし、台中から潮溝までは乾いており、梁軍は兵卒の交代が容易だった。
 乙卯、陳覇先は兵を率いて莫府山を下りた。侯安都は、麾下の部将蕭摩訶へ言った。
「卿の驍勇は有名だ。だが、千の噂を聞くよりも、一度目の当たりに見る方がよい。」
「それでは、本日お目に掛けてご覧に入れましょう。」
 戦いに及んで、侯安都が馬から落ちた。北斉の兵がこれを包囲すると、蕭摩訶が単騎で吼えながら飛び込んできて、敵兵を蹴散らしたので、侯安都は脱出できた。
 陳覇先と呉明徹、沈泰などが大いに戦っている時に、横合いから侯安都が突っ込み、北斉軍は大敗した。
 数千人の北斉兵が斬り殺され、馬に踏みつぶされた兵卒に至っては、数え切れなかった。徐嗣徽と、弟の徐嗣宗を捕らえ、斬る。
 梁軍は、臨沂まで追撃した。
 そこへ、江乗、摂山、鍾山等の諸軍からも、相継いで勝報が届いた。蕭軌、東方老、王敬寶等四十六人の将帥を捕らえた。その部下の兵卒達は、萩を縛って筏を造り、揚子江を渡ったが、大勢の兵が途中で溺れ、彼等の死体は京口へ流れて川をせき止めた。
 ただ、任約と王僧音のみ逃げることができた。
 丁巳、梁軍は南州へ出て、北斉の軍艦を焼き払った。
 戊午、戒厳令を解除する。
 梁は、捕らえた蕭軌等を斬った。それを聞いた北斉の文宣帝は、陳曇朗を殺した。
 侯安都は、南徐州刺史となった。 

 七月、陳覇先が、中書監、司徒、揚州刺史となり、長城公へ進爵した。 

  

侯真降伏 

 余孝頃が豫章太守となったが、侯真が豫章を鎮守していた。そこで余孝頃は、新呉県へ柵を立てて、侯真と対峙した。
 侯真は、従兄弟へ豫章を守らせて、自身は主力を率いて余孝頃を攻撃した。だが、なかなか落とせないでいた。
 七月、侯平が兵を発して豫章を攻撃し、大いに略奪した上焼き払い、建康へ逃げた。
 本拠地を蹂躙されて、侯真の軍は瓦解した。侯真は、盆城へ逃げ、焦僧度を頼った。
 焦僧度は、北斉へ降伏することを勧めた。だが、陳覇先軍が南下してくると、これへ降伏するよう説いた。
 侯真が陳覇先へ降伏すると、陳覇先は侯平を誅殺して、侯真を司徒とした。 

 九月、陳覇先が、丞相、録尚書事、鎮衞大将軍、揚州牧、義興公となる。 

  

欧陽危、蕭勃の乱 

 かつて、梁の元帝は、始興郡を東衡州として欧陽危を刺史としていた。やがて、欧陽危は州刺史へ転任となったが、蕭勃は、彼を東衡州へ留めて、州へは赴任させなかった。
 元帝が、廣州刺史を蕭勃から王林へ交代させると、蕭勃は、麾下の将孫盪を廣州へ留め、自身は全兵力をまとめて始興へ逃げた。この時、欧陽危は出迎えに行かず、城へこもって城門を閉じていたので、蕭勃は怒り、欧陽危の居城を襲撃し、全財産を奪った。
 やがて、蕭勃は欧陽危を赦し、彼と同盟を結んだ。
 その後、江陵が陥落すると、欧陽危は、遂に蕭勃の部下となった。
 永定元年(557年)、二月。蕭勃は廣州にて起兵した。欧陽危、傅泰、蕭考を派遣した。すると、南江州刺史余孝頃が、兵を率いてきて、合流した。
 朝廷は、平西将軍周文育へ討伐を命じた。
 欧陽危等は、南康へ進んだ。すると、巴山太守熊曇朗が、欧陽危へ誘った。
「共に高州刺史の黄法爽を攻撃しよう。」
 しかし、彼は黄法爽とも、欧陽危討伐の密約を結んでいた。
 熊曇朗は、欧陽危と共に進軍したが、高州城下へ来ると、負けた振りをして逃げ出した。黄法爽は、これに乗じる。欧陽危は、援軍を失って、敗走した。
 周文育の軍には、船が少なかった。それに対して、余孝頃の手元には、多くの船があった。そこで周文育は、焦僧度へ襲撃させ、その船をことごとく略奪した。
 船を得た後、周文育は、預章へ柵を建てた。やがて、軍中の兵料が欠乏してきた。諸将は退却を望んだが、周文育は許さない。周文育は、周迪のもとへ使者を出し、彼と義兄弟の契りを結んだ。周迪は感激して、多くの兵料を送った。
 ここにおいて、周文育は老弱の兵卒を船に乗せて、流れに沿って下向した。そして、柵を焼き払い、まるで退却したかのように見せかけた。
 これを望み見た余孝頃は、大喜びして、軍備を怠るようになった。
 周文育は、間道を昼夜ぶっ通しで行軍し、千韶へ出た。ここは、上流には欧陽危と蕭考が、下流には傅泰と余孝頃が陣を布いている。周文育は、賊軍の中間点へ出ると、城を築いて、大宴会を開いた。欧陽危等は大いに驚く。
 欧陽危は、泥渓まで退却した。周文育は、周鉄虎へ襲撃させ、欧陽危を捕らえた。更に、傅泰も捕らえた。蕭考と余孝頃は、逃げ出した。
 三月、周文育は、欧陽危と傅泰を建康へ送った。陳覇先は、欧陽危と旧交があったので、これを赦して厚く遇した。
 欧陽危と傅泰が捕まったことが知れ渡ると、南康の蕭勃の軍中は恐惶をきたした。
 徳州刺史陳法武と、もとの衡州刺史譚世遠が蕭勃を攻撃して、これを殺した。すると蕭勃の主帥の蘭豈が譚世遠を殺したが、軍主の夏侯明徹が蘭豈を殺し、蕭勃の首を持って降伏した。
 蕭勃の記室李寶藏は、懐安侯任を奉じて、廣州へ據った。
 蕭考と余孝頃は、なお石頭を占拠していた。彼等は、二つの城を造り、各々その一つに據っていた。また、多くの軍艦を揃えて、水を挟んで陣を布いた。
 陳覇先は、侯安都を派遣し、周文育を助けて石頭を攻撃するよう命じた。
 侯安都は、夜陰に乗じて、敵の船を焼き払った。その後、周文育が水軍を率いて進攻し、侯安都は歩兵を率いて後続となった。すると、蕭考は降伏し、余孝頃は新呉へ逃げ帰った。そこで周文育等は、兵を退いた。
 欧陽危は、南方では絶大な人気があった。そこで陳覇先は、欧陽危を衡州刺史として、嶺南を攻撃させた。欧陽危が嶺南へ行くと、諸郡は皆降伏してきて、嶺南は平定された。 

 永定元年(557年)、二月。梁の領軍将軍徐度が、北斉を攻撃した。東籍から出撃して、合肥まで進軍し、北斉軍の軍艦三千艘を焼き払った。 

 五月、余孝頃が丞相府へ降伏してきた。 

  

  

即位 

 王林は既に徴召へ応じず、造反の形を示していた。彼は、多数の舟艦を造って、陳覇先を攻撃しようとした。(以後、王林が最後の抵抗勢力となる。詳細は、「王林の乱に記載。」)
 六月、陳覇先は、開府儀同三司侯安都を西道都督、周文育を南道都督に任命し、水軍二万で武昌を攻撃させた。
 八月、北周が、梁の元帝の棺と諸将の家族千余人を、王林のもとへ返してやった。 

 同月、陳覇先を太傅とし、黄鉞、殊礼、贊拝不名を加えた。
 九月、陳覇先が、丞相から相国へ進んだ。陳公へ封じられ、九錫を備える。陳国へ百司を置いた。
 十月、戊辰。陳公が、王へ進爵した。
 辛未、梁の敬帝は、陳へ禅譲した。
 乙亥、陳王は、南郊にて、皇帝位へ即いた。大赦を下し、永定と改元する。これが、陳の武帝である。梁の敬帝は、江陰王となる。 

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