陳併合   3.陳の滅亡  その二
 
掃討戦 

 陳の水軍都督周羅侯と郢州刺史荀法尚は江夏を守っていた。隋の秦王俊は陸水十万の兵を総管して漢口へ屯営していたが、前進できないまま、一ヶ月が過ぎた。
 陳の荊州刺史陳恵紀は南康内史の呂忠粛を岐亭へ屯営させた。この一軍は巫峡に據った。彼等は揚子江の通行を遮断させようと、北岸の岩を穿って、そこから自陣まで三条の鉄鎖を張った。呂忠粛は、この戦いのために私財を全てなげうって軍用に充てたのだ。
 楊素と劉仁恩はこれを四十余回も猛然と攻撃したが、呂忠粛が険阻な地形を利用して力争したので、隋軍の死者は五千余にも及んだ。陳の兵卒は、敵を殺すと、その鼻を切り取って証とし、功賞を求めた。
 だが、やがて隋軍が勝つようになった。隋軍は、捕らえた陳兵を三度まで逃がしてやった。とうとう、呂忠粛は柵を棄てて逃げた。そこで隋軍は、鎖を撤去した。
 呂忠粛は、今度は荊門の延洲へ據った。これへ対して、楊素は巴蛮千人を派遣した。彼等は五牙の船四艘に乗り、拍竿を用いて呂忠粛の船十余艘を打ち砕いたので、呂忠粛軍は大敗した。二千人の武装兵が捕虜となり、呂忠粛は身体一つで逃げ延びた。
 陳の信州刺史顧覚は安蜀城へ屯営していたが、城を棄てて逃げた。
 陳恵紀は公安に屯営していたが、そこの兵糧物資を全て焼き払って、東下した。こうして、巴陵以東には、城を守る者が居なくなった。
 陳恵紀は、三万の兵を楼船千余艘へ載せて揚子江を下った。建康救援の為である。しかし、秦王俊が、その行く手を阻み、前進できなかった。
 この時、陳の晋煕王叔文は、湘州刺史をクビになり、故郷へ帰ろうとして、巴州までやって来ていた。そこで陳恵紀は、晋煕王を盟主に推戴しようと考えた。しかし、この時既に巴州刺史畢寶羅は隋へ降伏しており、晋煕王はこの申し出を断った。
 やがて建康が平定されると、晋王廣は陳叔寶へ降伏勧告を書かせ、上江の諸将を招いた。この時、諸城は全て武装解除した。周羅侯は諸将と共に三日間大いに慟哭し、兵卒を解散して秦王のもとへ降伏してきた。陳恵紀も降伏し、ここに上江は平定した。
 楊素は揚子江を下って、秦王と合流した。
 王世積は、朕の滅亡を聞くと江南の諸郡へ降伏を勧告した。江州司馬黄偲は城を棄てて逃げ、豫章の諸郡太守は、皆、王世積のもとへ降伏してきた。 

 陳の呉州刺史蕭献は物情に通じていた。陳が滅亡すると、呉の人々は彼を盟主に推戴した。そこで、隋の宇文述は、行軍総管元契と張黙言を率いてこれを討伐した。隋の落叢公燕栄は、水軍を率いて東海から駆けつけた。
 陳の永新侯陳君範は晋陵から蕭献のもとへ逃げ込み、彼等は協力して宇文述を防いだ。
 宇文述の軍が来ると、蕭献は晋陵城東へ柵を立て、兵を留めて宇文述を防がせた。又、麾下の将王褒へ呉州を守らせ、自分は義興から太湖へ出て宇文述の背後を衝こうと考えた。
 宇文述は、進軍して柵を破り、兵を廻して蕭献を撃破した。また、別働隊に呉州を襲撃させると、王褒は道士の服に着替え、城を棄てて逃げた。
 蕭献は敗残兵を集めて包山を保った。しかし、燕栄がこれを撃破する。蕭献は、近習数名と民家へ隠れていたところを見つかり、捕らえられた。
 宇文述は、更に進軍する。陳の東揚州刺史蕭巖が会稽ごと降伏した。蕭巖も蕭献も、長安へ送られて、斬られた。(蕭巖も蕭献も、既述のように、後梁から十万の男女を率いて陳へ降伏してきた人間。)    

 楊素は荊門を下すと、別将の龍暉へ進軍させた。龍暉は南下して湘州へ至った。
 湘州城内の将士達には戦意がなかった。この時の湘州刺史は岳陽王陳叔慎。年は未だ十八才だった。岳陽王は、文武の僚吏を集めて宴会を開いたが、宴たけなわの時、嘆いて言った。
「君臣の義も、これで尽きたか!」
 長史の謝基は、顔を伏せて涙を零した。
 湘州助防遂興侯正理は立ち上がって言った。
「主君が辱められたら、臣下は死ぬものだ。諸君等は陳国の臣下ではないのか!今、天下に大難が起こった。実に、命を捨てるべき時だ。喩え失敗しても、臣下としての節義を見せることはできる。この国以外で死ぬことはできない!今日の決起に猶予はないのだ。遅れる者は斬る!」
 衆は、これに応じた。生贄を殺して盟約を結び、偽りの降伏文書を龍暉へ届けた。龍暉がこれを信じて入城すると、伏せていた武装兵が襲撃し、龍暉軍を皆殺しとした。岳陽王が射殿にて士衆を招くと、たちまち五千人が集まった。衡陽太守樊通と武州刺史鳥居業羅が挙兵してこれを助けた。
 隋は湘州刺史薛冑へ兵を与え、行軍総管劉仁恩と共にこれを攻撃させた。
 岳陽王は麾下の将陳正理と樊通に防戦させたが、敗北する。薛冑は勝ちに乗じて入城し、岳陽王を捕らえた。劉仁恩は鳥居業を破って、これを捕らえる。共に秦王の元へ送り、斬った。 

 嶺南は、まだ帰属する相手が決まっていなかった。数郡が共に高涼太夫人洗氏を推戴し、彼女を聖母と号して境界を守った。
 隋は、柱国韋洸に彼等を安撫させたが、豫章太守徐登が南康に據って拒んだので、韋洸は進軍できなかった。
 秦王は、陳叔寶へ夫人を説得する手紙を書くよう命じた。陳叔寶は、国が滅んだ事を告げ、隋へ帰順するよう彼女を諭した。夫人は首領数千人を集め、一日慟哭した後、孫の馮魂に兵を与えて韋洸を迎えに行かせた。
 韋洸は徐登を攻撃して斬り殺し、進軍する。廣州まで進むと、嶺南の諸州を諭して、平定した。
 馮魂は儀同三司となり、洗氏は宋康郡夫人となった。
 衡州司馬任壊は、都督の王勇へ嶺南へ據って陳氏の子孫を皇帝に推戴するよう勧めたが、王勇は決起できず、部隊を率いて降伏した。任壊は官を棄てて去った。任壊は、任忠の甥である。
 こうして、陳はすっかり平定し、隋は新たに三十州、百郡、四百県を得た。建康の城邑は全て壊すよう詔が降りた。 

  

凱旋 

 晋王は、王韶を石頭城へ留めて鎮守させ、後事を委ねた。
 三月、陳叔寶と王公百司が建康を出発して長安へ向かった。文帝は、ひとまず長安の士民の邸宅を徴発してこれを待ち、内外を整備して迎え入れた。
 四月辛亥、文帝は凱旋軍を驪山まで出迎えた。
 乙卯、凱旋軍が入朝し、捕虜を太廟へ献じた。陳叔寶等は、晋王や秦王に従って殿庭へ列する。晋王を太尉とし、輅車、乗馬、玄圭、白璧等を賜下する。
 丙辰、文帝は廣陽門にて捕虜と謁見した。陳叔寶及び太子、諸王二十八人や司空の司馬消難以下尚書郎へ至る、凡そ二百余人である。文帝の命を受けて、納言がこれをねぎらう。次に、内史令が、陳の君臣が輔け合わずに国を滅ぼしてしまったことを責めた。陳叔寶及び群臣は恥じ入って平伏し、返す言葉もなかった。やがて、これを宥める。
 ところで、文帝の父親の楊忠は、司馬消難と兄弟づきあいしており、文帝も叔父へ対する礼節で接していた。陳が平定されて司馬消難が引き出されたが、特に死一等を減じられた。彼は、畳の上で死ぬことができた。
 庚戌、文帝は廣陽門にて将士と宴会を開いた。門の外には道を挟んで南郭まで布帛を山積みし、恩賞として賜下する。その布帛は、凡そ三百余段。元の陳の境内は十年間税金を免除し、他の州は今年の租賦を免除する。 

 楽安公元諧が進言した。
「陛下の威徳は遠方にまで及んでおります。臣は以前、突厥可汗を候正とし陳叔寶を令史とするよう請願いたしました。今こそ、臣の言葉通りにするべきです。」
 すると、文帝は言った。
「朕が陳国を平定したのは、暴虐な主君を除く為だ。我が国を拡大して誇る為ではない。公の上奏は、朕の想いではない。突厥は砂漠の国で山川を知らない。その可汗をどうして候正にできようか。陳叔寶は昏酔な人間。何で令史にできようか!」
 楽安公は、返す言葉もなく退出した。 

  

論功行賞 

 辛酉、楊素を越公とした。その子息の楊玄感を儀同三司、楊玄奨を清河郡公として、万段の帛と万石の粟を賜下した。賀若弼へ八千段の帛を賜下し、上国柱として宋公へ進爵した。又、各々へ金寶を賜下し、陳叔寶の妹を妾とさせた。
 賀若弼と韓擒虎が、文帝の前で功績を争った。
 賀若弼は言う。
「臣は、将山にて死戦して、敵の精鋭を破り驍将を捕らえ我が国の武威を高揚し、遂に陳国を平定したのです。韓擒虎は、ほとんど交戦しておりません。臣と比べ物になりませんぞ!」
 韓擒虎は言う。
「もともと、臣と賀若弼とで連携して偽都を取れと命令を受けたのです。それなのに賀若弼は抜け駆けをして勝手に賊軍と戦いました。その挙げ句、大勢の将兵を死傷させたのです。臣は軽騎五百を率いて刃に血塗ることなく金陵を取り、任蛮奴(任忠)を降伏させ、陳叔寶を捕らえ、陳の国庫を押さえて巣穴を傾けたのです。賀若弼が夕方になって北掖門へ到着すると、臣は門を開いて彼を招き入れました。彼は、自身の罪を言い逃れるのに手一杯。どうして臣の功績に敵いましょうか!」
 文帝は言った。
「二将共に上勲となす。」
 こうして、韓擒虎も上国柱として、八千段の帛を賜下した。
 ただ、役人が、”韓擒虎が兵卒の統制を取らなかったので、彼等は陳宮で狼藉を働きました。”と弾劾したので、その罰として爵邑を賜下しなかった。
 高潁も上国柱として、斉公へ進爵し、九千段の帛を賜下する。文帝は、彼をねぎらって言った。
「公が陳を討伐した後、『公が造反した』と言う者が居たが、朕は既にそやつを斬った。君臣の道が合致したら、青蠅の入る余地はない。」
 ある時、文帝はくつろいだ有様で潁と賀若弼に陳平定の事を論じさせた。すると、潁は言った。
「賀若弼は、最初に十の献策をし、後には将山にて苦戦の末敵を破りました。臣はただの文吏です。どうして大将と功績を争えましょうか!」
 文帝は大笑いして、潁の謙譲の美徳を嘉した。
 陳を討伐する折、李徳林は文帝の命令を受けて、晋王へ方略を教えた。ここに至って文帝はその功績を賞して、柱国とし郡公に封じ三千段の帛を賜下しようと考えた。だが、ある者がへ言った。
「今、功績が李徳林のものだと公表すれば、諸将は皆怒るでしょうし、公も後世の人間から能なしに想われますよ。」
 そこで高潁がこれを思い止まるように上言したので、沙汰止みとなった。
 秦王を揚州総管四十四州諸軍事として廣陵を鎮守させ、晋王はヘイ州へ呼び戻した。 

  晋王が陳の五人の佞臣を誅殺した時、彼は都官尚書孔範、散騎常侍王差、王儀、御史中丞沈灌の罪を知らなかったので、彼等は誅罰を免れた。しかし長安に到着した後、全ての罪状が暴露された。文帝は彼等の罪科を憎み、辺境へ流して呉越の人々の溜飲を下げた。
 文帝は、陳叔寶を大変優遇した。陳氏の子弟は大勢居たので、彼等を全員京城へ置いていたら良くないと考え、彼等をそれぞれいろんな地方へ分置したが、各々へ充分な田畑を賜り、年毎に衣服も賜下した。
 陳の尚書令江総は上開府儀同三司、袁憲、蕭摩訶、任忠は開府儀同三司、吏部尚書の姚察は秘書丞となった。
 文帝は、袁憲の雅操を特に嘉した。陳の散騎常侍袁元友がしばしば陳叔寶へ直言していたと聞き、これを主爵侍郎へ抜擢した。
 文帝は、群臣へ言った。
「陳を平定した後、朕は任蛮奴を殺さなかったことを後悔した。奴は、人の栄碌を受け重位を得ながら、国の為に死のうともせず、『力の尽くしようがなかった』と言うような男だ。弘演が肝臓を収めたのと比べて、何とかけ離れていることか!」
(衛の懿公が狄と戦って戦死した時、弘演は、自分の腹を割いて懿公の肝臓をその中に入れ、殉死した。)
 文帝は、周羅侯を謁見して、これを諭し、隋で高位高碌で優雅に暮らすよう言った。すると、周羅侯は涙を流して答えた。
「臣は陳氏から厚い恩顧を受けました。その国は滅んでしまいましたのに、無節操なことができましょうか。命を助けていただいただけでも陛下の賜でございます。富貴など、敢えて求めは致しません!」
 賀若弼が周羅侯へ言った。
「公が郢、漢へ布陣したと聞いた時、揚州を取れると思ったのだ。果たしてその通りだった。」
 周羅侯は言った。
「もしも公とサシで戦っていたなら、勝負はどう転んでいたか判らないぞ。」
 遂に、周羅侯は上儀同三司を拝受した。
 ところで、隋が平陳の軍を起こした時、陳の将軍羊翔が真っ先に降伏して道案内となった。その功績で、彼の地位は上開府儀同三司となり、周羅侯よりも上位となった。ある時、韓擒虎が周羅侯をからかって言った。
「機変を知らずに、結局は羊翔よりも下位になってしまった。なんと恥ずかしいことだ!」
 すると、周羅侯は言った。
「昔、江南に居た頃、卿は天下の節士だと聞いていた。今の言葉では、とてもそうは思えないぞ。」
 韓擒虎は、恥じ入った。
 文帝が陳の君臣を責める時、陳叔文のみは、得意げな顔をして喜んでいた。やがて、上表して自薦した。
「昔、巴州に居たことがありますし、あそこの民とは昵懇です。どうか下向させてください。」
 文帝は彼の不忠にむかついたが、江表を懐柔する必要があったので、彼を開府儀同三司として宜州刺史に任命した。 

  話は遡るが、陳の散騎常侍韋鼎が北周へ死者としてやって来た時、たまたま楊堅にあった。韋鼎は、楊堅が奇異な人物だと感じ、言った。
「公はいずれ最も貴い身分になるぞ。天下を一つにするまで一周天(十二年)とかかるまい。老夫は、公へ人質を出そう。」
 やがて至徳年間になると、韋鼎は太府卿となったが、田畑や邸宅を全て売り払った。大匠卿の毛彪が理由を問うと、韋鼎は言った。
「江東では、王気が尽きてしまった!我は長安で死ぬことになるだろう。」
 陳が平定されるに及んで、文帝は韋鼎を上儀同三司とした。ちなみに、韋鼎は韋叡の孫である。 

  賀若弼は、彼の献策を自選して、「御授平陳七策」と名付けたが、文帝は顧みずに言った。
「公は、我が名を挙げようとしてくれるのだろうが、我は名声を求めない。これは、公の家伝とすれば良い。」
 賀若弼は官位も名声も高まり、兄弟は皆、郡公に封じられ刺史となり将に列した。その家の珍宝は数えることもできぬ位で、綺羅を引きずっている婢妾は数百人にも及び、人々はこれを称賛した。
 後、突厥が来朝した時、文帝は言った。
「汝は、江南に陳国の天子が居たことを知っているか?」
「知っております。」
 すると、文帝は使者を韓擒虎の前へ連れていった。
「この男が、陳国の天子を捕らえたのだ。」
 韓擒虎が顔を怒らせて使者を睨み付けると、突厥人は震え上がって顔を挙げることもできなかった。
 左衛将軍の龍晃が文帝へ高潁のことを悪く言うと、文帝は怒って龍晃を左遷し、潁とは益々親密になった。
 ある時、文帝は潁へ言った。
「独孤公は鏡のようなもの。磨けば益々皎然と光る。」
 潁の父親は、独孤信の幕僚となって、独孤の姓を賜ったのだ。だから、文帝は潁のことを「独孤公」と呼んで、名前を呼ぶことがなかった。 

  

封禅 

 朝野の人々は全て、文帝へ封禅するよう請願していた。
 七月、詔が降りた。
「一将軍へ、一小国を滅ぼさせただけだ。このような薄徳で封禅を行っては、上帝へ対しておおぼらを吹くことになってしまう。今後、封禅について語ることは厳禁する。」 

 八月、黄州総管周法尚を永州総管として、嶺南の豪族達を安集させた。彼へは、黄州の兵卒三千五百を与える。陳の桂州刺史銭李卿等は、皆、周法尚のもとへ降伏してきた。
 定州刺史呂子廓が山洞へ據って降伏しなかったので、周法尚は、これを攻撃して斬った。 

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