陳併合   2.陳の滅亡 その一
 
隋軍、渡江 

 開皇九年(589年=この年、陳が滅ぼされた。だから、この年から隋の年号で表記されています。開皇九年は、禎明三年です。)、正月乙丑。明け方、建康は四方が濃霧で覆われた。後主は、申の刻まで寝ていた。
 この日、賀若弼は廣陵から兵を率いて揚子江を渡った。
 話は遡るが、賀若弼は老馬を売って、陳の船を多量に買い付け、隠しておいた。そして、ボロ舟五・六十艘を別に買って、これを湾内の目に付くところへ停留させていた。陳の人間は、その湾を覗いて、隋にはろくな舟がないと思いこんでいた。又、賀若弼は揚子江沿岸の守備兵が交代するときには、帰る兵も来る兵も、必ず廣陵に一旦集めて大演習を行った。これを見た陳の兵卒達は、隋軍が大挙して責めてきたと驚いて防備を固めたが、やがて単なる交代だと判った。このようなことが度重なると、慣れてしまって防備もしなくなってしまった。更に、賀若弼は揚子江沿岸で時々狩猟を行った。この時は、人・馬が喧しく騒ぐ。以上のことを常日頃から行っていたので、いざ揚子江を渡った時、陳の兵卒はそれに気がつかなかった。
 韓擒虎は五百人を率いて、宵のうちに横江から采石へ渡ったが、陳の守備兵は、皆、年賀の宴会で酔っていて、散々に打ち破られた。
 晋王廣は大軍を率いて六合鎮の桃葉山へ屯営した。 

 丙寅、采石戍主の徐子建が建康へ急を告げた。丁卯、陳の後主は公卿を召集して作戦会議が開かれた。戊辰、後主は下詔した。
「犬や羊のような連中が、郊畿を侵略した。蜂や蝦蟇にさえ、毒がある。速やかに掃討せよ。朕は自ら六軍を率いる。内外には戒厳令を布け。」
 そして、驃騎将軍蕭摩訶、護軍将軍樊毅、中領軍魯廣達を都督とし、司空の司馬消難、湘州刺史施文慶を太監軍とした。南豫州刺史樊猛へ水軍を与えて白下へ派遣し、散騎常侍皋文奏へ南豫州を鎮守させた。また、僧、尼、道士にも労役を命じる。 

  

陳の滅亡 

 庚午、賀若弼が京口を抜き、陳の南徐州刺史黄恪を捕らえた。
 賀若弼の軍勢は整然としており、秋毫も犯さなかった。軍士の中で民間から酒を押し買いした者が居たので、賀若弼は即座に切り捨てた。この戦いで捕らえた捕虜六千余人は、皆、釈放し、食糧を配給して好きなところへ行かせた。これを聞いて降伏してくる者は後を絶たなかった。 

 樊猛は建康に居り、その子の樊巡は摂行南豫州事だった。
 辛未、韓擒虎は姑孰へ進攻し、半日で抜いた。樊巡とその家族を捕まえる。皋文奏は逃げ帰った。江南の父老は、もともと韓擒虎の威名を聞いていたので、軍門へ挨拶に来る者が、夜遅くまで引きも切らなかった。
 魯廣達の子の魯世真は、新蔡に住んでいた。(侯景の乱の時、魯悉達は郷人を一つにまとめ上げて新蔡を保全した。以来、魯氏は新蔡を世襲して、陳へ仕えていた。)魯世真は、弟の魯世雄と共に、新蔡ごと韓擒虎へ降伏し、建康の魯廣達のもとへ書状を書いて招き寄せた。だが、魯廣達は朝廷へ出向いて、自らを弾劾する。後主はこれを慰労し、黄金を賜下して宮へ返した。
 樊猛は、左衞将軍蒋元遜と共に青龍船八十艘で六合の兵を防いでいた。後主は、樊猛の妻が隋軍に捕らえられたので、寝返るのではないかと懼れ、任忠と交代させようと思った。そこで、蕭摩訶に樊猛を諭させたが、樊猛は不満だった。後主は樊猛の意志を汲んで、交代を中止した。 

 ここにおいて、賀若弼は北道から、韓擒虎は南道から進軍した。
 揚子江沿岸の守備兵達は、尻に帆掛けて逃げ出した。賀若弼は兵を分け、一隊を曲阿の要衝へ入れ、敵を分断した。
 後主は、司徒の豫章王陳叔英を朝堂へ屯営させ、蕭摩訶を楽遊苑、樊毅を耆闍寺、魯廣達を白土岡、孔範を宝田寺へ配置した。己卯、任忠が呉興から到着し、朱雀門を守った。
 辛未、賀若弼は鐘山を占拠し、白土岡の東へ陣営した。晋王廣は総管の杜彦と韓擒虎を合流させ、新林に屯営させた。この兵力は、二万。
 隋のキ州総管王世積は九江から水軍を出し、キ口にて陳の将軍紀真を斬った。陳の民はパニックを起こし、相継いで隋へ降伏して行く。晋王廣がこれを報告すると、文帝は大いに悦び、群臣と宴会を開いた。 

 この時、建康にはまだ十万の武装兵が居た。しかし後主は惰弱な人間で、陣頭に立つでもなく、ただ日夜泣き暮らすばかりで、実務は全て施文慶へ委ねていた。施文慶は軍人から憎まれていることを知っていたので、彼等が手柄を建てることを懼れ、上奏した。
「将軍達には不満が鬱積しております。このような事態になったら、どうして信用できましょうか!」
 これによって諸将の献策は全て否決された。
 賀若弼が京口を攻撃した時、蕭摩訶は迎撃を請うたが、後主は許さなかった。賀若弼が鐘山を占拠すると、蕭摩訶は言った。
「賀若弼軍は敵地深く入り込んだばかり。まだ、防塁も塹壕も不十分です。今、襲撃すれば、必ず勝てます。」
 しかし、これも許されなかった。
 ここに及んで後主が蕭摩訶と任忠を内殿へ呼んで軍議を開くと、任忠は言った。
「『遠征軍は速戦を貴び、迎撃する側は持久戦を貴ぶ』と、兵法にあります。今、我が国には兵力も兵糧も充分にあります。台城を堅く守り、揚子江に沿って柵を立て、北軍が来ても戦わないことです。そして、一隊を出して揚子江の水路を断ち、奴等の連絡が取れないようにします。その上で臣へ精鋭一万と金翅船三百艘を与えてくだされば、臣は揚子江を下って六合を襲撃しましょう。そうすれば、敵方は大軍ですが『揚子江を渡った我が軍は既に全滅した。』と、意気消沈してしまいます。それに、淮南の土人達は、臣とは旧知。今、臣がそちらへ出陣したと聞けば、彼等も応援に駆けつけてくれます。そこで臣が『徐州を攻撃する』と宣伝し、敵方の帰路を断てば、諸軍は戦わずに壊滅します。春になれば水量も増えますし、そうすれば周羅侯等の軍勢も駆けつけてきます。これこそ良策です。」
 しかし、後主は従わなかった。
 翌日、後主はサラッと言った。
「いつまでも作戦が決まらなければ、兵卒が不安がる。蕭摩訶を呼んで出撃させろ。」
 任忠は叩頭して戦わないよう請うた。
 孔範は、上奏した。
「私も出撃させてください。かつて匈奴を撃破した竇憲もかくやとばかりの手柄を建てて見せます。」
 後主はこれを認可した。また、蕭摩訶へ言う。
「我が為に決戦してくれ!」
 すると、蕭摩訶は言った。
「今までの戦いは、我が為、国の為でした。しかし今度の一戦は、それに加えて妻子の為です。」
 後主は官庫からたくさんの金帛を出し、諸軍へ賜下した。
 甲申、魯廣達に白土岡へ陣立てさせ、諸軍の南を固めさせた。その北側に任忠、樊毅、孔範と続き、最北翼が蕭摩訶である。陳の諸軍は、南北二十里に及び、その両端は互いの進退も判らなかった。
 賀若弼は軽騎を率いて山へ登り、敵の布陣を見下ろした。そして駆け下りると楊牙や員明等麾下の七総管へ武装兵八千を与え、迎撃した。
 ところで、後主は蕭摩訶の妻と密通していた。だから、蕭摩訶には最初から戦意がなかった。しかし魯廣達は力戦し、賀若弼と互角に競った。熱戦の中、隋軍は四回押し返され、二百七十三人の死者を出し、賀若弼自身煙幕を使って身を隠すほどだった。
 しかし、陳の兵卒は敵の首を取る度に、後主の元へ駆けつけて報酬をねだった。賀若弼はこれを見て、陳兵の驕慢怠惰を知り、軍を返して孔範軍と戦った。孔範軍はしばらく戦ったが支えきれずに逃げ出した。陳軍はこれを見て総崩れとなり、五千人の死者を出した。
 員民は蕭摩訶を捕らえ、賀若弼の元へ送った。賀若弼はこれを殺そうとしたが、蕭摩訶は顔色一つ変えなかった。賀若弼は感動し、蕭摩訶を釈放して礼遇した。 

 任忠は台へ駆け込むと、後主へ敗北を継げ、言った。
「臣には、もうどうすることもできません。」
 後主は任忠へ黄金二包みを与えて更に戦わせようとしたが、任忠は言った。
「陛下は船を使って上流へお逃げください。臣は命に代えてもお供いたします。」
 そこで後主は任忠へ護衛の準備を命じ、近習達へは身支度を命じた。しかし、任忠はなかなか戻ってこないので、皆、いぶかしがった。実は、韓擒虎が新林から進軍していたが、任忠は数騎を率いてこれを迎え入れ、降伏していたのだ。
 領軍蔡徴が朱雀門を守っていたが、韓擒虎が来ると聞くや、部下達は懼れて逃げ出してしまった。任忠は、韓擒虎を朱雀門へ引き入れた。陳の兵卒の中には、まだ防戦しようとする者も居たが、任忠は言った。
「この老夫でさえ降伏したのだぞ!諸軍が何でそこまでするのか!」
 それを聞いて、兵卒達は皆、逃げ散った。
 ここにおいて、城内の文武百官は全て逃げ出したが、ただ尚書僕射の袁憲が殿中に居り、尚書令の江総等数人が尚書省に残っていた。後主は、袁憲へ言った。
「我は、卿を余人より優遇したわけではないのに、卿は残ってくれた。日頃の行いが悔やまれてならぬ。しかし、これは朕一人が無徳だったのではない。江東の衣冠達の道義心もなくなってしまっていたのだ。」
 後主が逃げ出そうとすると、袁憲は顔色を正して言った。
「北兵は闖入しても乱暴狼藉など働きますまい。この大事の時に、陛下はどこへ行かれようと言うのですか!どうか陛下、衣冠を正して正殿へ座り、梁の武帝が侯景へ対した態度をお倣いください。」
 しかし、後主は従わず、逃げながら言った。
「刃の下へは近づけない。朕には朕の考えがあるのだ!」
 後主は宮人十余人とともに後堂の景陽殿から逃げだし、古井戸へ隠れようとした。袁憲が苦諫したが、従わない。後閣舎人の夏侯公韻が身を以て井戸を覆ったが、後主にはこれとしばらく揉み合い、とうとう井戸へ入ってしまった。
 やがて、隋軍がやって来ると、古井戸の中を覗き込んだ。呼びかけてみても返事がなかったので、石を投げ込もうとすると、驚声が挙がった。そこで縄を降ろして引っ張ると、驚くほど重い。引っ張り上げてみると、後主だけではなく、張貴妃と孔貴嬪もぶら下がっていた。
 沈后は、皇后の座に坐って、隋軍を迎え入れた。
 皇太子の深は十五才。彼は閣を閉じ自分の座へ坐っていた。傍らには、太子舎人孔伯魚が控えている。隋軍の兵卒は扉を叩いて入室した。この時、太子は安座したまま、彼をねぎらって言った。
「遠路はるばる、大変だったことだろうな。」
 兵卒は感動して敬じた。 

 この時、陳の宗室の王侯は、建康に百余人滞在していた。後主は彼等が乱を起こすことを恐れ、皆を朝堂へ集めて豫章王叔英に総督させていた。台城が陥落すると、彼等は全て降伏した。
 賀若弼は勝ちに乗じて楽遊苑まで進軍した。魯廣達は、なおも残余の兵を指揮して戦った。隋の兵卒を数百人獲殺したが、日が暮れるに及んで、とうとう武装解除した。彼は台を再拝して慟哭し、衆へ言った。
「我は、国を救うことができなかった。この罪は重い!」
 士卒は皆、涙を零し、遂に捕らわれた。
 諸門の衛兵は皆逃げた。賀若弼は夜、北掖門から入城した。そこで、韓擒虎が既に陳叔寶を捕らえていることを聞き、これを呼んだ。陳叔寶は恐懼し、汗をだらだら流し足が震えている有様で、賀若弼へ再拝した。
 賀若弼は言った。
「小国の君主は、大国の卿に相当する。我を拝するのは礼に適っているな。隋の朝廷へ来れば、帰命侯にはなれるだろう。そんなに恐れることはない。」
 賀若弼は、戦功が韓擒虎に劣ったことを恥じ、韓擒虎と罵りあい刀を抜いて室を出た。賀若弼は、蔡徴へ降伏の文書を造らせて陳叔寶は騾車へ載せて自分の所へ連れてこようと思っていたのに、それが果たせなかったのである。
 賀若弼は、陳叔寶を徳教殿へ幽閉した。
 高潁が一足先に建康へ入った。ところで、潁の子息の高徳弘は晋王廣の記室だった。そこで晋王は、高徳弘を潁の元へ遣り、張麗華を留めておくように命じた。だが、潁は言った。
「太公望が殷を滅ぼした時、紂王をたぶらかしていた妲己を斬り殺しました。なんで張麗華を留めて置けましょうか!」
 そして、張麗華を斬罪に処した。
 高徳弘が報告すると、晋王は顔色を変えて言った。
「昔の人間は言った。『徳には報いざる無し。』と。我は必ず高公へ報いてやる!」
 これ以来、晋王は潁を恨んだ。
(胡三省曰く。もしも潁が、張麗華を晋王へ渡したら、文帝は必ず怒った。そうしたら、どうして晋王は皇太子になれただろうか。まさしく、徳として感謝するべきであるのに、かえって恨むとは!)
 ところで、これは余談だが、賀若弼が京口を渡った時、陳の将士は後主へ密書を出して急を告げた。しかし、後主は毎日酒浸りで、危急の文書にさえ目を通さない。高潁が建康へ入った時、その文書は後主の椅子の下に未開封のままで置いてあった。

 丙戌、晋王が建康へ入った。施文慶を、”委任されたのに不忠だった。諂佞で主君の耳を塞いだ。”とし、沈客卿は”重税をはたりとって主君を喜ばせた”とし、太市令陽恵朗、刑法監徐析等を”民を害した”として、全て斬罪に処し、陳の民衆の溜飲を下げた。又、潁と元帥符記室裴矩に図籍を押収させた。符庫には封印をして資財は一つも略奪しなかったので、天下は皆、晋王を賢人と称賛した。
 晋王は、賀若弼が決戦の日取りを無視して抜け駆けをしたのは軍規違反だとして、属吏へ引き渡した。だが、文帝は使者を放って、言った。
「陳を平定したのは、賀若弼と韓擒虎の手柄だ。」
 そして、賀若弼と韓擒虎へ万段の帛を賜下し、その功を賞した。
 開府儀同三司王頒は、王僧弁の息子である。彼は、ある夜、陳の高祖の墓を暴き、その骨を焼いて灰にして、水へ入れて飲んだ。そして、自らを縛って晋王の元へ自首してきた。晋王がこれを上聞すると、文帝は王頒を赦してやった。
 陳の高祖と世祖と高宗の陵墓は、合わせて五戸に墓守をさせた。 

  

 ところで、陳の使者として隋へやって来ていた許善心は隋にて軟禁されていたが、文帝は彼の元へ使者を派遣し、陳が滅亡したことを告げた。許善心は喪服を着て慟哭し、東へ向いて三日間座った。文帝は詔を出して、見舞って遣った。
 翌日、詔が降りて、許善心が通直散騎常侍に任じれ、衣一襲が賜下された。許全身は哭して悲しみを尽くした後、房へ入って服を着替えた。出てくると北面して立ち、涙ながらに再拝して詔を受けた。翌日の朝、彼は殿下に泣き伏し、哀しみの余り立つことができなかった。文帝は、左右を顧みて言った。
「陳を平定したのは、ただこの人を得る為だった。彼はその旧君をこんなにも慕っている。これからは、我のために誠実な臣下となるだろう。」
 そして彼を本の官のまま、門下省へ直属させた。 
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