陳の文帝
 
衡陽王昌 

 西魏が江陵を落とした時、長城世子昌(陳覇先の世子)や中書侍郎項等は、全て長安へ連れて行かれた。
 高祖(陳覇先)が即位すると、息子達を返してくれるように、屡々北周へ申し入れたが、北周は、彼等を返さず、人質として手元に置いていた。
 しかし、高祖が崩御すると、北周は陳へ昌を返還した。(陳覇先が生きている間は返さず、死んで二代目が即位した後に本国へ返還するのは、兄弟で継承争いをさせようと考えてのことである。)
 しかし、王林の乱の真っ最中だったので、昌は安陸に留まった。
 やがて王林の乱も平定したので、昌は安陸を出発した。
 天嘉元年(560年)、揚子江を渡るに先立って、昌は文帝へ書を出した。しかし、その言葉は甚だ不遜だった。
 文帝は喜ばなかったが、侯安都を呼び出し、何食わぬ顔で言った。
「太子が帰ってくる。我は一藩を求めて、そこで老後を過ごそうか。」
 すると、侯安都は言った。
「天子が代わるなど、そんな話は前代未聞です!臣はそんな詔は奉じませんぞ!」
 そして、自身が昌を迎えに行くと申し出た。
 ここに於いて群臣が上表し、昌へ爵位を与えるよう請願した。
 二月、文帝は昌を驃騎将軍、湘州牧に任命し、衡陽王に封じた。
 三月、衡陽王昌は、揚子江を渡る際、急な流れで船から落ち、溺れ死んだと報告された。しかし実際は、侯安都が衡陽王昌を殺したのである。侯安都は、この功績で清遠公となった。 

  

孫場(本当は、土偏ではなく王偏) 

 北周軍が郢州を攻撃した。郢州助防張世貴は、外城を挙げてこれに応じた。北周軍は築山を作り、雲梯を造って、昼夜となく郢州城を攻めまくる。風が吹けば、それに乗じて火を放ち、内城の南面五十余楼を焼き尽くす。
 郢州刺史孫場(本当は、土偏ではなく王偏)の麾下の兵は千人にも満足りなかったが、自ら兵卒を慰撫し、酒やご馳走をふるまったので、士卒は皆、彼の為に死戦した。
 北周軍は勝つことができない。そこで、孫場を柱国、郢州刺史に任命し、万戸郡公に封じると持ちかけた。孫場は、偽ってこれを受諾したので、北周軍は攻撃の手を緩めた。其の隙に彼は、密かに防備を固めた。そして備えができるや、再び拒守した。
 やがて王林が敗北すると、陳は援軍を派遣した。それを知った北周軍は、三月、包囲を解いて、退却した。
 孫場は、将佐を集めて言った。
「我と王公は、共に梁朝の為に戦って、今日へ至った。それがこのようになってしまったとは、これが天命か!」
 そして、陳へ使者を派遣し、降伏した。
 甲子、呉明徹を武州刺史に、孫場を湘州刺史へ任命した。しかし、孫場は不安でならず、朝廷へ挨拶へうかがうことを強く請願した。そこで、孫場を中領軍とした。 

 ちなみに熊曇朗は、城に據って抵抗していたが、王林が敗北すると、部下が次々と逃げ出していった。周迪は、それに乗じて城を攻め落とし、一万余の男女を捕虜とした。
 熊曇朗は村へ逃げ込んだが、村人達から斬り殺された。その首は建康へ運ばれた。
 北斉軍は魯山を守っていたが、戊午、城を棄てて逃げた。そこで、南豫州刺史程霊洗へ、魯山を守らせた。 

 四月、文帝は侍中の周弘正を使者として、北周と通好した。 

 五月、侯安都の父親が卒した。文帝は、母親を建康へ呼んだが、彼女は郷里を離れたがらなかった。そこで、東衡州を新たに設置し、侯安都の従兄弟の暁を刺史とした。
 侯安都の子息の秘は、わずか九才だったが、始興内史となった。 

 六月、梁の元帝を江寧に埋葬する。その葬礼は、全て梁の典礼に拠った。 

  

賀若敦来寇 

 八月、北周軍司馬賀若敦が一万の軍勢で部陵を攻撃した。武州刺史呉明徹は支えきれず、軍を巴陵まで退いた。
 ところで、江陵が陥落した時、巴・湘の地方は全て北周に奪われたが、北周は、これを梁の人間に守らせていた。
 陳の太尉侯真が兵を率いて湘州へ迫った。賀若敦が救援に向かって、侯真の軍を屡々破り、勝ちに乗じて深入りし、湘州まで進んだ。
 九月、北周の独孤盛が水軍を率いて、賀若敦と共に進撃した。文帝は、儀同三司徐度を派遣した。徐度は、巴丘にて侯真軍と合流した。
 この時、秋口で、川は水をたっぷりと湛えていた。徐度と侯真は糧道が断絶したので、略奪して兵糧を調達した。
 賀若敦も兵糧が乏しかったが、これを陳軍に知られることを恐れた。そこで、陣営の中に土を盛り、その上を米で覆って、さも兵糧を蓄えているように見せかけた。そして、近隣の村人達を陣営へ招き寄せる。この宣伝が功を奏し、侯真等は、北周軍の兵糧は充実していると思った。
 賀若敦は、また、陣営を増設して、長期戦の構えを取った。おかげで、湘・羅の間は農業ができなくなったが、侯真等に打つ手はなかった。
 話は前後するが、土着民達は軽舟を操り、米や鶏などを侯真の軍へ献上していた。
 賀若敦はこれを患い、土着民の舟を装って、その中へ武装兵を潜ませた。侯真軍は、いつもの兵糧と思って舟を寄せた。すると、武装兵が飛び出してきて、侯真の兵士を捕らえた。
 また、賀若敦の軍から逃亡して侯真軍へ投降する兵卒が相継いだ。そこで、賀若敦は一計を案じた。
 まず、一群の馬を選んで、これを舟へ追い立てたが、その馬が舟へ乗ったら、鞭で打った。これを数回繰り返すと、馬は舟に乗るのを恐れるようになった。そこで、その馬を兵士へ与えて、偽って降伏させた。そして、揚子江の岸へ伏兵を置いた。
 侯真軍は、投降兵を真に受けて、馬を牽いて舟へ戻ろうとした。だが、馬は嫌がって乗船しない。そうやってまごついているところへ伏兵が飛び出してきて、侯真軍を皆殺しとした。
 こんな事があって以来、土人達が兵糧を献上に来ても、北周軍から兵士が投降に来ても、侯真は計略と勘ぐって、攻撃するようになってしまった。
 十月、侯真は楊葉州にて独孤盛軍を撃破した。独孤盛は敗残兵を集めて城を築き、自衛した。
 丁亥、侯安都へ、侯真を救援に行くよう、詔が下った。
 十二月、周の巴陵城主尉遅憲が降伏した。そこで文帝は、巴州刺史侯安鼎を派遣して、これを守らせた。
 独孤盛は、楊葉州から逃げ出した。賀若敦は、ますます孤立する。
 二年、正月。北周の湘州刺史殷亮が降伏してきて、湘州が平定された。
 侯真は、長い間賀若敦と対峙していたが、これを制圧できなかった。そこで、賀若敦へ言った。
「退却してくれるのならば、舟を貸してやろう。これで揚子江を渡ればよい。」
 しかし、賀若敦は謀略かと疑って許さず、返事を出した。
「湘州は我等の土地だ。お前達が侵略してきたのではないか。俺に帰って欲しいのならば、まずお前達が百里外へ兵を引け。」
 そこで侯真は船を揚子江岸へ留めたまま、兵を率いて撤退した。それを見届けて、賀若敦は北へ帰った。彼の麾下の兵卒は五・六割が病死していた。
 こうして、武陵、天門、南平、義陽、河東、宜都郡がことごとく平定された。
 三月、侯真が卒した。
 四月、北周が、殷不害を使者として派遣した。 

  

  

国内雑記 

 四月、日食が起こった。十月にも、日食が起こった。三年の九月にも日食が起こる。(日食が、こんなに頻繁に起こることがあるのだろうか?) 

 縉州刺史留異は、本拠地で割拠する勢いだった。十二月、文帝は討伐軍を出す。
 二年、江州刺史周迪が留異と密かに結託した。(詳細は、「浙江の乱」に記載。) 

 梁末の動乱以来、南朝では鉄銭の流通が減った。民間では、私的に鵝眼銭を造って使用していた。
 閏月、陳朝廷は五銖銭を改鋳した。新五銖銭は、一個で鵝眼銭十個に相当した。 

  

  

安成王項(本当は王偏) 

 十一月、北周は、安成王項(本当は王偏)を陳へ帰した。文帝は喜び、黔中と魯山郡を北周へ贈った。
 二年、二月。安成王項が建康へ到着した。中書監・中衞将軍とする。
 文帝は、杜杲へ言った。
「弟が帰ってきたのは、実に目出度い。これも北周の恩恵だ。しかし、魯山郡を賄賂として贈ったのは、もったいなかったかな。」
 杜杲は言った。
「長安にいる時の安成王は、単なる一庶民でした。しかし、陳の皇帝の弟なのです。その価値が、どうしてたかが城一つどころでしょうか!我が国は、親族が睦み合い、仁恕は全ての物へ行き渡り、太祖の遺志を遵守し、下々も義を慕う。だからこそ、安成王殿下を南へ帰してくれたのです。それなのに、陛下は尋常の土塊と骨肉の愛情を交換しようかと言われる。臣は、そんな言葉を聞く耳を持ちません!」
 文帝はすごく恥じ入った。
「いまのは、ほんの戯れ言だ。」
 そして、杜杲を非常に礼遇した。
 安成王の妃の柳氏と子息の叔寶は、まだ穰城にいた。文帝は、毛喜を使者として派遣して彼等も請い、北周は、皆、帰した。 

  

  

驕臣 

 司空の侯安都が、功績を恃んで驕慢になった。彼は屡々文武の士を集めて騎射をやったり詩を賦したり、そうゆう賓客は、時には千人にも及んだ。部下の将帥も法度を踏みにじる者が多く、彼等は役人から追われると侯安都の屋敷へ逃げ込んだ。
 文帝は、厳格な性格なので、内心穏やかではなかったが、侯安都は、それに全く気がつかなかった。
 宴会では、酔いつぶれるまで飲む。文帝が楽進園へ行く時には、常にお相伴する。
 ある時、酒が入って、文帝へ言った。
「この見事な庭園を、どうして臨川王だった頃に造らなかったのですか?」
 文帝は知らぬ顔をしたが、侯安都は二度も三度もしつこく聞き続けたので、とうとう文帝は言った。
「朕が天子となれたのは天命とはいえ、卿の力添えがあったればこそだ。」
 宴会が終わると、妻妾を引き連れて御堂にて宴会を開くことを求めた。文帝は許してやったが、はらわたが煮えくり返った。
 重雲殿で災が起こった時、侯安都は武装兵を引き連れて入殿したので、文帝は彼を甚だ憎み、密かに備えを行った。
 周迪が造反するに及んで、朝臣達は侯安都に討伐させるよう言ったが、文帝は呉明徹を抜擢した。また、侯安都の部下の元へ屡々使者を派遣して、造反の証拠がないか査察した。
 侯安都から寵遇されていた舎人の蔡景歴が、彼の言動を具に記録して、上奏した。そして、それらを連ねて造反の証拠をでっち上げた。
 天嘉四年(563)、二月。文帝は、侯安都をただ徴召してもやってこないのではないかと慮って、侯安都を江州刺史とした。
 五月、侯安都は京口から建康へもどってきた。
 六月、文帝は、侯安都を招いて、嘉徳殿で宴会を開いた。そして、その部下の将帥達は尚書朝堂へ集めた。
 ノコノコやってきた侯安都は捕らえられた。将帥達は一旦収容されたが、馬杖を悉く奪うことで赦してやった。
 ここにおいて、蔡景歴の上表文を朝臣達へ公表し、詔を下して侯安都の悪行を暴露した。
 翌日、自殺させる。しかし、彼の妻子はお咎めなしとして、死体も彼等へ引き取らせた。
 ところで、高祖がまだ高口に居た頃、諸将を集めて宴会を開いたことがあった。この席に、杜僧明、周文育、侯安都が参列していた。彼等は寿ぎ、各々自分の功績を述べた。すると、高祖は言った。
「卿等はみな、良将だ。しかし、それぞれに短所がある。杜公は、志は大きいが、知識が乏しく、下へ狎れて上へ驕る。周侯は人を選ばずに付き合い、誰にでも本音で話す。侯郎は傲誕で節度がなく、軽薄だ。全て、身を滅ぼしかねない欠点だぞ。」
 遂に、皆、その言葉通りの末路を辿った。 

 同月、北斉から和親の使者が来た。 

  

  

綱紀粛正 

 六年、安成王項を司空とする。 

 安成王は、文帝の弟で、権勢は国中を靡かせていた。直兵(王公府に仕える兵)の鮑僧叡は、安成王の権勢を恃み、不法な行いを繰り返していた。
 御史中丞の徐陵がこれを弾劾し、南台(御史台)の官属を率いて上奏した。文帝が徐陵を見ると、服装は厳粛で犯しがたい。この時、安成王は殿上に侍立していたが、徐陵が上奏文を読み進むにつれ、汗びっしょりになってしまった。
 文帝は、安成王を侍中、中書監から罷免する。これによって、朝廷は粛然となった。
 しかし、天康元年(566年)三月。安成王は尚書令となった。 

  

  

文帝崩御 

 同月、文帝は重病となった。朝廷のことは、尚書僕射到仲挙と五兵尚書孔奐が決裁した。 更に病が篤くなったので、到仲挙、孔奐、安成王、吏部尚書袁枢、中書舎人劉師知が文帝の元へ集まった。
 皇太子の伯宗は柔弱な人間だったので、文帝は、彼が帝位を守れないことを憂えていた。
 文帝は安成王へ言った。
「吾は、太伯に倣おうと想う。(”お前へ帝位を譲る”の意)」
 安成王は泣き伏して固辞した。
 又、文帝は到仲挙と孔奐へ言った。
「今、三国が鼎立している多難な時期だ。年長の主君が必要なのだ。だから朕は、新しくは晋の成帝に、遠くは殷の法に倣いたいのだ。卿等はこの意向を遵守してくれ。」
 すると孔奐は、涙を流して言った。
「陛下、どうか養生して後平癒ください。皇太子は、もうよいお年で、聖徳も磨かれておりますし、 安成王は皇弟の尊、きっと周公旦に負けますまい。廃立などとゆう言葉は、臣等愚直な人間には聞こえませんぞ。」
「ああ、古の硬直の遺風が、卿の中に生きていたか。」
 そこで、孔奐を太子の後見役とした。 

(司馬光、曰く)
 人臣が主君に仕える時は、主君の美点に従い、到らないところは矯正しなければならない。
 孔奐は陳の重鎮で、社稷の大計を委ねられた。だから、世租の言葉が正しくないと思ったら、竇嬰が主君を面罵し袁オウが朝廷で諫争したように、主君の心得違いを芽のうちに摘み取らなければならない。
 逆に正しいと思ったのならば、これを詔書に明示して中外に宣言するように請願すればよかった。そうすれば文帝は、宋の宣帝のように褒められただろうし、宣帝は甥を殺した極悪人に成らずに済んだのである。
 そうでなければ、太子が後を継ぐのをゆるがせにしてはならないと、忠節を尽くし抜くべきだ。殺されるまで後に退かなかった晋の荀息や趙の肥義のように。
 それなのに彼は、主君が生きている間は巧いことを言ってその想いに迎合したのに、死んでしまったら権臣の簒奪を止めることができなかった。そして、世継ぎが地位を失ったのに、死ぬことさえできなかったのである!
 このような人間こそ、姦諂の最たる者なのに、文帝は却って遺直となして、六尺の孤を託したのである。なんと悖ったことか! 

  

 癸酉、文帝が崩御した。
 文帝は、艱難の中で成長したので、民の疾苦を知っていた。その性は明察で倹約。
 太子が即位した。大赦が降る。 

 元へ戻る