李子通  沈法興
 
 武康の沈法興は、代々郡の豪族で、宗族は数千家もあった。
 唐の武徳元年(618年)、宇文化及が隋の煬帝を弑逆したと聞き、宇文化及討伐を大義名分にして挙兵した。烏程へ着く頃には、精鋭六万の大軍に膨れ上がり、餘杭、毘陵、丹陽と攻略し、遂には江表十余郡を占拠した。江南道大総管と自称し、百官を設置する。
 やがて東都の越王が即位する(資治通鑑では「皇泰主」と表記されている。)と、沈法興は皇泰主へ上表した。
 沈法興の幕僚には、司徒の陳果仁、司空の孫士漢などがおり、府掾に李百薬がいた。李百薬は、李徳林の子息である。
 沈法興は、既に毘稜を奪ったので、江・淮の南はすぐにでも平定できると豪語し、梁王を自称した。毘稜を都に、延康と改元し、百官を設置した。
 沈法興は残忍な性格で、刑罰によって国を保とうと考え、将士に小さな過失があっても即座にこれを斬った。これによって、その臣下達は彼を怨み始めた。
 この頃、杜伏威は歴陽に據り、陳稜は江都に據り、李子通は海陵に據り、皆、江表を狙っていた。沈法興軍は屡々敗北した。
 やがて、李子通が江都を包囲した。陳稜は、沈法興と杜伏威へ人質を送って救援を求めた。沈法興は、子息の沈綸へ兵数万をえ、杜伏威と共に陳稜救援に向かわせた。
 杜伏威は清流に陣営し、沈綸は揚子へ陣営する。両陣は、数十里離れていた。この時、李子通の納言毛文深が計略を建てた。江南の人間を募って、沈綸軍と偽称して杜伏威の陣営へ夜襲するとゆうもの。これは図に当たり、杜伏威は怒って沈綸の陣を襲撃した。
 これによって両軍とも疑い、敢えて進もうとしなかった。その隙に、李子通は江都へ猛攻を加え、これを落とした。陳稜は、杜伏威のもとへ逃げ込んだ。
 江都へ入った李子通は、沈綸軍を襲撃し、大勝利を収める。すると杜伏威も撤退した。
 二年、八月。李子通は皇帝位へ即き、国号を「呉」と定め、明政と改元した。
 丹陽の賊帥楽伯通が、一万余の手勢を率いて李子通へ降伏した。李子通は、彼を左僕射とした。
 三年、李子通が揚子江を渡って沈法興を攻撃し、京口を取った。
 法興は、その僕射蒋元超を派遣して、これを拒んだ。両軍は陵(本当は、大里ではなく、广)亭にて戦い、元超は敗死した。
 法興は毘陵を棄て、呉郡へ逃げる。ここにおいて丹陽、毘陵羅の郡は、全て子通へ降伏した。子通は、法興の府掾だった李百薬を内史侍郎、国子祭酒とした。
 すると、杜伏威が李子通を攻撃し、大勝利を収めた。その詳細は「杜伏威」へ記載する。
 子通は太湖へ東走した。だが、そこで敗残兵をかき集めて二万人を得ると、呉郡の沈法興を攻撃し、大勝利を収めた。法興は左右数百人を率いて城を棄てて逃げた。
 呉郡の賊帥聞人遂安が、その将葉孝弁を派遣して、法興を迎えた。法興は同行したが、中途で後悔し、孝弁を殺して会稽へ向かおうと思った。だが、孝弁はこれを覚り、法興へ迫って揚子江へ落とし、溺死させた。
 子通の軍勢は再び勢力を盛り返し、餘杭へ遷都した。法興の領土を全て奪ったので、その領土は北は太湖から南は嶺へ至り、東は会稽を包み、西は宣城を距てた。 

 四年、十一月、杜伏威が、その将王雄誕へ、李子通を攻撃させた。対して李子通は、精鋭兵で独松嶺を守った。
 雄誕は麾下の将陳當へ千余人を与え、敵陣よりも高い場所から、険阻な地形を利用して接近させた。その軍は旗幟をたくさん張り巡らし、夜になればあちこちの樹木へ篝火を縛り付けて山沢を照らし尽くした。子通は懼れ、陣営を焼き払って杭州へ逃げた。雄誕はこれを追撃し、城下にて再び撃破する。
 庚寅、子通は切羽詰まって降伏した。伏威は子通と、その左僕射楽伯通を長安へ送った。上は、彼等を赦した。 

 五年、七月、李子通は造反を計画して逃亡したが、捕まって殺された。詳細は「杜伏威」へ記載する。 

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