宗教
 
 垂拱四年(688)正月甲子。神都に於いて高祖、太宗、高宗の三廟を立て、西廟の儀のように四時に祀りを享した。また、祟先廟を立て、武氏の祖考を享する。
 太后は、祟先廟の室数について、学者達へ議論させた。司禮博士周宗(「心/宗」)は、七室として、唐の太廟を五室へ減らすよう請うた。すると、春官侍郎賈大隠が上奏した。
「禮では、天子が七廟で、諸侯は五廟です。これは、百王に亘って変わっておりません。今、周宗は浮薄な論議で異端の説を述べましたが、これは朝廷の権威に関わりますし、国家の常数にも合いません。皇太后は顧託を蒙られ、大きな計略に輝かしい功績を遺されるお方です。どうかその祟先廟の室数は諸侯の数に応じ、国家の宗廟は変えないでください。」
 太后は、止めた。 

  

 太宗、高宗の御代に、屡々明堂を建てようとしたが、その大きさや位置などについて、儒学者達の議論が決まらず、中止となった。太后が摂政となるに及んで、その制度を北門学士だけと議論し、他の儒者には問わなかった。
 諸儒は、明堂の場所を国陽丙巳の地で、宮城から三里以上七里以内の場所とした。だが太后は、宮城から遠すぎるとした。
 二月庚午、乾元殿を壊し、その地に明堂を造る。僧懐義の使役で数万人の人夫が使われた。 

  

 六月、江南道巡撫大使、冬官侍郎狄仁傑は、呉、楚に淫祠が多いので、その千七百ヶ所を焚いたと上奏した。ただ、夏禹、呉太祖、季札、伍員の四祠だけは残した。 

  

 四月、武承嗣が、白石を穿って文を書かせた。その文は、
「聖母臨人、永昌帝業」
 そして紫色の石の粉へ薬を混ぜた物を削った跡へ填めた。
 庚午、ヨウ州の人唐同泰へ「洛水にて見つかった」とのふれこみで、これを献上させた。太后は喜び、この石を「寶図」と名付け、同泰を游撃将軍へ抜擢した。
 五月戊辰。自ら洛を拝礼し「寶図」を受けると詔した。南郊にて祀り、昊天へ感謝の意を告げる。礼が畢ると明堂へ御幸し、群臣へ朝するのが、その手順である。諸州の都督、刺史、及び宗室、外戚は洛を拝礼する為、十日前には神都へ集まるよう命じる。
 乙亥、太后へ聖母神皇の尊号を加える。
 六月壬寅、神皇の三璽を作る。
 七月丁巳、天下へ恩赦を下した。「寶図」を「天授聖図」と改称する。
 また、洛水を永昌洛水と為し、その神を顕聖侯へ封じ、特進を加え、洛水での漁や釣を禁じ、祭祀は四涜に準じさせた。図の出土した場所は「聖図泉」と名付け、泉の側へ永昌県を設置した。
 また、祟山を神嶽と改称し、その神を天中王へ封じ、太師・使持節・神嶽大都督として、草を刈ったり放牧したりすることを禁じた。
 また、以前水から瑞石を得たことがあったので、水を廣武と改称した。
 九月に宗室の越王貞や琅邪王沖等が造反したが、すぐに鎮圧された。
 十二月己酉。太后は洛を拝礼して図を受けた。皇帝と皇太子が、これに従う。内外の文武百官や蛮夷は各々の場所に立ち、珍禽奇獣雑寶を壇の前に並べる。唐が興って以来、文物歯簿がこんなに盛大になったことはなかった。 

  

 同月辛亥、明堂が落成した。その高さは二百九十四尺、方三百尺。およそ三層。下層は四時に則り、各々色を変えた。中層は十二辰に則り、上は円形の蓋があって、九匹の龍が棒を支えている。上には鉄の鳳凰が施されていた。その高さは一丈。黄金で飾られている。明堂の中には十抱えの巨木があり、上下を貫通して、家を支える柱の代わりをしている。下には鉄の渠を施して水を通している。号して「萬象神宮」と言った。
 群臣へ宴を賜り、天下へ恩赦をくだし、民にも自由に出入りして見学させた。また、河南県を合宮県と改称する。
 又、明堂の北に天堂五級を建て、大像を貯える。その三級からは明堂が見下ろせた。
 僧懐義はこの功績で左威衞大将軍、梁国公を拝受する。
 侍御史王求礼が上書した。
「古の明堂は屋根を葺いた茅や茨は切りそろえず、材木は削らず、倹約を示しました。しかし、今は珠玉で飾り立て、丹青を塗っています。鉄の鳳は雲に入り、金龍は霧に隠れる。昔の、殷の紂王の瓊室や夏のケツ王の瑶室も、これ以上ではありません。」
 太后は、返答しなかった。 

  

永昌元年(689)正月乙卯朔。萬象神宮で大いに饗した。
 太后は、コンメン(目の前に何本もの紐が垂れ下がって目隠しをしている、皇帝の礼帽)を被り、大圭(天子が服す玉器)を差し挟み、鎮圭を執って初献をした。皇帝が亜献をし、太子が終献をする。
 まず昊天上帝の座を詣で、次いで、高祖、太宗、高宗、その次に魏国先王(則武天の父、武士カク)を詣で、最後に五方帝座を詣でる。
 太后は則天門へ御幸して天下へ恩赦を下し、改元する。
 丁巳、太后が明堂へ御幸し、朝賀を受ける。
 戊午、明堂にて政治を布する。九条を頒布し百官へ訓戒する。
 己未、明堂へ御幸し、群臣を饗応する。 

  

天授元年(庚寅、690年)国号が「唐」から「周」へ変わる。
 六月、東魏国寺の僧法明等が大雲経四巻を撰集して上納した。この経典では、太后が弥勒仏の生まれ変わりであり、唐に代わって閻浮提主(仏教で言う天子)となるべきだと説いていた。これを天下へ頒布する。
 十月壬申、両京や諸州へ各々大雲寺一区を設置するよう敕が降りた。そこには大雲経を藏させ、高座に昇った僧へ大雲経を講解させる。
 僧雲宣等九人を選んで爵県公を賜り、紫袈裟と銀亀袋を賜下する。
 二年四月癸卯、仏教が革命の階を開いた(大雲経が禅定を示唆したことを指す)として、道教の上へ置いた。 

  

天授二年(辛卯、691年)一月。地官尚書武思文及び朝集使二千八百人が、中嶽にて封禅するよう上表にて請願した。 

  

 長寿二年(693年)一月、挙人へ老子を習わせることをやめ、太后が造った臣軌を習わせた。 

  

 天冊萬歳元年(695)正月辛巳朔、太后へ称号を加えて、「慈氏越古金輪聖神皇帝」とした。天下へ恩赦を下し、證聖と改元する。ただし、二月甲子に、太后は「慈氏越古」の称号を撤廃した。
 九月甲寅、太后が南郊にて天地を合祭した際には、称号を「天冊金輪大聖皇帝」とした。この時も、天下へ恩赦を下し、改元する。
 萬歳通天元年(696)臘月甲戌、太后が神都を出発した。
 甲申、神嶽で封を行う。天下へ恩赦を下し、萬歳登封と改元する。天下の百姓へ今年の租税を免除し、九日間の大宴会を催す。
 丁亥、少室で禅を行う。
 己丑、朝覲壇にて賀を受ける。
 癸巳、宮へ帰る。甲午、太廟へ謁した。 

  

 久視元年(700年)閏月庚申、太后は大像を造りたくなり、天下の僧尼へ毎日一銭を供出させて、その助けとした。狄仁傑が上疏して諫める。その大意は、
「今の伽藍は、宮闕より大きいのです。鬼を使役するか民を使役しなければ造れませんし、その材料は、天から降ってこなければ、地面から作るしかありません。百姓をこき使わなければ、どうやって造れるのでしょうか!」
「遊僧は皆、仏法に仮託して生人を誑かします。おかげで里ごとに経坊ができ、一区画毎に精舎が建てられる有様。彼等の求める喜捨は税金より重く、法事での強制は制敕より厳しい。」
「梁の武帝、簡文帝は三淮の浪や五嶺の騰煙のように際限なく喜捨しましたが、大難の時に何の何の霊験もありませんでした。街に溢れた僧達が、勤王の軍を起こしましたか!」
「僧銭を徴収しても、支出の百分の一に及びません。像を雨曝しにはできませんが、大きすぎて、百層の建物を造っても覆い切れません。その他の付帯物を考えれば、どれだけの建物が必要でしょうか。如来の教えは、慈悲が第一。人々をこき使って虚飾に精を出すことが、どうしてその教えでしょうか!」
「最近、旱害や水害が頻繁に起きていますし、辺境も不穏です。もしも官財と人力を使い果たせば、一隅で事が起こったとき、どうやって助けますか!」
 太后は言った。
「公は善いことを教えてくれます。どうして違えましょうか!」
 そして、その労役を中止した。
 四年、太后が、再び天下の尼僧へ税を掛け、白司馬阪へ大像を作る。春官尚書武攸寧に兼業させ、その費用は巨億もかかった。李喬が上疏する。
「天下には、貧弱な家族が多いのです。像を造るのに費やす十七万余緡の銭を、大勢の民へ広く施したならば、一戸当たり千銭を与えても十七万余戸が救済されます。飢寒の弊から救済し労役の勤を省き、諸仏の慈悲の心に従い聖君が万物を育む想いを降らせれば、人も神も悦び、その功徳は無窮です。誤ったことをして、どうして果報が得られましょうか!」
 監察御史張延珪も上疏して諫めた。
「臣が時政を論じますに、辺境をこそ優先し、府庫の備蓄を増やし人力を養うべきでございます。釈尊の教えで言いますなら、苦厄を救い諸相を滅し、無為を崇拝するべきでございます。どうか陛下、臣の愚忠を察し、仏の心を行い、理に適った行為に務められてください。臣が取るに足らない人間だと言って、その言葉を棄てないでくださいませ。」
 太后は、労役を中止した。そして延珪を呼び出し、これを深く賞慰した。 

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