武承嗣
 
鳳閣舎人の修武の張嘉福が、武承嗣を皇太子とするよう、洛陽の人王慶之等数百人へ上表させた。文昌右相、同鳳閣鸞台三品岑長倩は、皇嗣が東宮に居るので、この建議は宜しくないと判断し、上書した者を厳しく責めて告示にて彼等を散らすよう、上奏して請願した。そこで太后は、地官尚書、同平章事格輔元へ問うと、輔元も固く不可と称した。
 この一件により、彼等は武一族から強く憎まれた。
 天授二年(691)五月、岑長倩を中央から排斥する為、武威道行軍大総管として吐蕃攻撃を命じた。しかし、途中で呼び戻し、遂に軍を出さなかった。岑長倩は牢獄へ繋がれる。
 承嗣は、又、輔元も讒言した。来俊臣は長倩の子の霊原を脅し、司禮卿兼判納言事欧陽通等数十人と共に造反を謀んだと言わせた。通は俊臣から尋問され、拷問を受けたけれども、ついに屈服しなかった。そこで俊臣は、通の自白書をでっち上げた。
 十月己酉、長倩、輔元、通等は皆、この罪で誅殺された。
 王慶之が太后へ謁見すると、太后は言った。
「皇嗣は我が子だ。どうしてこれを廃しようか?」
 対して、慶之は答えた。
「『神は非類の奉納を受けず、民は非族を祀らない』(左伝)と申します。今、誰の天下ですか。どうして李氏に後を継がせるのです!」
 太后は諭して帰らせようとしたが、慶之は地に伏し、命懸けで泣請した。そこで太后は印紙を渡して言った。
「我に会いたければ、これを門番へ見せるがよい。」
 ところが、これ以来、慶之は屡々謁見を求めた。太后はひどく怒り、慶之を打つための杖を鳳閣侍郎李昭徳へ賜った。昭徳は慶之を光政門の外へ引き出して、朝士へ示して言った。
「この賊は、我が皇嗣を廃して武承嗣を立てようとした。」
 そして、これを撲つよう命じた。慶之の耳も目も皆出血する。その後撲殺したので、その党類は散って行った。
 昭徳は太后へ言った。
「天皇は陛下の夫です。皇嗣は陛下の子息です。陛下は天下を持たれたのですから、これを子孫へ伝え、万代の偉業とするべきです。どうして姪を嗣にしてよいものでしょうか!昔から、姪を天子にして姑の為に廟を立てるなど、聞いた事がありませんぞ!それに、陛下は天皇から後事を託されたのです。もしも天下を承嗣へ渡せば、天皇は祀られなくなります。」
 太后も同意した。
 昭徳は乾祐の子息である。 

 長寿元年(692年)、夏官侍郎李昭徳が密かに太后へ言った。
「魏王承嗣の権威は重すぎます。」
 太后は言った。
「彼は吾が姪だ。だから政務を委ねて腹心としているのだ。」
 昭徳は言った。
「姪と姑の関係は、親子と比べてどうですか?子供でさえ父親を簒弑する事があるのです。ましてや姪ですぞ!今、承嗣は陛下の姪にすぎないのに、親王となり、宰相となって、その権威は人主に等しくなっています。臣は、陛下の天位が久安で居られなくなることを恐れるのです!」
 太后は力強く言った。
「朕は、考えてもいなかった。」
 八月戊寅、文昌左相、同鳳閣鸞台三品武承嗣を特進とし、納言武攸寧を冬官尚書とし、夏官尚書、同平章事楊執柔を地官尚書とし、全て政事をやめさせた。秋官侍郎の新鄭の崔元宗(「糸/宗」)を鸞台侍郎、夏官侍郎李昭徳を鳳閣侍郎、検校天官侍郎姚壽(「王/壽」)を文昌左丞、検校地官侍郎李元素を文昌右丞とし、司賓卿崔神基と共に同平章事とした。
 壽は思廉の孫、元素は敬玄の弟である。
 辛巳、営繕大匠王睿(「王/睿」)を夏官侍郎、同平章事とする。
 承嗣が太后へ、昭徳のことを悪く言うと、太后は言った。
「吾は昭徳へ政務を任せてから、始めて安らかに眠れるようになった。これは、彼が吾に代わって苦労してくれているとゆうことだ。汝は、何も言いますな。」 

 二年、正月壬辰朔、太后は萬象神宮で享した。魏王承嗣を亜献とし、梁王三思を終献とする。 

 神功元年(697年)頃から、張易之、昌宗兄弟が寵愛されるようになった。詳細は、「張易之」へ記載する。 

 右司郎中の馮翊の喬知之は美しい妾を持っていた。その名を碧玉とゆう。知之は、彼女を溺愛する余り結婚しなかった。
 武承嗣が、諸姫の教育係として彼女を借りていったが、そのまま家に留めて返さなかった。知之が「緑珠怨」とゆう詩を書いて碧玉へ寄越すと、彼女は井戸へ飛び込んで自殺した。
 武承嗣は、彼女の帯の間から詩を見つけて激怒した。そして、知之を告発するよう、酷吏へそれとなくそそのかした。
 神功元年六月、喬知之の一族を誅殺した。
 戊子、特進武承嗣、春官尚書武三思が、共に鳳閣鸞台三品となる。七月、二人ともに政事をやめた。 

 武承嗣、三思は、太子となりたくて、数人の人間に太后を説得させた。
「古来より、異姓の者を世継ぎにした天子などおりません。」
 太后は迷って決断できなかった。
 狄仁傑が、くつろいだ折に太后へ言った。
「文皇帝(太宗皇帝)が、雨風に曝されながら自ら白刃を冒して天下を定め、子孫へ伝えたのです。大帝(高宗)は二子を陛下へ託されました。陛下は今、これを他族へ移そうと思われていますが、天意ではありません!それに、姑姪と母子では、どちらが親しいのですか?陛下が子を立てれば、千秋万歳の後まで太廟にて祀られ、無窮に承継されます。姪を立てれば、姪が天子となって姑を廟へ祀るなど、いまだ聞いたこともありません。」
 太后は言った。
「これは朕の家庭の問題だ。卿の与り知ることではない。」
 仁傑は言った。
「王者は四海を家とします。四海の内は、臣妾でないものはありません。全ての人が、陛下の家族なのですぞ!君を元首とし、臣を股肱とする。義として一身です。いわんや、臣は宰相の地位に就いております。なんで与り知らぬ事がありましょうか!」
 また、盧陵王を召し返すよう太后へ勧めた。
 王方慶、王及善も又これを勧め、太后もやや悟った。
 他日、又、仁傑へ言った。
「朕は、大きな鸚鵡の両翼が折れる夢を見ました。何の予兆でしょうか?」
 対して答えた。
「武は陛下の姓です。両翼は、二子です。陛下が二子を立てれば、両翼を再び振るうことができましょう。」
 太后はこれ以来、承嗣や三思を立てる気持ちが無くなった。
 孫萬栄が幽州を包囲すると、朝廷へ檄を飛ばした。
「どうして我等へ盧陵王を返してくれないのか?」
 吉頁と張易之、昌宗は皆、控鶴監供奉となっており、頁は易之兄弟と昵懇だった。ある時、頁はくつろいだ折に二人へ説いた。
「公の兄弟は、こんなに貴寵されているが、徳業のおかげではない。天下の大勢の人間が、歯ぎしりして悔しがっています。天下に大功がなければ、どうやって我が身を保全する?公の為に、密かに憂えているのだ。」
 二人は懼れ、涕泣して計略を請うた。すると、頁は言った。
「天下の士庶は、まだ唐の徳を忘れておらず、盧陵王の復位を願っている。主上は御高齢で、世継ぎを定めなければならないが、武氏の諸王が嗣ぐのは、人々の願いではないのだ。公は、くつろいだ時に上へ盧陵王を立てるよう勧め、蒼生の望みを繋ぐとよい。こうすれば、ただ禍を逃れられるだけではなく、長く富貴を保つことができるぞ。」
 二人は得心し、しばしば太后へこれを勧た。太后は、これは頁の知謀だと気がつき、彼を召し出して尋ねた。すると頁は、太后へ再び利害を陳述した。こうして、太后の思いは決した。
 聖歴元年(698)三月己巳、盧陵王が病気だと言い立てて職方員外郎の瑕丘の徐彦伯を派遣し、盧陵王とその妃及び諸子を、療養に仮託して行在所へ呼び寄せた。
 戊子、盧陵王が神都へ到着した。 

 太子大保の魏宣王武承嗣は、太子になれなかったことを恨み、怏々とし暮らし、八月戊戌、病死した。
 庚子、春官尚書武三思が検校内史となる。
 九月、皇嗣が、位を盧陵王へ譲ることを固く請い、太后はこれを許した。
 壬申、盧陵王哲を立てて皇太子とし、名を元の顕へ戻す。天下へ恩赦を下した。
 甲戌、太子を河北道元帥として、突厥討伐を命じた。それまでは、募兵しても一ヶ月で千人足らずしか集まらなかったが、太子が元帥になったと聞いて、応募する者が雲集し、数日の内に五万人を数えた。太子は出征せず、狄仁傑を知元帥事として、太后自らがこれを送った。
 藍田令薛訥は、仁貴の子息である。太后は彼を左威衞将軍、安東経略へ抜擢した。出立の時、彼は太后へ言った。
「立太子したとはいえ、朝臣達はなお先行きを疑っております。この決定が変わらなければ、醜虜の平定など、雑作ありません。」
 太后は深く得心した。
 王及善は、太子が外朝へ赴いて人心を慰めるよう請い、裁可された。
 二年臘月辛亥、太子へ武氏の姓を賜下し、天下へ恩赦を下す。
 太后は高齢となり、自分の死後、太子と武一族が折り合わないことを心配した。
 六月壬寅、太子、相王、太平公主と武攸既等へ誓文を書かせ、明堂にて天地へ告げ、鉄券へ刻んで、史館へしまった。
 八月戊申、武三思を内史とした。 

 久視元年(700年)正月戊寅、内史武三思の特進・太子少保を罷免する。天官侍郎・同平章事吉頁を安固尉へ降格する。
 太后は頁には幹略があると思い、腹心としていた。ところが、頁と武懿宗が、趙州での功績を太后の前で争った時、頁は威風堂々として弁が立ち、懿宗は小柄で口べただったので、頁は懿宗へ対して威圧的に声を荒らげていた。太后は不機嫌になって、言った。
「頁は、朕の面前でさえ我が一族を卑しんでいる。ましてや朕がいなくなったら、どうなるか!」
 他日、頁が上奏した時、故事を引き合いに並べ立てていると、太后は怒って言った。
「朕は、卿の言っている故事くらい知っている。無駄口を叩くな!昔、太宗陛下が、獅子聰(本当は、馬偏)とゆう馬を持っていたが、肥っていて性急で、誰も乗りこなせなかった。その頃朕は宮女として太宗陛下へ侍っていたので、陛下へ言った。『妾は、三つの物さえあれば、これを調教して見せましょう。一つは鉄鞭、二つ目は鉄槌、三つ目は匕首です。鉄鞭でこれを撃っても服従しなければ、鉄槌で首を殴りつけます。それでも服従しなければ匕首で喉を裂きます。』陛下は、朕の志を壮と褒めてくれた。今日の卿など、朕の匕首を汚す価値もないわ!」
 頁は恐惶流汗し、伏し拝んで命乞いをしたので、処刑はされなかった。
 諸武は、彼が太子の党類となり共謀してその弟の罪過を告発したことを怨んでいた。とうとう、有罪となって降格させられたのだ。
 挨拶に出向く日、太后へ謁見が叶ったので、頁は泣き崩れて言った。
「臣は、今、朝廷から遠く離れたところへ出向き、もう二度とお目通りもできますまい。どうか、最後に一言言わせて下さい。」
 太后がこれを坐らせて問うと、頁は言った。
「水と土を合わせて泥とすれば、争いとなりましょうか?」
「そんなことはないね。」
「では、民を二つにわけて、半分を仏として、残る半分を天尊としたら、争いは起こりましょうか?」
「起こる。」
 そこで、頁は頓首して続けた。
「宗室と外戚が、各々分をわきまえれば天下は安泰です。今、太子が立ったのに、外戚を、なおも王としております。これは陛下が彼等を争いに駆り立てているようなもの。どちらも傷つきます。」
 すると、太后は言った。
「朕も判っております。ただ、既にこうなってしまった。もう、どうしようもないのです。」 

 長安元年(701年)八月丙寅、武邑の人蘇安恒が上疏した。
「陛下は嗣子から譲られて先聖の世を託され、天を敬い人心に沿い、二十年に及びます。帝舜が裾をからげ、周公が正統を復したとゆうことが、どうして聞かれないことがありましょうか!ましてや舜は禹一族でしたし(史記によれば、舜は黄帝の八代の孫で、禹は黄帝の玄孫)旦と成王は叔父甥でした。一族と実子と、どちらが愛しいでしょう?叔父の恩は、母と比べて如何でしょう?(陛下が正統へ返されることは、舜や周公よりも情誼に於いて容易なのです。)
 今、皇太子は孝敬な人柄であり、既に壮年。もしも彼へ天下を統治させれば、どうして陛下の治世と変わりましょうか!陛下は既に御高齢です。至尊の地位は重荷でしょうし、政治を執るのは煩雑で心身はすり減ることでしょう。東宮へ禅位して自ら聖体を楽させようと、どうしてなさらないのですか!
 昔から、天下を治める者は二姓を共に王とはしませんでした。それなのに、今の梁、定、河内、建昌の諸王は、陛下のおかげを蒙って、全て王に封じられています。陛下後崩御の後は火種になります。どうか彼等を公爵や侯爵へ降爵して正しい姿としてください。
 また、陛下には二十余人の孫がありながら、 彼等は寸尺の封土も持たないと聞きます。これは長久の計ではありません。どうか領土を分かち与えて王に封じ、立派な師匠を与えて孝敬の道を教え、かつての諸侯が周室を支えたように皇家の藩塀になされば、素晴らしいではありませんか。」
 疏が上奏されると、太后は安恒を召し出して、食事を賜下し慰諭して帰した。
 二年五月壬申、蘇安恒が、再び上疏した。
「天下は神堯(高祖)、文武(太宗)の天下だと、臣は聞いています。陛下が帝位に就かれているとは言え、これは唐氏の基盤に依っています。今、皇太子は復位し、年々徳を積んでおりますのに、陛下は母子の深恩を忘れて宝位を貪っておられますが、これでは唐家の宗廟へ顔向けできましょうか。どんな言葉で大帝の墳墓を祀られますのか?陛下はどうして日夜憂いを深め、罪人のように苦しまれておりますのか!天意人事に従って李家へ帝位を帰すのが宜しいと愚考いたします。陛下は天位に安んじて居られますが、物は極まれば反転し、器は満ちれば傾くとゆう理を知られませんのか。一朝の命を惜しんで万乗の国を危うくするような真似は、臣にはできません!」
 太后は、今回も罰しなかった。 

 太后は高齢で、政事の大半は張易之兄弟へ委ねていた。
 邵王重潤と、その妹の永泰郡主と、郡主の婿の魏王武延基は、この事を密かに相談した。易之は、これを太后へ訴えた。
 長安元年(701年)九月壬申、太后は彼等へ迫って自殺させた。
 延基は、承嗣の子息である。 

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