武成帝
 
武成帝即位 

 孝昭帝が崩御すると、業にいる弟の長廣王が即位することになった。
 趙郡王叡が、使者として業へ行くこととなった。趙郡王は、まず先触れとして黄門侍郎王松年を業へ派遣し、粛宗の遺言を伝えた。 
 長廣王は罠かと疑い、親しい者を殯所へ派遣して真偽を確かめさせた。確かに事実と判るや、大喜びで晋陽へ駆けつけ、即位した。これが武成帝である。大赦を下し、太寧と改元する。 
 三年、武成帝は業へ戻った。胡氏を皇后に立て、子の緯を皇太子とする。 

  

  

平秦王造反 

 閏月、平陽王淹を青州刺史、平秦王帰彦を太宰、冀州刺史とした。
 平秦王は、孝昭帝から親任されていたので、それにつけ上がって傲慢になり、貴族や親戚を凌侮していた。武成帝が即位すると、高元海や御史中丞畢義雲、黄門郎高乾和等が、屡々彼の短所を吹聴し、言った。
「奴の威権は陛下へ迫っております。必ずや乱を起こしますぞ。」
 これが度重なると、武成帝もだんだん平秦王を忌むようになった。そこで、平秦王が家へ帰っている時をうかがって、魏収を呼び出し、武成帝の目の前で詔を作成させて、平秦王を冀州刺史とした。翌日、平秦王は、出仕しない。実は彼は、飲み歩いていて、何も知らなかったのだ。更に翌日の明け方、平秦王は宮門まで来て、始めてこれを知り、驚愕して退出した。
 勅使が彼の家へやって来て、出立を急かす。しかし、銭や帛など餞別の品々は甚だ厚かった。又、武成帝は、総員を清陽宮へ呼び集め、盛大に見送るよう命じた。
 平秦王は辞令を受け、誰とも語らずに退出したが、ただ、趙郡王叡とだけ長話をした。しかし、その内容は誰も知らない。
 冀州へ帰った平秦王帰彦は、不安でならなかった。そこで、武成帝が晋陽へ行ったら、それに乗じて業を奪おうと考えた。すると、平秦王の郎中令呂思禮が、これを密告した。
 五月、武成帝は、大司馬段韶と司空韋叡へ、平秦王討伐を命じた。
 平秦王は、領土の南端へ、伝令の駅を設置していた。彼等は、大軍の来襲を素早く知らせる。報告を受けた平秦王は、即座に城門を閉じて拒守した。長史宇文仲鸞等が、その命令に従わなかったので、殺した。
 平秦王は、大丞相と自称した。その兵力は四万。
 ところで、都官尚書の封子繪は冀州出身で、祖父は冀州刺史だったこともあり、冀州では人望があった。そこで武成帝は、これを信都へ派遣し、城を巡って人々へ禍福を説くよう命じた。これによって、吏民が相継いで降伏してきたし、城中の動静も細かいことまで判明した。
 平秦王は、城へ登って大声で叫んだ。
「孝昭帝が崩御された時、六軍百万の将兵は、全て臣の手の中にあった。それでも業へ帰心して、陛下をお迎えしたのではないか。その時に造反せずに、どうして今頃造反しようか!高元海や畢義雲、高乾和が、聖上を誑かして忠良の臣下を疎んじた事が恨めしいのだ。ただ、この三人を殺したなら、臣はこの城の上で自刎しよう。」
 城が破れると、平秦王は北へ逃げたが、交津にて捕まり、鎖に繋がれて業へ贈られた。
 劉桃枝がこれを殺し、十五人の子孫も皆、市場で処刑された。
 今回の功績で、封子繪は行冀州事となった。
 丁酉、段韶が太傅となり、婁叡が司徒となり、平陽王淹が太宰、斛律光が司空、趙郡王叡が尚書令、河間王孝宛が左僕射となった。 

  

  

和士開 

 武成帝が長廣王だった頃、和士開とゆう琵琶の名手を寵遇していた。即位すると、彼を黄門侍郎に抜擢する。
 高元海、畢義雲、高乾和などは、皆、彼を疎んじていた。だが、彼等が和士開を謗る前に、和士開は、高元海等が徒党を組んで朝政を専断していると、武成帝へ吹聴した。高乾和は、これによって遠ざけられたが、畢義雲は和士開へ賄賂を贈り、コン州刺史に任命された。 

  

  

淫乱 

 四月、婁太后が崩御した。武成帝は、母親が死んだというのに喪に服さず、酒や女色に興じていた。散騎常侍和士開が少し慎むよう請うたら、武成帝は怒り、これを打った。 

 武成帝は、李太后(もと、文宣帝の皇后)に懸想して、性交を強要した。
「言うことを聞かなければ、お前の子供を殺すぞ。」
 太后は懼れ、武成帝に従った。やがて、妊娠する。
 そんなある日、太原王紹徳が閣へやって来たが、太后は妊娠したことを恥ずかしがって、太原王に会わなかった。すると、太原王は、憾んで言った。
「私が、何も知らないと思っているのですか!母上は妊娠しているから、私に会いたがらないのだ。」
 太后は慙愧し、胎児を堕した。武成帝は激怒した。
「お前が我が子を殺した。我がお前の子供を殺せないと思っているのか!」 そうして、太后の目前で、太原王を殺した。太后が慟哭すると、武成帝はますます怒り、太后をめった打ちにする。太后は全身血塗れになって気絶したが、ややあって蘇生した。
 武成帝は、太后を寺へ入れ、尼にした。 

  

高元海失脚 

 四年、武成帝は太子少傅魏収に、尚書右僕射を兼務させた。
 この頃、武成帝は終日酔いしれており、朝廷の政治は全て高元海へ任せっきりだった。高元海は俗物だったので、武成帝は、彼を軽蔑していた。魏収はもともと名声が高かったので、彼を登庸したのである。しかし、魏収は事なかれ主義の人間だったので、役に立たないままくびになった。 

 コン州刺史畢義雲が、時事を論じる書を作って、高元海へ渡したが、高元海は、それを朝廷へ提出するのを忘れていた。そのうちに、給事中の李孝貞が、その書を得て上奏した。 以来、武成帝は高元海を疎んじるようになった。李孝貞は、この功績により中書舎人を兼務し、畢義雲は朝廷へ呼び戻された。
 ここに及んで、和士開が再び高元海を讒言した。武成帝は、馬鞭で高元海を打ち据え、言った。
「お前は昔、我へ造反を教えた。弟の身で兄へ背くなど、義として許されぬ!それに、業の兵力でヘイ州と戦うなど、馬鹿の極みではないか!」
 そして、高元海をコン州刺史として朝廷から追い出した。 

  

頽廃 

 武成帝は、和士開が大のお気に入り。朝廷で政務を執るときも、宴会を開いたり恩賞を賜下したりする時も、わずかの間も和士開を離さない。累日家へ帰さなかった事もあったし、一日に何度も入殿させた事もあった。和士開の姦諂は途切れる事もなく、寵愛は日々隆くなり、恩賞を賜下されることなど数え上げたらキリがなかった。
 和士開は、いつも武成帝へ言っていた。
「昔の帝王は、皆、土へ還って骨も残っておりません。聖君の堯舜も、暴君のケツ紂も、どこに違いがありますか!ですから陛下は、好き勝手におやりなさい。陛下の一日の楽しみは、凡人どもは千年かけても味わえません。国事など、大臣に押しつけてしまえば宜しい。自分であくせく働くなど、馬鹿らしい限りではありませんか!」
 武成帝は大いに悦んだ。
 ここにおいて、仕事は全て臣下へ委譲した。趙彦深は官爵を掌握し、元文遙は財用を掌握し、唐邑は外兵及び騎兵を掌握し、馮子宗と胡長粲は東宮を掌握した。
 武成帝自身は、朝廷へは三日か四日に一度くらいしか顔を出さない。それも数字を書くだけで、一言も言わずにすぐに後宮へ引っ込むのだ。
訳者、曰く。和士開の台詞は、凄い。これなら並の人間は必ず堕落してしまうだろう。このような姦諂が並び興るとしたならば、皇帝であって暴君にならぬとゆうことが、何と困難であることか。梁の武帝、唐の玄宗。名君でありながらその終わりを良くしなかった皇帝が枚挙に暇がないのも当然である。) 

  

粛清 

 武成帝が、和士開や胡皇后と一緒に遊んだところ、河南康献王孝瑜が諫めた。
「皇后は、天下の母です。どうして臣下の手を直に触れさせて良いものでしょうか!」
 瑜は、又、言った。
「趙郡王叡は、父親を不慮になくしました。そのような人間に親しんではなりません。」
 ここにおいて、和士開と趙郡王は、共に河南王を讒言した。
 和士開は、孝瑜の贅沢が度が過ぎてると言った。又、趙郡王は言った。
「山東では、ただ河南王の名声ばかりが聞こえ、人々は皇帝が居ることを知りません。」
 以来武成帝は、河南王を忌むようになった。
 河南王は、密かに爾朱御女(北斉では、八十一人の御女がいた。官位は正四品)と密通していた。これを知った武成帝は激怒し、河南王を殺した。
 河南王の公開処刑の時、宮中にいた諸侯達は、皆、泣き声を挙げないように我慢していたが、ただ河南王の実弟の河間王孝椀(正しくは、王偏)だけが、慟哭した。
 以来、河間王孝椀は武成帝を怨み、草で人形を作って弓で射たりした。天康(566年)十一月。これを知った武成帝は、河間王を殺した。 

 五年、六月。武成帝は楽陵王百年を殺した。この時、白虹が太陽の回りを二重に囲み、赤星が見えた。(孝昭帝は文宣帝の子を殺し、武成帝は孝昭帝の子供を殺す。天の報いと言うべきか。)
 武成帝から呼び出された時に、楽陵王は、助からないものと覚悟を決め、妻の斛律氏へ、ケツを渡して行った。楽陵王が死ぬと、斛律氏は号泣して何も食べなくなり、一月余りで死んだ、その時、彼女は左手に、ケツをしっかりと握りしめていた。その拳は、絶対に開かない。父親の斛律光が広げて、ようやく開いた。 

  

太上皇帝 

 北斉の著作郎租延(「王/延」)は、文学を始め多芸だったが、性悪な男だった。高租の頃に外府功曹となっていたが、公金を盗んだり、官粟を詐取したりしたので、鞭二百を食らった。文宣帝の頃には、秘書丞だったが、やはり盗みを働いて、庶民に落とされた。
 ただ、文宣帝は彼の犯罪をこそ憎んではいたが、その才覚を愛していたので、やがて直中書省とした。
 武成帝が長廣王となると、租延は胡桃油を献上し、(租延は、胡桃油で絵を描く名人だった。)言った。
「殿下の骨格は常人ではありません。私は、殿下が龍に乗って天へ登る夢を見ました。」
 すると、長廣王は言った。
「そんな事になったら、お前を抜擢してやる。」
 やがて即位すると、武成帝は租延を中書侍郎、遷散騎常侍に抜擢した。以来、彼は和士開とつるんで姦諂に励んだ。
 ある時、租延は和士開へ言った。
「君の寵遇は古今無双。しかし、もしも陛下が崩御なさったら、どうなさる?」
「どうすればよいかな?」
「陛下へ言いなさい。『文襄帝、文宣帝、孝昭帝の子息達は、皆、即位できませんでした。ですから、皇太子を今のうちに即位させてしまい、君臣の分を定めてしまいましょう。』と。
 もしもこれが巧く行ったら、中宮も皇太子も、皆、君へ感謝する。これこそ万全の計だ。君が陛下の心を捉えられたら、朝臣達へは私が根回ししてみよう。」
 和士開は、これを許諾した。
 この頃、彗星が見えた。すると、太史が上奏した。
「彗星は、古いものを一掃して、新しいものが生まれる象徴です。今に、主君が代わるでしょう。」
 ここぞとばかりに租延は言った。
「陛下は天子ですが、それは高貴の極みではありません。皇太子へ帝位を譲り、上は天道へ応じられては如何でしょうか。」
 そして、北魏の顕租が上皇として実権を握った故事を語った。
 武成帝は、これに従った。
 六年、四月。皇太子の緯が即位した。彼は、後世「後主」と呼ばれている。大赦を下し、天統と改元する。皇太子妃の斛律氏が皇后となる。
 ここにおいて群臣は、武成帝へ太上皇帝の称号を献上した。
 租延は秘書監に儀同三司が加わり、太上皇帝や皇帝から寵遇された。
 賀抜仁を太師、侯莫陳相を太保、馮翊王潤を司徒、趙郡王叡を司空、河南王を尚書令とした。尉粲が太尉、斛律光が大将軍、婁叡は郡王に封じられた。 

  

報復改諡  

 太上皇帝(以後、武成帝を太上皇帝と表記する。)は、まだ長廣王だった頃、文宣帝から屡々打たれており、彼はこれを根に持っていた。又、文宣帝は租延のことを、名前代わりに「泥棒」と呼んでいたので、租延も文宣帝を怨んでいた。
 租延は、太上皇帝へ媚びる為、そして、文宣帝へ復讐する為に、太上皇帝へ言った。
「文宣帝はあんなに凶暴でしたのに、その諡にどうして『文』の文字が付くのですか?それに創業者でもないのに、廟号には『顕租』と、『租』の字が付いておりますが、これも又おかしな話です。」
 太上皇帝はこれに同意し、先代までの諡を変えることにした。
 これによって、太祖献武皇帝は、高祖になった。献明皇后は、武明皇后となった。そして、文宣皇帝は景烈皇帝となり、廟号は威宗と改諡された。 

  

斛律金 

 光大元年(567年)、北斉の左丞相斛律金が卒した。長男の斛律光が大将軍となり、次男の斛律羨及び孫の斛律武都が共に開府儀同三司となり方岳へ出鎮した。その他にも大勢の子孫が諸侯に封じられたり、高い地位へ登ったりした。その一門からは、皇后が一人、太子妃が二人、公主が三人も出た。このように貴寵されたのは、他に類を見ないことである。蕭宗以来礼遇され、朝廷へ出仕すると車で迎えられることもあった。しかし、斛律金はこれを喜ばず、斛律光へ言った。
「我は読書はしないが、昔から一族を保全した外戚が少なかったことくらいは聞いている。娘が寵愛されれば、貴族達から嫉妬される。寵愛されなければ、天子から疎まれる。我が家は、武功で出世していたのだ。なんで女色を借りる必要があろうか!」 

  

東平王 

 八月、東平王儼が司徒となった。東平王は、斉帝(後主)の弟だが、上皇(太上皇帝)や胡后から溺愛されており、この時点で既に京畿大都督、領御史中丞を兼任していた。
 古来、北魏の法令では、路で中丞に出会った時は、王公といえども車から降りて、中丞が去って行くまで待たなければいけないことになっていた。いつの間にか、この法令はうやむやになってしまっていたが、上皇は東平王を尊ぼうと、この儀礼を復活させた。
 東平王は、いつも含光殿で政務を執っていた。叔父達は皆、彼に拝礼するのが常だった。
 ある時、南宮に新氷が張ったと見物に行ったが、帰ってきて、怒って言った。
「尊兄に先を越されていた。面白くない!」(東平王は、斉帝のことを、”尊兄”と呼んでいた。)
 以来、斉帝が新奇な品を東平王より先に入手すると、官属と工人が必ず罰せられるようになった。
 東平王は豪傑で、かつて上皇へ言った。
「尊兄は惰弱だ。軍の指揮はできぬ!」
 上皇は、事毎に東平王の才覚を褒めそやかし、廃立まで考えていた。胡后もこれを勧めたが、実現しなかった。
 二年、二月。東平王が大将軍となる。 

  

仲間割れ 

 北斉の秘書監租延は、黄門侍郎の劉逖と仲が善かった。
 光大元年十二月、租延は宰相になりたくて、趙彦深、元文遙、和士開の罪状を列挙して、劉逖へ上奏するよう頼んだ。だが、劉逖は肯らない。そのうちに、これが和士開らの耳に入り、彼等は先手を打って上皇へ訴え出た。
 上皇は激怒して、租延を捕らえ、彼を詰った。租延は、趙彦深、元文遙、和士開等が徒党を組んで権力を弄び、収賄や売官をやっていることを陳情したが、上皇は言った。
「お前は、我を誹謗するのか!」
「いえ、敢えて誹謗は致しませんが、陛下は人妻を奪われました。」
「あれは飢えに苦しんでいたから、引き取って養ってやったのだ。」
「それなら、倉を開いて施せば宜しいのに、後宮へ入れてしまったではありませんか。」
 上皇は益々怒り、鞭で乱打して殴り殺そうとした。すると、租延は言った。
「どうか殺さないでください。陛下の為に金丹(不老長寿の薬)を調合いたしますから。」
 上皇の怒りは、少し収まった。
 租延は言う。
「陛下は、一人の范増を使いこなすこともできませんか。」
 上皇は再び怒った。
「お前は、自分を范増になぞらえ、朕を項羽に喩えるか。」
「いいえ、項羽はただの庶民だった時に烏合の衆を糾合して、たった五年で覇業を成し遂げました。陛下は父兄の遺産を借りてさえ、わずかこの程度。項羽の方が余程立派です。」
 上皇はいよいよ怒り、租延の口へ土を詰めて塞いだ。租延は吐き出しながら喋る。とうとう土牢へ放り込まれた。そこで煙にいぶされ、失明した。 

  

太上皇帝崩御 

 北斉の尚書左僕射の徐之才は、名医でもあった。上皇が病気になったときに薬を処方して治したこともあった。
 二年、四月。和士開は僕射の地位を望み、徐之才をコン州刺史として出向させてしまった。
 五月、尚書右僕射胡長仁が左僕射となり、和士開が右僕射となった。
 胡長仁は、太上太后の兄である。
 十一月、上皇は病気になった。そこで慌てて徐之才を呼び戻した。だが、帰ってくる前に、病気は非常に重くなった。
 上皇は、後事を和士開に託し、その手を握って言った。
「我へ背いてはならぬぞ!」
 そして、その手を執ったまま、崩御した。享年三十二。
 翌日、徐之才が戻ってきたが、すぐにコン州へ追い返された。
 和士開は、三日間、喪を秘した。黄門侍郎馮子宗が訳を問うと、和士開は言った。
「神武(高歓)や文襄(高澄)の時にも喪を秘したではないか。今、至尊はまだ幼い。王公に二心を持つ者が居るかも知れない。涼風殿に皆を集め、協議して決めよう。」
 和士開は、もともと趙郡王叡と領軍婁定遠を忌嫌していた。だから馮子宗は、和士開が詔をでっち上げて趙郡王を地方へ追い出したり、婁定遠の兵権を取り上げたりするのではないかと恐れ、言った。
「ですが、上皇は既に帝位を譲っておられたのです。群臣の富貴な者は、皆、至尊親子の御恩を蒙ったもの。貴族達の改易がなければ、王公に異心は起こりますまい。事情が異なれば、行動も変わります。神武や文襄の頃は皇帝ではなく、単なる魏の臣下に過ぎませんでした。その頃の故事が、どうして今通用しましょうか!それに、公が数日宮門を出ませんので、上皇が崩御したのだと、全ての者が確信しております。ここで喪を発しなければ、却って変事が起こりましょう。」
 そこで和士開は、喪を発した。廟号は、世租。
 丙子、大赦が降る。太上皇后を皇太后と為す。
 ところで、馮子宗は胡太后の妹の夫である。元文遙は、馮子宗が胡太后を後ろ盾に麻政へ干渉することを恐れ、和士開や趙郡王と相談して、馮子宗を鄭州刺史として出向させた。
 世租は驕慢豪奢淫乱で節度がなく、賦役を頻繁に興したので、民も吏も苦しんだ。
 甲申、詔が降りる。
「百工細作は、悉く撤廃する。業、晋陽、中山の宮人、官口(罪人の家族や奴婢で、官に没収されて奴隷となった人々。)で老齢の者病気の者は、悉く自由の民となす。縁坐で流罪となった諸家は、皆、故郷へ帰って宜しい。」 

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