晋の文公、隧道を請う
 
(春秋左氏伝) 

 僖公の二十四年、狄が周を攻撃した。周王は鄭へ逃げ出し、晋と秦へ使者を出した。秦も晋も勤皇の軍を出したがったが、結局、晋が出兵した。
 二十五年、晋の文公は周王を都へ返した。王が宴会を開き、恩賞を賜ろうとすると、晋の文公は隧道を請うた。(これは、彼が墓を造る時、地上から袴で隧道を造って棺桶を収めることの許可。この埋葬方法は、従来は周王だけしか行わない、いわば王者の象徴であった。)だが、襄王はこれを許さず、言った。
「これは王の象徴である。まだ周に代わるだけの徳を持った人間が出ていないのに二人の王が生まれては、叔父上にもご迷惑だろう。」
 そうして、隧道を許可しなかった代わりに、陽樊、温、原、賛茅の土地を与えた。
 同年、冬。晋の文公は、原を包囲した。この時、兵卒には三日間だけと約束して、兵糧もそれだけしか準備していなかった。約束の三日が過ぎても陥落しなかったので引き返そうとすると、城内から内応者が密かに連絡してきた。
「原はすぐにでも降伏しようとしています。」
 参謀達は、これを文公へ告げたが、文公は言った。
「信義は国の宝だ。これがあるから、民は安心して生きて行ける。今、原を手に入れても信義を失ってしまったら、これから民はなにを頼りに生きて行くのか。失うものの方が多すぎる。」
 そうして、一舎(一日分の行軍距離)だけ軍を退却させたところ、原の方から降伏してきた。 

  

(東莱博議) 

 周と秦の強弱を論じる者は、この両国の形勢を原因にする。つまり、秦が強かったのは、関中を基盤としたからで、周王の権威が弱かったのは、基盤となる国の国力が弱かったせいである、とゆうのだ。
 この説は、漢の高祖の頃、婁敬が言い出したものである。彼は述べている。
「周公は、ラク(名/隹)へ建都した。ここは四方へ道が通じているので、平和な時には租税を運ぶのが楽であり、戦争が起これば四方から攻め入られる場所である。敢えてそのような場所に建都した時、周公は言った。『ここに建都すれば、二つの利益がある。一つは、徳のある王が出たら速やかに国が大きくなるとゆう事だ。もう一つは、暴君が出たら速やかに国が滅ぶとゆう事だ』と。つまり驕慢な子孫が民を虐げることを望まなかったから、険阻な土地に都を置かなかったのだ。
 やがて、周の国威が衰えるに及んで、天下の諸侯達はご機嫌うかがいにも来なくなったが、周王はそれをどうすることもできなかった。これは、周王の徳が薄かったのではない。周の形勢が弱かったからだ。
 これに対して秦の本拠地は、四方を山で囲まれ、領地を取り巻くように川が流れ、四塞を固めている。これこそ、天府である。」と。
 周と秦の形勢を論じる者は、皆、婁敬を宗と仰いでいる。しかし、私はそうは思わない。
 婁敬が論じているのは平王の頃の周(東周)である。文王や武王、成王の頃の周(西周)ではない。
 婁敬は、周の形勢を見て「弱」と評価し、秦の形勢を「強」と評価した。だが、これには見落としがある。婁敬の言う「秦」は、つまり、文武成王の頃の「周」ではないか。
 文武成王の頃の周は、岐豊は周の都だった。婁敬の言う、「四方を山で囲まれ、領地を取り巻くように川が流れ、四塞を固めている。」とゆうのは、周の形勢ではないか。この時、どうして秦に建国する余地があっただろうか。
 平王が東遷するに及んで、周は軽々しく岐豊を棄て、ここに秦を封じた。そして、遂に秦が強大化したのである。これは、秦が自ら強くなったのではない。周の形勢を得て強くなったのである。
 秦は周の形勢を元手に、無道を事として国を大きくしたが、それでもなお、諸侯へ雄視して天下を併呑することができた。ましてや文武成王は、盛徳を事として、この形勢まで持っていたのである。一体誰が、彼等へ敵対できただろうか。
 つまり、天下の形勢で最強なのは周である。婁敬は一体何を見て、周へ対して「弱」と評価したのか。
 だからこそ、私は言うのだ。婁敬が見る周は平王の頃の周であり、文武成王の頃の周ではない、と。 

 婁敬は、周の形勢を論じる時に、既に誤っている。そして、周の徳を論じる際には、更に過ちを重ねた。
 形勢と徳は、もともと二つのものではないのだ。形勢とゆうものは、言ってみるならば、体である。徳は、精神である。例えば、気力が充実していることを恃んで、いつ死ぬか判らないような所で寝起きするような奴はいない。それならば、徳を恃んで国を滅び易い所へ置く者がいるものか。
 王者が興る時、まず、それに先だって、天下の人々はその徳を仰ぎ奉り、天下のどこでも自分の本拠地とすることができた。文武成康の徳は天下に莫大だったし、岐豊伊ラクの形勢も天下莫大だった。徳も形勢も、二つながらその極を尽くして一分の隙もなかったのだ。
「君子はその極を用いざるなし。」と言う。それなのに、徳を興して形勢を削ぐ。これは、極を用いないものもあるとゆうことだ。それがどうして王者のやり方だろうか。全く、婁敬の論は貧弱なものである。 

 いや、見識が貧弱だったのは、婁敬ひとりだけではない。周の子孫も皆、彼と似たり寄ったりだった。
 晋の文公が襄王を都へ送り届けた後、彼は隧道を望んだ。しかし、周の襄王はこれを許さず、言った。
「これは王の象徴である。まだ周に代わるだけの徳を持った人間が出ていないのに二人の王が生まれては、叔父上にもご迷惑だろう。」
 そうして、隧道を許可しなかった代わりに、陽樊、温、原、賛茅の土地を与えた。
 この時襄王は、多分次のように思ったのだろう。
”我が周が周であるのは、徳に由来するのであり、形勢に依るのではない。だから、典章文物の制度は、子々孫々守り続けて一毫も他人へ仮託してはならない。だが、区々たる領土なら、どうしてこれを惜しんで、わざわざ大国の怒りを買ったりしようか。”と。
 だが、彼は知らないのだ。隧道はもとより王章(王の象徴)だが、千里の畿田(直轄地)も又、王章なのだ。襄王は、礼や文を惜しんで晋へ与えず、”これで王の象徴を守り通した”と考えたのだろう。だが、領地を裂いて自ら削って行けば、畿田の王章は既に完全ではなくなってしまったのだ。その一を守ったかも知れないが、二をなくした。なんで王章を守り通したと言えようか。
 形勢とゆうのは、身体である。徳は精神である。その肩や背を開き、手足を断ちながら、「俺は精神を守り通したぞ」と言う人間がいたとしても、私は信じない。
 ああ、周は平王が岐豊を棄てて秦を封じてから、既に領土の半分を失ってしまった。半分しか残っていない周ならば、恐々として領土を保全したとしても、なお国が建ち行かない事を恐れるのが当然である。それなのに、これ以上領土を割き与えるようなことが、なんで許されようか。
 それなのに、子孫はまだ惜しみなく、今日虎牢を裂いて鄭へ与えたかと思うと、明日には酒泉を裂いてカクへ与えている。文武の領土は毎年毎年減って行き、月ごとに削られて行く。そして襄王の時には、もう殆ど残っていなかったではないか。それなのに、更に数邑を晋へ与えたのである。これは、陳や蔡で飢えに苦しんでいる孔子が、わざわざ食糧を棄てたり、貧困な生活をしていた原憲や曹参(共に孔子の弟子)が金を浪費するようなもの。どうして堪ろうか。
 周はここまで貧困した。端から見ているものは、皆、周の為に胸を痛めることだろう。だが、晋の文公は、この時に冷酷にもその土地を貰って我が国を肥え太らせた。まるで、陳蔡の孔子から食糧を奪い、原憲や曹参から金をたかったようなものではないか。なんと不仁の甚だしいことか。
 ああ、晋の文公とても周の末裔ではないか。それなのに、ご本家の危機を座視して何の力にもなってやらぬどころか、却ってこれから土地を奪う。これを我慢できるなら、一体何に忌憚があるのか!それなのに、世の学者諸子はこの件には全く触れず、原を攻撃した際の信義が領土獲得に優先するか否か等を論じている。なんと、大本を棄てて枝葉に走っていることか!
 さて、晋の文公の不仁はここまで至っている。それならば、彼のような人間にいくら人理を説いても無駄である。だが、祖宗の地は尺寸も他人へ与えてはならないことを、もしも周の襄王へ納得させたならば、そして襄王が正義大法を堂々と晋へ告げたならば、いくら暴虐な晋と雖も周へ対してここまでの無道を押しつけたりはしなかっただろう。私はそれを惜しむのである。 

 そうすると、反論する人間がいた。
 昔、衛と斉が戦った時、衛公の危機を仲叔于ケイが救った。衛公が褒賞として土地を与えようとすると、彼はそれを辞退した代わりに繁纓(馬の飾り物で、諸侯だけしか用いてはならない事になっていた)を求めた。
 この事件へ対して、孔子は評された。
「惜しいことをした。寧ろ土地を与えてでも、繁纓を与えるべきではなかった。名と器だけは軽々しく貸してはならない。」
 隧道が王の象徴ならば、繁纓は諸侯の象徴。襄王が隧道を重んじて土地を軽んじたのは、孔子が繁纓を重んじて土地を軽んじたのと同じではないか。孔子が正しいのならば襄王も正しいのだ。襄王が間違っているのなら、孔子も間違っているのだ。
 だが、そうではない。
 仲叔于ケイは、衛の主君へ対して完全な臣下である。彼へ沢山の領土を与えたからと言って、衛の地がなくなるわけではない。しかし、晋の文公は臣下とはいえ、半独立国である。土地を貰ったならば、自国の地図に書き加える。この二つは全然違うのだ。 

  

(訳者曰) 

 晋公が、周へ対して功績を建てた。彼へ対して隧道を与えてはならない。土地を与えてもいけない。それならば、一体何を以て彼を賞するのか?何の褒賞もなかったとしたら、次からどの国が動いてくれるだろうか。
 襄公が土地を与えたその時ではなく、逃亡した挙げ句晋に動いて貰った時に、周の国威は衰退してしまっていたのだ。
 どうせどちらかを与えなければいけないのなら、「名と器だけは与えるな」とゆうのが、孔子の教えだと思う。それが正しいかどうかは別として。呂東莱は、「いくら名や器を守っても、土地を全く失ってしまったら国が建ち行かない。」と言いたかったのではないだろうか。
 それならば、それで一理ある。ここは、堂々と自説を強行し、「この件に関してだけは、孔子の言うことでも承服できかねる」と結べば良かったのだ。幾ら孔子とはいえ、間違えることもあるのだから。
 私は思う。
 おおよそ、国を護る為には、まず臣下から助けられる羽目に陥ってはならない。陥ってしまったら、土地か名器かを与えなければならないが、これは土地が余っていたら土地を与えればよい。土地が殆どなかったのならば、名器を与えればよい。
 と、こう言えばご都合主義のように聞こえるが、既に臣下の援助を得るとゆう事態に陥ったのならば、もう上辺を繕うしか方法はないのだ。
 臣下へ土地を与えるのならば、それが内臣であろうが封建諸侯だろうが、どちらにしてもこちらの懐が痛むことに於いて変わりはないではないか。直轄地を諸侯へ与えたり、臣下の俸禄を加増してやったりすれば、主人の経済力は衰退するのだから。この両者を区別してはいけない。
 東莱博議を読むと、孔子の言った言葉は一言半句でも否定せず、無理矢理にでもこじつけようと四苦八苦していると感じるような箇所がある。
 ある宗教を信奉する人間達は、自らを「神の御子」と名乗った人間のことを、天地を創造した絶対神そのものだと信じていると聞くが、この時代の儒教徒にとって孔子も神に等しかったのかも知れない。まあ、現代の私達には縁のない感覚だが。私はむしろ、論語のエピソードにもあるように、孔子にも過ちがあったと考えている。
 孔子の言葉と衝突しない為の無理は、今後も出て来ると思うが、一々は論じない。 

 ところで、ここで出てきた婁敬の説、
「ここに建都すれば、二つの利益がある。一つは、徳のある王が出たら速やかに国が大きくなるとゆう事だ。もう一つは、暴君が出たら速やかに国が滅ぶとゆう事だ」
 を聞いた時には、大感動して”これこそが儒教精神の真髄”とまで思ったものだ。しかし、並べてみると東莱博議の説の方が納得できる。
 奇をてらっているからこそ、感動させる。しかし、奇策は所詮、奇策に過ぎない。詰まらない話ではあるが、本当に大切な物は、やはり地味で面白みがないものだろう。少なくとも、ケレン味を感じさせるものではない筈だ。 

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