文宣帝
 
建国当初 

 斉の文宣帝(高洋)は、即位したばかりの頃は自ら政治に励んだ。
 例えば律については、魏の麟趾格をもとにして改良を検討した。又、戸籍を九等に分け、裕福な者には銭で税金を納めさせて、貧しい者には労役を命じた。
 六坊(魏と斉では、六軍の宿衛の士を六坊に分けていた。)の士の中から百人相手に戦える男を選抜し、「百保鮮卑」と名付けた。漢人の中で勇力絶倫の者は「勇士」と言い、辺境の守備に就けた。 

 大宝元年(550年)、九月。文宣帝は晋陽宮へ行った。
 ところで、廣武王長弼は、ヘイ州刺史の段韶と仲が悪かった。それで、文宣帝が晋陽へ行こうとした時、廣武王は言った。
「段韶は、晋陽にて強大な兵力を持っています。奴目が、どうして人の下に甘んじる人間でしょうか!どうか、この度の御幸は取りやめてください。」
 しかし、文宣帝は聞かなかった。
 晋陽へ到着すると、文宣帝は段韶へ、廣武王の言葉を告げ、言った。
「君のように忠誠の人間でさえ、讒言を受ける。ましてや他の人間なら尚更だ!」
 乙酉、元韶が尚書左僕射となり、段韶は右僕射になった。 

 この年、文宣帝は、宋景業へ、新しい暦を作らせた。これが、天保暦である。 

 二年、斉の太尉彭楽が謀反を企んでいるとの密告があったので、彭楽を誅殺した。
(訳者、曰く)彭楽は、高歓麾下の勇将だった。 その彼が誅殺されるに及んで、たった一行とゆうのは、余りに寂しい。
 この彭楽は、亡山の戦役で大活躍をしたが、却って高歓から辱めを受けた。だから、高歓は、その死に臨んで、「彭楽は造反するかも知れない」と言ったのである。
 又、高歓が自分の子息達を試した時、高洋は彭楽を縛り上げた。(「高氏簒奪」参照)この件についても、彭楽は、全く面目がなかった。
 こうして考えてみると、彭楽は、本当に謀反を企んでいたのだろうか? 

 二月、北斉は、散騎常侍曹文皎を使者として江陵へ派遣した。梁の湘東王は、兼散騎常侍の王子敏を答礼の使者として、北斉へ派遣した。
 同月、北斉は、湘東王を梁の相国と認めた。 

 同月、司空の司馬子如が自ら王位を求めたので、文宣帝は怒り、罷免した。しかし、司馬子如は高歓の知己だったので、五月、復職させた。 

  

元氏の末路 

 文宣帝は、外出する時、いつも中山王(東魏の静帝)を随伴させていた。王妃の太原公主は、高歓の娘である。彼女は、いつも夫の飲食を見守っていた。
 十二月。文宣帝は、王妃と共に酒を飲んだ。その時、別の者を中山王のもとへ派遣し、王と三人の子息を毒殺した。魏の孝静皇帝と諡して、埋葬したが、すぐに掘り返して、死体を川へ投げ捨てた。
 文宣帝が受禅した時、魏の七廟を七帝寺へ集めていたが、ここに及んで、それも悉く焼き捨てた。
 彭城公元韶は、高歓の娘を娶っていたので、他の元氏と比べて、特に寵遇されていた。
 ところで、開府儀同三司元暉業は、地位も重く人望もある硬骨漢だったので、文宣帝は、特に忌んでおり、自分と共に晋陽に住まわせていた。
 ある時、元暉業は宮門外にて、元韶を罵った。
「お前は老婆以下だ。玉璽を他人へ渡しおって。その時、どうして彼奴の頭を打ち砕かなかったのか!こんな事を言えば、即座に殺される事は覚悟の上。お前も死場所はわきまえておけ!」
 それを聞いて文宣帝は、元暉業を殺しただけでなく、臨淮公元孝友等も皆殺しとして、その死体は汾水へ沈めた。
 元韶へは、髭を剃って白粉をぬらせて、随伴させるようになった。そうして、文宣帝は言った。
「彭城公は、我が嫁御だ。」
 彼が婦人のように惰弱だと嘲ったのである。 

(訳者、曰く) 

 漢の王太后は、王莽から玉璽を求められた時に言った。
「我は漢の老寡婦で、いつ死ぬとも判らない身の上。いっそのこと、この璽と共に葬られたい。」と。
 注釈は付いてなかったが、元暉業の言う「老婆」は、王太后の故事を意識したものと思います。 

  

外征 

 梁では侯景が乱を起こしていたので、斉は、屡々国境を侵して梁を侵略していた。
 承聖元年(552)、正月。侯景は郭元建と侯子鑑を派遣した。彼等は合肥へ進軍したが、斉軍が城門を閉じて戦わないので、引き返した。 

 同月、文宣帝は、庫莫奚を攻撃して、大勝利を収めた。捕虜四千人、家畜十余万を捕らえる。
 文宣帝は、毎年、塞外へ出征する。給事中兼中書舎人の唐邑は、四方の軍士の強弱多少、器械の精粗、兵糧の虚実など、悉く暗記していた。ある時、文宣帝が書簡を閲覧していた時、数千人の姓名を、帳簿も見ないで暗唱し、全く間違いがなかった。
 文宣帝は、常にこれを褒め、寵遇や賞賜は、他の臣下達は彼の足元にも及ばなかった。 

 甲申、吏部尚書楊音が、右僕射となり、太原公主を娶った。太原公主は、もと、北魏の孝静帝の皇后だった。 

  

史書 

 三年、中書令の魏収が、魏書を編纂していた。だが、それの毀誉褒貶は、彼の恣意な感情で評されていた。
 魏収は、誰彼にでも言った。
「誰が俺に逆らうのか!奴等を天上へ上げるのも、地にまみれさせるのも、俺の思いのままなのだぞ!」
 これが完成すると、中書舎人の盧潜が上奏した。
「魏収は、先代の歴史を勝手に塗り替えています。それは誅殺に値します。」
 尚書左丞の盧裴や頓丘の李庶も、魏書が不直だと評した。すると、魏収は、文宣帝へ言った。
「臣は、盧・李といった、山東の豪族達から怨まれました。きっと刺客の手に掛かることでしょう。」
 帝は怒り、彼等を「青史を誹謗した」として、牢獄へぶち込んだ。盧裴と李庶は、獄死する。
 しかし、時の人々はこれに服さず、魏書のことを「穢史」と呼んだ。 

  

根に持つタイプ 

 文宣帝が、まだ東魏の宰相になる前、太保の高隆之は、いつも彼を侮蔑していた。受禅の時にも、高隆之は非難した。それで、文宣帝は根に持った。
 崔季舒が言った。
「高隆之は、訴訟人へ対する時には、いつも哀矜の情を表へ出し、その裁きが自分の本意でないことを誇示しています。」
 それで文宣帝は、高隆之を尚書省出入り禁止とした。
 また、高隆之が、ある時元旭と酒を飲み、元旭へ言った。
「王とは、生死を共にする交わりです。」
 その言葉を密告する者がおり、文宣帝はますます怒った。
 八月、文宣帝は、高隆之へ百余り拳骨を食らわせるよう、力士へ命じた。高隆之は卒した。
 しばらく経って、文宣帝は、高隆之のことを思い出して、再びムカムカしてきたので、彼の子息の高慧登等二十人を捕らえ、皆殺しとし、死体は川へ棄てさせた。 

  

道教受難 

紹泰元年(555年)、六月。百八十万人の民を徴発して、長城を築いた。幽州の夏口から恒州まで、長さ九百里。定州刺史趙郡王叡へ、監督させる。 

 八月、北文宣帝は、仏教と道教が別物なので、どちらかを無くそうと考え、御前で論争させた。(理由は書いてない。しかし、宗教が蔓延って租税が減った時など、こうゆう事は良くある。今回も、多分そうだろうと思います。上述の大工事とも関係があるかも知れません。)
 結果、道教が敗北し、道士は、全員髪を剃って沙門となるよう敕が下った。これに従わない者もいたが、四人殺されると、皆、敕ほ奉じた。以来、北斉国内から、道士がいなくなった。 

  

清河王 

 平秦王帰彦は、早くして孤児となっていた。高歓は、彼の父親の世話になったこともあって、その子息が孤児になったことを憐れみ、清河昭武王岳へ彼を養わさせた。
 ところが、清河王は帰彦のことをないがしろにしていたので、帰彦は心中憤りを含んだ。 やがて文宣帝が即位すると、帰彦は領軍大将軍となり、寵遇を受けた。すると清河王は、帰彦の養父として、その権勢にあやかった。
 清河王岳は、屡々戦功を建てており、すでに威名があった。性格は豪奢、酒と女に目がなかった。
 清河王は、城南へ邸宅を構え、民間の訴訟事などを聞いてやった。すると、平秦王帰彦が、これを文宣帝へ讒言した。
「清河王の邸宅は宮廷を模倣し、裁判のまねごともやっております。」
 文宣帝は、以後、清河王を憎んだ。
 ある時、文宣帝は倡婦の薛氏を後宮へ入れた。ところで、彼女の妹は、もともと清河王が懇意にしていた。
 紹泰元年(555年)、十一月。文宣帝が薛氏の家で遊んだ時、妹が、父親を司徒とするよう頼んだ。文宣帝は激怒し、彼女を鋸引きの刑に処した。
 更に、この件は清河王がそそのかしたと考え彼を詰ったが、清河王は服さなかった。文宣帝はますます怒り、清河王を毒殺するよう平秦王へ命じた。
 清河王が無実を訴えると、平秦王は言った。
「これを飲めば、貴方の家族は助かるのです。」
 清河王は、服毒して死んだ。
 薛嬪は、しばらく文宣帝から寵愛されていたが、やがて文宣帝は、彼女が清河王と仲が善かったことを思い出し、首を斬った。死体は解体して、大腿骨で琵琶を造った。 

  

本性 

 文宣帝は、即位したばかりの頃は、心を政治に留め、政務を簡潔にし、人材を適宜に使いこなしていた。法律は厳格に適用し、法を犯した者は、身内であろうと寵臣であろうと情実を加えなかったので、内外は粛然となった。軍国の機策は、一人で決断し、戦闘へ出るたびに、自ら先頭に立って石矢を冒した。
 だが、数年も経つと、だんだん功業に誇るようになり、酒や女に浸り始め、凶暴な行動が目立ち始めた。あるいは、夜通し歌い踊り、あるいはザンバラ髪にして胡一の服装を着たり、花街へ入り浸ったりと、狂躁な振る舞いが多くなった。夏の暑い盛りに日中に出たり、冬の寒い日に裸になったり。従者は耐えきれなかったけれども、文宣帝は自若としていた。
 かつて、文宣帝は路上にて婦人へ尋ねた。
「天子のことをどう思うかね。」
 婦人は答えた。
「馬鹿な真似ばかりして、何が天子ですか!」
 文宣帝は、彼女を殺した。
 文宣帝が酒に狂ったので、婁太后は、これを杖で打った。
「あの父にしてこの子ありだよ!」
 すると、文宣帝は言った。
「この婆、胡へ輿入れさせてやろうか。」
 太后は怒りの余り、物も言わず、笑いもしなくなった。文宣帝は太后を笑わせてやろうと思いベットを持ち上げたけれども、太后は地面に落ちてしまって、ケガをした。
 酔いが醒めて、文宣帝は大いに慚愧し、柴を山と積んで火を付けさせると、中へ飛び込もうとした。太后は驚いて引き留め、無理に笑って言った。
「おまえは酔っていただけですよ!」
 文斉帝は、平秦王帰彦へ自分を杖で打つよう命じた。
「杖打って出血しなければ、お前を斬るぞ。」
 このようなことがあって、酒を戒めたけれども、一旬もすると元通りに戻ってしまった。
 文宣帝が李后の家へ御幸した時、皇后の母親の崔氏を鏑矢で射て言った。
「我は酔っぱらったら太后へさえ何をするか判らないのだ。まして老婢なぞ尚更だ!」
 そして、馬の鞭で百余発乱打した。
 楊音(「心/音」)は宰相だったが、それでも馬の鞭で背中をむち打たれて、血だらけになることがあった。
 高氏の婦女とは、親疎を問わず乱交した。彭城王の太妃は爾朱氏。彼女は魏の敬宗の皇后だった女性である。文宣帝は彼女へ淫行を求めたが、爾朱氏は頑として拒み通した。そこで文宣帝は、自らの手で彼女を殺した。
 魏の安楽王だった元昴は、李后の妹婿だった。彼の妻、つまり李后の妹は、非常な美人だったので、文宣帝は彼女と何度も交わった。そのうちに、後宮へ納れたくなった。そこで文斉帝は、元昴を召しだして、射殺した。
 これを知った李后は泣き濡れて、食事も喉を通らない有様。皇后の地位を妹へ譲ると言い出した。太后もあれこれと口を入れたので、遂に妹を後宮へ納れるのは中止した。
 文宣帝は、長い鋸などの処刑道具を庭へ陳列して、酔うたびに人を殺した。もちろん、それは戯れである。殺した人間は、死体を解体させ、焼き捨てたり川へ棄てたりした。
 そこで楊音は、死刑囚の牢を殿庭へ造った。文宣帝が人を殺したくなった時、彼等を殺す為である。文宣帝はこれを受諾し、三ヶ月間殺さなかった死刑囚は釈放してやった。
 開府儀同三司裴謂之が上書して極諫すると、文宣帝は楊音へ言った。
「この馬鹿者は、何故こんな事をするのか!」
 楊音は答えた。
「彼は、陛下から殺されて、後々まで令名を遺そうと思っているのです。」
「つまらん奴だ。殺さずにおくか。そしたら名前など遺りようがないぞ!」
 ある時、文宣帝は側近達と酒を飲み、「楽しい」と言った。すると、都督の王絋が言った。
「大きな楽しみと、大きな苦しみがございます。」
「何のことだ?」
「『長夜の飲』で、国が滅び我が身を失うことに気がつかない。これを大きな苦しみと言うのです!」
 文宣帝は王絋を縛り上げて斬ろうとしたが、彼は高澄が死んだ時に身を呈して文宣帝を庇った功績があったので、不問に処した。
 又、ある時、文宣帝は泣いて群臣へ言った。
「黒獺(宇文泰)が、我の命令を聞かない。どうすれば良いか?」
 すると、都督の劉姚枝が言った。
「臣へ三千騎をお貸しください。長安へ行って捕らえて参りましょう。」
 文宣帝は、その返答を剛壮だと言って、帛三千匹を賜下した。
 だが、趙道徳が進み出て言った。
「東西両国は、国力が拮抗しております。我等が彼を擒にできるのならば、彼等も又我等を擒にできるでしょう。劉姚枝めは、妄言を吐いただけ。誅罰を与えるのが当然ですのに、陛下はどうして賞を乱発なさるのですか!」
 文宣帝は言った。
「うむ。趙道徳の言葉が正しい。」
 そして、劉姚枝へ与えた帛を取り返した。
 この趙道徳は、剛直な人間だった。ある時、文宣帝が馬に乗ったまま険しい崖を駆け下りようとした時、彼は、その轡を執って引き返させた。文宣帝は怒って斬り殺そうとしたが、趙道徳は言った。
「臣は殺されても恨みません。その時には、地下へ行って先帝へ申し上げます。『ご子息の狂騒は行き過ぎており、教え導くことができませんでした。』と。」
 文宣帝は、黙りこくった。
 典御丞の李集が面と向かって諫めたが、その時、文宣帝をケツ、紂へ喩えた。文宣帝は、彼を縛り上げて川へ放り込ませた。李集が沈み込んでしまうと、しばらくしてから引き上げさせ、聞いた。
「朕のどこがケツ、紂に似ているのか?」
 李集は言った。
「陛下は、連中の上を行っております。」
 文宣帝は再び彼を沈め、暫くして引き上げさせ、また尋ねた。このような事を四回繰り返したが、結局、李集の返事は変わらなかった。
 文宣帝は大笑いして言った。
「天下に、こんな痴者が居たか。龍逢、比干も彼には敵うまい。」
 そして、李集を赦してやり、従来通り謁見させた。
 しかし、文宣帝のことを、彼等と同じように諫めた人間が、たちどころに殺されることもしょっちゅうだった。ある時は殺されるし、ある時は赦される。その結果については、誰にも予測ができなかった。 

  

楊音 

 内外の人間は、皆、文宣帝を怨んでいたが、文宣帝は記憶力に優れ、厳罰も果断に行ったので、群臣達は戦慄して、敢えて非難するものはいなかった。
 又、政治については楊音へ委ねていた。楊音は全てを取り仕切って、理屈にあった行政を行ったので、人々は、上が昏君でも、政治は清廉に修まっていると評した。
 楊音は、かつて爾朱氏が楊一族を皆殺しにしようとした時、一人だけ命辛々逃げ出せた人間だった。それが出世して、朝野から重鎮と認められるようになった。彼は、かつて一餐の恩でも受けた相手には、必ず重く報いたが、自分を殺そうとした連中へ対しては、一切を不問に処していた。二十余年重職にいたが、優秀な人間を抜擢することこそ、自分の職務だと信じていた。
 楊音の記憶力は抜群で、一度見たものは、その姓名を絶対に忘れなかった。かつて、魯漫漢とゆう男が居た。彼は、自ら下賤の出身だと放言し、こんな賤しい人間のことは、誰も覚えていないだろうと言っていたが、楊音は言った。
「卿は、もと、元子思坊に居たではないか。何で、誰も知らぬなどと言うのか!」
 魯漫漢は、大いに驚いた。 

  

暴虐は続く 

 九月、北斉では、山東の寡婦二千六百人を徴発して、軍人へ配った。その中で、夫があるのに無理矢理連れ去られた女性が二・三割はいた。 

 永定元年(557年)。河南で蝗害が起こった。斉帝は、魏郡丞の崔叔贊(「王/贊」)へ尋ねた。
「なぜ蝗害が起こったのかな?」
 すると、崔叔贊は答えた。
「五行志によりますと、無理な土功を挙行した時、蝗蟲が起こるとされております。今、外では長城を築き、内では三台を建築しております。蝗が発生したのは、そのせいでございます!」
 斉帝は怒り、側近達へ崔叔贊を殴りつけさせ、その髪を全部引き抜かせた。 

 同年、斉では長城内に更に城を築いた。庫洛枝から東へ四百余里の長さがあった。 

 斉のある術士が、かつて予言した。
「高を亡ぼす者は、黒衣である。」
 だから高祖は、沙門を見るのを厭がった。
 しかし文宣帝は、「黒」を七番目の弟の上党王渙の事だと判じ、これを捕らえた。 

 二年、日照りが続いたので、文宣帝は西門豹の祠で雨乞いをした。しかし雨は降らない。文宣帝は、祠を壊し、その塚を暴いた。
(西門豹は、戦国時代に魏に仕えた明吏。業の令となり、数々の善政を布いた。) 

 九月、文宣帝は曹操に倣って三つの台を造った。それぞれ金鳳、聖応、祟光と名付ける。中央の金鳳は十二丈、他の二つは八丈の高さだった。(曹操が建てた三台は、南北が八丈、中央が十丈だった。)  

  

永安王 

 文宣帝が、まだ太原公だった頃、次のような事件があった。
 太原公が永安王浚と共に世宗(高澄)へ謁見した時、世宗が鼻水を垂らした。すると、永安王は太原公の近習を叱りつけた。
「どうして、二兄(太原公)に、あれを拭わせなかったのか!」
 以来、文宣帝は永安王を恨んでいた。
 文宣帝が即位すると、永安王は青州刺史となったが、彼は聡明で情け深かったので、官吏も民も喜んでいた。
 ところで、文宣帝は酒飲みだった。永安王は、親しい者へ言った。
「大敵がまだ健在だとゆうのに、二兄の酒は度を超している。それなのに、朝臣は誰も諫めない。これが我の大きな憂いだ。今直ぐにでも業へ行って諫めたいが、聞き入れてくれるかどうか。」
 この言葉を、密告する者が居た。文宣帝はますます恨んだ。
 永安王が入朝した時、文宣帝にお供して東山へ御幸した。この時、文宣帝は裸になって楽しんだ。そこで、永安王は諫めた。
「それは、人主の行いではありません!」
 文宣帝はむかついた。
 又、この時永安王は密かに楊音を呼び出して、彼が文宣帝を諫めない事を謗った。
 この頃、文宣帝は大臣が諸王と交際することを嫌っていたので、楊音は懼れ、この事を文宣帝へ奏上した。文宣帝は大怒して言った。
「もうがまんできん!」
 そして、酒をやめて宮殿へ帰った。
 永安王は青州へ戻ってからも、上書して切に諫めた。とうとう、文宣帝は詔で永安王を徴集した。
 永安王は殺されることを懼れて仮病を使ったが、文宣帝は使者を派遣して強制連行させた。永安王が引き立てられるとき、老人や子供数千人が泣きながら見送った。
 業へ着くと、永安王は上党王と共に鉄の籠へ入れられ、北城の地牢へぶち込まれた。