文成帝の治世と側近達
 
 廃仏令廃止 

 魏の文成帝が即位したのは、宋の文帝の元嘉二十九年(452年)、十月の事である。
 魏の太武帝の晩年には、仏教の禁止令も次第に緩み始め、民間では私的に学ぶ者も居た。
 文成帝が即位すると、多くの群臣がこれの廃止を請願した。同年十二月、各県毎に寺院を一つ建造することが許可された。 又、出家を望む人々も多かったので、これについても大州は五十人、小州は四十人と数を定めて認可した。(文成帝が即位して月余の事です。要求が余程強かったのでしょう。)
 文成帝は、師賢等五人の沙門を自ら剃髪してやり、彼等を道人統とした。 

  

 論功行賞 

 同月、楽陵王の周忸が、太尉となり、南部尚書の陸麗が司徒に任命された。
 陸麗は、文成帝を迎立した功績があり、他の誰よりも寵用されていた。そして平原王の爵位まで賜下されたが、陸麗は言った。
「陛下は国の正統であり、即位するべきお方でした。ですから陛下を迎立いたしましたのは、臣下として当然のことでございます。天の功績を盗んで大賞を蒙ることなど、どうしてできましょうか。」
 陸麗は再三辞退したが、文成帝は許さなかった。そこで、陸麗は言った。
「臣の父は、先帝に仕えて忠勤に励みましたが、もう、年でございます。臣に功績があるというのでしたら、どうかその爵位を臣の父へ授けて下さい。」
 すると、文成帝は言った。
「朕は天下の主となったのだ。卿の親子ぐらい、どちらも王にしてやろう。」
 そして、陸麗の父を建業侯から東平王へ進爵した。ただ、陸麗自身は、王となることを固辞し、遂に受けなかった。文成帝は、益々これを嘉した。
 劉尼は尚書僕射、源賀は征北将軍となり、二人とも王に進爵した。
 文成帝は、群臣へ褒賞を賜下しようと考え、源賀へ言った。
「卿は好きな物を取るが良い。」
 すると、源賀は答えた。
「南北に敵がおります(宋と柔然)。府庫を空にしてはいけません。」
 文成帝が、たってこれを与えると、戎馬一匹を選んだ。
 さて、文成帝の即位には、高允も尽力していた。ところが、陸麗等は皆重賞を受けたのに、高允には何のお沙汰もなかった。しかし、高允はそれについて死ぬまで口にしなかった。
 七日後、太尉の周忸が、罪状を告発されて死を賜った。この時、魏の法律は非常に苛酷だったので、源賀が上奏した。
「造反した家でも、十三歳以下の子供までが、陰謀に参与していたとは考えられません。死罪一等を減じ、官位剥奪に留めるべきでございます。」
 これに従った。 

  

 改暦 

 魏が中原を征服した時、(晋の孝武帝の太元二十一年=396年。)景初暦を使用していた。やがて世祖が北涼を滅ぼすと、(元嘉十六年=439年)彼等が造った玄始暦が手に入った。比較してみると、玄始暦の方が正確だとゆう評判が高く、この年、魏でも玄始暦が採用された。 

(訳者、曰く) 

 前涼は、混迷の中原を尻目に、九代の平穏が続いた。疎開する名士は、定めし多かったに違いない。それは、北涼が滅亡した時、北魏が大勢の人材を得た事でも明かである。そして今、作成された暦が優れていたことも示された。五胡十六国の乱世に於いて、一番文明的だったのは、案外涼ではなかったろうか 

  

 粛清 

 三十年、七月。濮陽王呂(「門/呂」)若文と、征西大将軍永昌王仁が、謀反の罪で処刑された。仁は長安にて死を賜り、呂若文は誅に伏した。
 宋の孝文帝の孝建二年(455年)、正月。魏の車騎大将軍楽平王抜が罪を犯して死を賜った。 

  

 立后、立太子 

 三年、正月。文成帝は、貴人の馮氏を皇后に立てた。
 馮后は、遼西郡公朗の娘である。遼西郡公朗は、秦・ヨウ二州刺史だった時、罪を犯して誅殺された。それ以来、彼女の身柄は後宮へ没収されていた。
 二月、文成帝は、子息の弘を皇太子に立てた。(時に、数え年で三歳だった。)それに先だって、弘の実母の李貴人は兄弟のもとへ託され、故事に従って死を賜った。 

(訳者、曰く) 

 国王の母親が政治に口を挟むことを未然に防ぐ為、皇太子を決めたらその実母を殺すとゆう風習があったとゆう話を聞いたことがある。「故事によって」と記載されているが、北魏にはこのような風習があったのだろうか?
 処刑した人間の娘が皇后となり、殺した女性の息子を皇太子とする。私から見れば非常に奇異なことに思えるが、これで後宮、つまり皇帝の家庭が、うまく納まるのだろうか? 

  

 源賀 

 十一月、尚書の源賀を冀州刺史とし、隴西王の爵位を賜下した。
 源賀は上言した。
「今、南北に敵をかまえております。愚考いたしますに、大逆や殺人犯以外の、連座や過失致死などで下獄されている罪人達を赦免して、辺境の守備に就かせては如何でしょうか?彼等にとっては再生の恩を与えることになりますし、労役を課せられている兵卒達を故郷へ帰せば、彼等の負担も減ります。」
 文成帝は、これに従った。
 しばらく経って、文成帝は群臣へ言った。
「源賀の進言に従ったおかげで、その恩恵を蒙る者は多く、守備兵も増加した。卿等が皆、彼のようだったなら、朕に何の憂いがあろうか!」
 ある時、武邑の住民石華が、源賀の造反を密告したので、役人が文成帝へこれを告げた。すると、文成帝は言った。
「源賀は、誠意を尽くして御国の為に働いている。朕は卿等の為にも、彼を大切にしているのだ。このような事は絶対にない。」
 そして事件を究明したところ、果たして誣告だった。文成帝は石華を処刑し、左右へ言った。
「源賀のように忠誠一途の人間でさえも誹謗を免れない。ましてや源賀に及ばない者は、慎まなければならないぞ!」 

  

 明察 

 定州刺史の許宗之が汚職を行った。深沢の住民馬超がこれを指摘したので、許宗之は馬超を殺した。そして、彼の家族が自分を告発することを懼れ、文成帝には馬超が朝政を誹謗したと報告した。すると、文成帝は言った。
「それは妄言だ。朕は天下の主となったが、馬超という男から憎まれるいわれなどない!これは、許宗之が罪を懼れ、馬超を陥れようとしているのだ。」
 調べてみると、果たしてその通りだった。
 許宗之は、都南で斬罪となった。 

  

 禁酒令 

 宋の大明二年(458年)、正月。文成帝は禁酒法を発布した。酒を醸す者、売る者、飲む者、全て斬罪。吉凶の会合だけは特例として認めたが、それにも制限を加えた。これは、士民が酒に酔って諍いや国政誹謗を起こすことが多いので、禁止したのである。
 また、内外の候官を増員し、諸州や鎮の動向を厳しく監視させた。彼等の被服や行動が制度を超えるとすぐに報告され、百官の過失はあげつらって窮治された。律も、七十九章増やされた。 

  

 高允 

 同月、文成帝は太華殿を建造させた。給事中の郭善明が奸佞な男で、言葉巧みに文成帝を説き伏せたのだ。すると、中書侍郎の高允が言った。
「太祖が都を建造した時、宮殿の建造は、必ず農隙期に行ったものです。ましてや、建国から既に時が経っております。永安の前殿は朝廷の会議を開くのに充分ですし、西殿や温室では宴会を開くこともできます。今、動員した労役は二万人。炊き出しなどの足弱を加えたらその倍の人間を使っております。一人の人間が耕さないだけでも飢えを蒙る人間が出るというのに、四万人もの人間を動員すれば、どれだけの浪費となりましょうか!どうか陛下、ここのところを良くお考え下さい。」
 文成帝は、この具申を受け入れた。 

 高允は切諫を好んだ。朝廷に少しでも不便があると、すぐに謁見を求め、文成帝は左右を引き下がらせて対峙した。ある時は朝から暮れまでかかり、またある時は、連日出てこなかった。その話の内容は、群臣の誰も知らない。時には痛切なことも口にし、癇に据えかねた文成帝が左右を呼んで力尽くで退出させたこともあったが、それによって彼への待遇が変わることはなかった。
 ある時、文成帝の命令へ対して激しく反発する者が居たので、文成帝は、群臣を顧みて言った。
「父親と主君は同じものだ。父親に過ちがあった時、子供はそれを衆人の中で告発するのか?他に誰もいない私室で密かに父親を諫めるのは、その過ちを誰にも知られたくはないからではないか!主君に仕える時、どうしてその想いをなくすのか。主君に過ちがあり諫めざるを得ない時、諫言を高らかに上表する。主君の欠点をあげつらってでも、己の剛直さを宣伝したいとゆうのが、どうして忠臣の行いか!高允のような人間こそが、真の忠臣である。朕に過ちがあれば、必ず面と向かって諫め、朕が聞くに耐えないような言葉でも避けたことはなかった。だから朕は自分の過ちを知ることができたが、朕以外には、天下の誰もそれを知らない。忠臣と言わずして何と言おうか!」 

 高允と同期に出仕した游雅等は、皆、出世して大官となり侯に封じられたし、彼の部下で刺史や二千石へ至った者も数十人と居たのに、高允は中書侍郎のまま、二十七年も出世しなかった。文成帝は群臣へ言った。
「お前達は刀や弓を持って朕の左右に居るが、ただ徒に立っているだけだ。有益な発言など、未だかつて一度も言ったことがない。それでいて、朕の機嫌の良い時を窺って官職や爵位を乞い願う。あげく、彼等は功績もないのに王公にまで出世した。高允は数十年に亘って筆を執り、多くの国益を生んでくれたのに、その官職は郎に過ぎない。彼を見て、恥を知れ!」
 そして、高允を中書令とした。
 ところで、魏では百官へ棒禄を与えていなかった。だから、高允は息子達と共に薪を採って生活のたつきとしていた。
 司徒の陸麗が文成帝へ言った。
「高允は恩寵を蒙っているとはいえ、家が貧しく、妻子が生活できません。」
 文成帝は言った。
「何でそんなことを今まで黙っていたのだ。貧しいとはどれ程か?朕が自ら検分する。」
 文成帝は、その日のうちに高允の家へ出かけた。そこは、みすぼらしいあばら屋で、台所には、ただ塩と菜っぱしかなかった。文成帝は嘆息し、帛五百匹と粟千斛を賜下し、長男の高悦を長楽太守に任命した。高允は固辞したが、許さなかった。
 文成帝は高允を重んじ、彼のことを常に「令公」と呼んで、名前を呼ばなかった。 

 游雅は、いつも言っていた。
「前史は、卓茂や劉寛の為人を賞賛しているが、偏屈者は作り話だと言って、信じない。余は高子と四十年来のつき合いだが、彼が喜怒の情を顔に出したところを見たことがない。だから、古人の話も、虚構ではないと判るのだ。  
 高子の内面は博学聡明で、上辺は柔順。その言葉は木訥で、流れるような言葉は出て来ない。ある時、崔司徒(崔浩)が私に言った。『高生は、才覚豊かで博学。一代の佳士である。ただ、流暢な言葉や風節に乏しいのが欠点か。』それを聞いて、私も心に頷いた。だが、司徒が史書を編纂した罪で陛下から叱責された時、彼は慄然として、その答弁ではあやふやな言葉しか喋れなかった。宗欽以下の百官は、地に伏せって汗を流すだけ。誰一人何も言えなかった時、高子一人堂々と弁護した。その申し開きは筋道が通り、口調はハッキリとして張りがあった。その有様に陛下は居住まいを正し、聞く者は皆心を奪われた。これこそが、真の流暢というものだ。(「皇太子晃」の「国史編纂」参照)又、宗愛が専横を極め、その権勢が四海を震わせた時、王公以下皆が彼に平伏したのに、高子一人、これを拒んだ。これこそ風節というものだ。
 ああ、人を知るというのは難しい。私は高子の事を心の中で見損ない、崔司徒は言葉に洩らしさえした。管仲が鮑叔の為に慟哭したというのも、なるほど尤もなことだ。」 

  

(訳者、曰) 

 何かの論文で読んだことがある。
「遊牧民族が中国を支配すると、まず役人を遣うことを覚え、しばらく経ってから、役人へ給料を払うことを覚える。この、役人を使役しながら給料を出さなかった時期が、民にとっては最も受難の時代だった。」
 役人へ給与が払われない時代。頭の中でシュミレーションしてみると、暗黒の時代と言う他ない。彼等は皇帝から俸禄を貰えない分、民から収奪するしかないのだ。それでも大勢の人間が役人になりたがる。それは即ち、甘い汁を民から搾り取ることを、最初から念頭に置いているとゆうことなのだから。
 それによって社会の弊害が大きくなり、にっちもさっちも行かなくなってから、ようやく彼等へ俸禄を与え、その代わり、彼等の不正を取り締まるようになるのである。だから、役人へ俸禄が払われなかった時代とゆうのは、どう考えても、官吏達のある程度の不正は当然のこととして社会的に認められていたとしか思えない。
 北魏が平城を拠点として皇帝と名乗ったのは西暦398年、河北の統一は439年。だが、今回の記述に依れば、458年まで、役人に俸禄を与えてなかった訳だ。何と悟りの遅いことだろうか。 

  

 史官 

 魏では、崔浩が誅殺されて以来、史官を廃止していたが、四年三月、これを復置した。 

  

 文成帝崩御 

 宋の泰始元年(465年)、文成帝は崩御した。廟号は高宗。
 魏の世宗は、四方を経営し、その軍費に国内は疲弊しきっており、末年には内乱まで起こった。
 高宗はこれを受け継ぎ、国力の増強に努め、民の心も落ち着いて行った。
 皇太子の弘が即位。御年十二歳だった。