楚の文之無畏、宋公の僕を戮す。宋、申舟を殺す。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の文公の十年(BC617)、楚が陳・鄭・蔡を率いて宋を攻撃しようとした。宋は、とてもかなわないので、楚王を迎え入れて慰労し、一切服従を誓った。
 そんなある日、宋公は楚王を案内して孟諸で狩猟を行った。この時、楚の文之無畏は左司馬となった。
 この狩猟の途中、宋公が合図を間違えてしまった。そこで、文之無畏は宋公の侍臣を打ち据えて、全軍へさらし者とした。すると、ある人が文之無畏へ言った。
「一国の主君の過ちを、ここまで辱めるとは!」
 文之無畏は答えた。
「任務を拝命したから、御国の為に職務を遂行するのだ。誰に媚びへつらおうか?
 詩にも言うではないか。
『剛いからとて吐き出さず、柔いからとて呑み込まず。小さき罪を見逃さず、大きな罪を未然に防げ。』と。
 これは、強権を避けるなと言っているのだ。死を懼れて職務をおろそかにすることなど、どうして赦されようか。」 

 魯の宣公の十四年(BC596)、楚王は申舟(文之無畏)を斉へ派遣したが、その時に言った。
「宋を通っても、主君へ挨拶してはならない。」
 又、晋へ派遣する使者へ言った。
「鄭を通っても、主君へ挨拶してはならない。」
 すると、申舟は言った。
「鄭は聡明な国ですが、宋の主君は明き盲。晋へ派遣した使者は無事でしょうが、私は必ず殺されます。」
 楚王は言った。
「お前が殺されたら、私が必ず仇をとってやる。」
 申舟が宋の領内を通ると、宋公は、彼を捕らえて言った。
「楚の使者は、我が領内を断りもなく通るのか。これでは、我が国は楚の属国も同然。我が国は滅んだも同じだ。お前を殺せば、報復の軍を挙げ、我が国は滅ぶかも知れないが、お前を見逃しても我が国は滅んだも同然なら、同じ事ではないか。」
 そして、申舟を殺した。 

  

  

(東莱博議) 

 名声は、僥倖で取ってはならない。
 上辺は似ているが内実は全然違う物が、世間には沢山ある。その上辺が似ていることを幸いにして、偽りの名声を得る。それで確かに、世間の人々を一時は騙せるだろう。だが、その名声を信じた人間は、後に内実を求める。そうなればたちまちボロが出て、結局は失敗してしまうのである。
 苦労せずに名声を得られるとゆう幸福が目の前にあるかも知れない。だが、それを取れば後に評判通りの働きを強制されるとゆう憂いが襲いかかって来るのだ。一朝の幸の為に、終身の憂慮を背負い込む。知者がどうしてそんな事をするだろうか。 

 大した脚力もない馬が、気が荒かったので、名馬と勘違いされた。それは、馬にとっては幸いに違いない。だが、陵谷を駆け回る時に臨んで、彼は名馬たることを強いられるのだ。その時に及んで、どう取り返しがつくだろうか。肝っ玉もないただの頑固者が、龍逢や比干のような忠臣と勘違いされた。それは大した幸福だろうが、刀や鋸が迫った時、彼は忠臣の節義を強いられるのである。その時に及んで、どう取り返しがつくだろうか。
 だからこそ言える。名声を得るのは容易い。その名声を保つのが難しいのだ。 

 名声を受けるのは容易いし、名声を辞退するのは難しい。しかし、忘れてはならない。名声を受けるというのは、責任を受けるということなのだ。
 昔の君子は、心の内に顧みて充実していないと感じたならば、あたかも誹りを避けるように名声を避けたものだ。まるで辱を畏れるように、名声を畏れたものだ。彼等はただ、誠実に行動することだけしか考えていなかった。ましてや、似ていることをこれ幸いと名声を盗むような真似を、どうして行おうか。 

 孟諸の役で、文之無畏が、楚の後ろ盾を笠に着て、宋公を辱めた。それは賞嘆に値することではない。だが、宋は弱国とはいえ、宋公は一国の主君である。文之無畏は本国こそ強国ではあるが、その一介の臣下に過ぎない。その事績を見てみると、卑が尊を犯し、弱者が強者を撃つように見える。それは、余程の硬骨漢でなければできることではない。人々から賞賛もされるだろう。実際には、楚の強盛を恃んで弱国の宋をいたぶったのだから、誰にでもできることなのに。
 絶対に安全な立場にいて安楽な事を行いながら、至難のことを行う硬骨漢の名声を博す。何ともボロイ話ではないか。だから無畏は、その似ていることを幸いとして、名声を盗んだのである。
 そもそも、金や粟を惜しげもなくばらまいて、始めて「富豪」と称されるのである。強敵と命がけで戦い、九死に一生を得て始めて「豪傑」と称されるのである。ところが、文之無畏はどうだ?六千里の領土を持つ楚を後ろ盾にして一石の君主を侮辱する。これを阻む権勢はないし、憂えるべき患もない。ただ、従容談笑して「強者をも畏れない」という名声を得た。天下のどこを探しても、彼以上の果報者は居ないだろう。
 もしも、心許せる人間が文之無畏へ尋ねれば、彼は得々として答えるだろう。
「名声なんてものは、運が良ければ手に入る。世間の人間なんて、評判一つで騙せるものだ。我が主君でさえも、俺のことを剛直と信じている。ましてや、他の誰が気がつくだろうか。俺はただ、楚の威光を活用しただけなのに。」と。
 昔、渉佗が衛公の腕を執った時、人々は渉佗が剛直な人間だと信じ込んだが、その実、彼が晋の威光を借りていたことに気がつかなかった。漢の武帝の頃、江充は皇太子の車を没収した。人々は江充が実直な役人だと思ったが、実は彼が武帝の虚栄心をくすぐっただけだということに気がつかなかった。そして、宋公の従僕を殺戮した事件で、人々は文之無畏を剛直だと賞賛したが、実は彼が楚の威光を借りていたことに気がつかなかった。 

 文之無畏は、楚の威を借りて、自分の名声を博した。毫末の苦労もないのに、丘山のような栄誉だ。そしてそのまま安楽に過ごせて何の憂いも起こらなければ、こんなに良いことはない。それこそ、誠実に行うよりも詐術を施した方がよい。曲は直に勝るし、君子になるより小人で居るべきだ。だが、そうは問屋が降ろさない。彼に剛直の名声を与えた人々は、彼へ対して剛直な人間としての行動を期待する。いや、押しつけるのだ。
 だから、後に楚王は宋の国内を通過しようとした時、その使者として文之無畏を選んだ。他の誰でもなく、敢えて彼を選んだのは、「剛直果敢な彼のことだから、必ずや命を顧みずに難事に当たり、我が国の国威を大いに高揚してくれるだろう。」と期待してのことに違いない。
 この時になって、無畏は始めて気がついたのだ。過日、詐術で掴んだ虚名が、今日の実禍を招いたのだ、と。そして彼は、畏縮恐惶して楚王へ言った。
「鄭は聡明な国ですが、宋の主君は明き盲。晋へ派遣した使者は無事でしょうが、私は必ず殺されます。」
 こんな恥も外聞もない言葉で、哀鳴して憐れみを乞う。過日の直辞悍気はどこにある?
 かつて、彼は言った。
「どうして死を恐れて職務をおろそかにできるだろうか。」
 しかし、今は言う。
「私は必ず殺されます。」
 始めの言葉は何と壮烈だったことか。そして、今の言葉は、なんと女々しいことだろう。
 何も起こらないと判っていたら「死をも避けない」と豪語し、事が起こると判ったら、死を畏れて泣き言を言う。彼の真情本態は、ここにいたって悉く暴露されてしまった。
 名声を軽々しく得てはならないとは、こうゆう事なのだ。 

 ああ、足の悪い人間は杖にすがり、杖を失えば忽ち倒れる。河を渡る者は筏を頼り、筏を失えば忽ち溺れる。他者を恃んで立場を強くする者が恃る者を失えば、必ずや危うくなるのだ。
 文之無畏が強く出れたのは、楚の威光があったればこそ。一旦、その国境を出たならば、宋の主君がどうして一介の無畏を懼れようか。無畏が見栄を無くして泣きついたのは当然のことである。
 私は、これを以て虎の威を借る狐どもへの戒めと為す。