功臣粛清
 
 顕慶元(丙辰、656年)、韓爰(「王/爰」)が、猪遂良は冤罪だと上疏し、言った。
「遂良は御国を思って家を忘れ、身を損なって職務に殉じました。その操は風霜に耐え、心は鉄石。実に社稷の旧臣、陛下の賢佐でございます。それが、罪もないのに朝廷を追い払われました。内外は民は嘆いております。晋の武帝は弘裕で劉毅の誅を咎めず、漢の高祖は深仁で周昌の直を含みませんでした。それなのに遂良は左遷され、既に季節が一巡り。陛下の意向へ違いましたが、その罰としては充分でございます。伏してお願い申し上げます。無辜の者を赦免し、罪なき者へ寛容になり、ねんごろに襟を正して、人情に従ってください。」
 上は、爰へ言った。
「遂良の情は、朕も判っている。だが、奴は悖逆暴戻で上を犯すことを好んだから、このような叱責に至ったのだ。それなのに、卿は何でここまで言うのか!」
 対して言った。
「遂良は社稷の忠臣で、讒言によって左遷させられました。昔、殷は微子が去った為に亡びましたが、晋は張華が残った為に綱紀が乱れませんでした。陛下は理由もなしに旧臣を放逐しました。これは国家の福ではございません!」
 上は、納れなかった。
 爰は意見が納れられなかったので田里へ帰ることを請うたが、上は許さなかった。
 劉自(「水/自」)の子が、父親の冤罪を訴え、言った。
「貞観の末期、猪遂良の讒言の為に殺されたのです。」
 李義府が、これを助けた。上が近臣へ問うと、皆は義府の旨へ諂って、あの誅殺が行き過ぎだったと言った。ただ、給事中の長安の楽彦韋(「王/韋」)独りだけは言った。
「劉自は大臣でした。人主が重態の時に、何で自分を伊尹や霍光へなぞらえてよいものでしょうか!今、自の罪を雪ぐのならば、先帝が刑を乱用したというのですか!」
 上はその言葉に得心し、この事は沙汰止みとなった。
 三月、甲辰。淡州都督猪遂良を桂州都督とした。
 許敬宗、李義府は皇后の意向へ阿って侍中の韓爰と中書令の来済を誣告した。「彼等は猪遂良と共に密かに不軌を謀った。桂州は戦争の強い土地だから、遂良を外援とする為に桂州都督とした。」とゆう内容だった。
 八月、丁卯、二人は有罪となり、爰は振州刺史へ、済は台州刺史へ降格され、終身朝政へ関与できないことになった。また、遂良は愛州刺史へ降格され、栄州刺史柳爽は象州刺史となった。
 遂良が愛州へ到着すると、上表して自ら陳述した。
「昔、濮王と承乾が皇位を争った時、臣は死を顧みず、陛下へ帰心いたしました。この時、岑文本と劉自が上奏いたしました。『承乾の悪状は既に露見して、幽閉されましたが、東宮はいつまでも空位としておく訳にはいきません。どうか濮王を東宮へ派遣してください。』これへ対して臣は、強く言い争いました。これらは陛下御自身がその目で見られたことでございます。そして遂に、無忌等四人で共に大策を定めました。先帝がご危篤に及び、臣と無忌だけが遺詔を受けました。陛下が草土の辰にあって哀慟なさっている時、臣は社稷の大事を説きますと、陛下は臣の頸を抱えたものでした。臣と無忌は雑多な事を丁寧に処理しましたので、数日の間に内外は安寧になりました。能がないのに任務は重く、ややもすれば行き過ぎたこともございましたが、臣ももはや老齢でございます。どうか陛下、哀れんで下さいませ。」
 表は上奏されたが、顧みられなかった。
 猪遂良は、三年、愛州刺史のまま卒した。
 二年閏月庚午、皇子顯を周王に立てる。壬申、ヨウ王素節をジュン王へ移した。 

  

 武后は、太尉趙公長孫無忌が重賜を受けながら自分を助けなかったので、深く怨んでいた。王后廃立の議論の時、燕公于志寧は中立で何も言わなかった。武后は、これも悦ばなかった。許敬宗は、無忌へ屡々利害を説いたが、無忌はこれを面罵したので、敬宗も彼を怨んだ。
 武后が皇后になると無忌は内心不安でならず、また、武后は敬宗にこれを陥れる隙を伺わせた。
 さて、洛陽の人李奉節が太子洗馬韋季方と監察御史李巣が朋党を組んでいると告発した。すると敬宗と辛茂将へ、これを審議するよう敕が降った。敬宗がこれを性急に尋問すると、李方は自刃したが、死にきれなかった。そこで敬宗は、でっちあげを奏上した。
「李方は無忌と共に忠臣近戚を陥れて、権力を全て無忌へ集中させてから隙を伺って造反しようとしていたのですが、事が発覚したので自殺したのです。」
 上は驚いて言った。
「なんでそんなことがあろうか!舅が小人から間され、小生が疑いを持ちはしたが、なんで造反にまで至るものか!」
 敬宗は言った。
「臣の取り調べで、反状は既に顕れたのです。陛下がなお疑われるのは、社稷の福ではありません。」
 上は泣いて言った。
「我家は不幸にも、親戚間で屡々異志が出た。往年は高陽公主と房遺愛が謀反し、今、元舅までこんなことをして、朕を天下の人々へ対して恥じ入らせるのか。これが事実なら、どうすればよいだろうか?」
「遺愛のような乳臭い小児が一女子と造反しても、なにができましょうか!ですが無忌は先帝と謀って天下を取り、天下はその智に敬服しています。宰相となって三十年、天下はその威に畏れております。もし一旦造反したら、陛下は一体誰を派遣して相対させるのですか!今、宗廟の霊が助け給い、皇天もその悪を憎み、小事が発端で大姦を見つけたのです。実に、天下の慶事ではありませんか。無忌が李方の自刃を知って、急遽事を起こすことを、臣はひそかに恐れております。袂を払って一呼すれば同悪が雲集し、必ずや宗廟の憂となりましょう。臣は昔、宇文化及と父の述が煬帝から親任されていたのを見ていました。婚姻で結ばれ朝政を委ねられ、述が死ぬと、化及は禁兵の指揮を任されたのです。ですが一夕江都で乱が起こると、彼等は自分に懐かない者を殺し、臣の家も禍を蒙りました。ここにおいて大臣蘇威、裴矩の輩は、皆震え上がってただ自分に禍が降りかかることばかりを恐れ、黎明には隋室は傾いたのです。前事は遠くありません。どうか陛下、速やかにご決断ください!」
 上は、更に詳しく調べるよう敬宗へ命じた。
 翌日、敬宗は再び奏上した。
「昨夜、李方は既に無忌との造反を認めました。そこで臣は、また李方へ問いました。『無忌は国の至親で、何代にも亘って寵任されてきた。何を恨んでの造反か?』すると李方は答えました。『韓爰が、かつて無忌へ語りました。「柳爽と猪遂良は、梁王を太子に立てるよう公へ勧めた。今、梁王は既に廃されて上も又公を疑っている。だから高履行も地方へ飛ばされたのだ。」それ以来、無忌は憂恐し、次第に自安の計略を練るようになったのです。後見している長孫祥もまた地方へ飛ばされ、韓爰が罪を得てからは、日夜李方等と造反を語りました。』と。臣の取り調べと符合しております。どうかすぐに捕まえて法に照らしてください。」
 上は又泣いて言った。
「もしも舅が果たしてそうだったなら、朕は決してこれを殺すに忍びない。天下は朕を何と言うだろうか。後世何を言われるだろうか!」
「薄昭は漢の文帝の舅でした。文帝が代から都へやって来た時にも、昭はまた功績がありました。それなのにたかが殺人の罪で、文帝は百官に喪服を着せて慟哭させ、これを殺したのです。それなのに、今に至るも天下は文帝を明主と評しております。今、無忌は両朝から受けた大恩を忘れ社稷を移そうと謀りました。その罪は、薄昭と同列に語ることさえできません。幸いにも、姦状が暴露され、逆徒は服したとゆうのに、陛下は何を疑いなお躊躇されているのですか!古人の言葉にあります。『決断するべき時にできなければ、却って乱を受ける。』と。安危の機は、間髪も入りません。無忌は今の姦雄。王莽、司馬懿の類です。陛下が少しでも猶予されますと、変事が起こって悔いても及ばなくなることを恐れるのです!」
 上はその通りだと思い、遂に無忌を尋問させた。
 戊辰、詔を下して無忌の太尉及び封邑を削って揚州都督とし、黔州へ安置させて準一品を供給した。
 祥は無忌の従父兄弟である。工部尚書から荊州長史へ飛ばされた。だから敬宗は、それをもとに無忌を誣したのである。
 敬宗は、又、上奏した。
「無忌の逆謀は、猪遂良、柳爽、韓爰が煽り立てて成立したのです。爽は、密かに宮掖へ通い、陰謀が深く進行しています。于志寧もまた、無忌の一味です。」
 ここにおいて遂良の官爵を追削し、爽、爰を除名し、志寧の官を免じた。
 無忌の子の秘書監フバ都尉沖等も、皆、除名して嶺表へ流した。遂良の子の彦甫、彦沖は愛州へ流したが、途中で殺した。益州長史高履行は累貶して洪州都督となった。 

  

 涼州刺史趙持満は力持ちで射撃が巧く、任侠を好んだ。その従母は韓爰の妻となり、その舅のフバ都尉長孫銓は無忌の族弟である。銓は無忌の縁座でズイ州へ流された。
 四年五月、許敬宗は、持満が造反することを恐れ、彼も無忌の一味だと誣告した。駅伝で京師へ急送し、獄へ下して尋問したが、言うことはいつも変わらない。
「殺されようとも、言葉は変えんぞ!」
 吏はどうすることもできず、代わりに罪状を造って上奏した。
 戊戌、これを誅殺し、城西へ屍を晒す。親戚は敢えて見ないふりをした。友人の王方翼が嘆いて言った。
「欒布が彭越の為に哭したのは、義だ。文王が枯骨を埋葬したのは仁だ。下は義を失わず、上は仁を失わない。なんと良いことではないか。」
 そして、これを収めて埋葬した。
 上はこれを聞いたが、罰しなかった。
 方翼は、廃皇后の従祖兄である。
 長孫銓の配流先の県令は、権力者の好感を買おうと、彼を杖殺した。 

  

 七月、高州の長孫恩、象州の柳爽、振州の韓爰等を枷鎖で京師へ連行させる為に、御史を各々の地方へ行かせ、州県にはその家を簿録させた。恩は、無忌の族弟である。
 壬寅、李勣、許敬宗、辛茂将と任雅相、盧承慶へ無忌の事件を再度取り調べさせた。
 許敬宗は、中書舎人袁公瑜等を黔州へ派遣して再び無忌の反状を設問させ、遂に無忌へ迫って首吊り自殺させた。柳爽と韓爰は在所にて斬罪とするよう詔が降りる。使者は柳爽を象州で殺した。韓爰は既に死んでいたので、死体を暴いて検分し、還った。三家を没収し、近親は皆嶺南へ流して奴婢とする。
 常州刺史長孫祥は無忌と書を交わしていた罪により、在所で絞殺された。長孫恩は檀州へ流す。
 長孫氏、柳氏で無忌や爽との縁で貶降された者は十三人。高履行は永州刺史へ貶された。
 于士寧は栄州刺史へ貶され、于氏で貶された者は九人。これ以来、政治の実権は中宮へ移った。 

  

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