刑罰
 
 垂拱四年(688)四月戊戌。太子通事舎人赤(「赤/里」)象賢を殺した。象賢は處俊の孫である。
 初め、太后は處俊へ含むところがあった。やがて象賢の奴隷が彼の造反を誣告すると、太后は周興へこれを詮議させ、象賢の一族全てを誅殺とした。
 象賢の家人は朝堂を詣で、監察御史の任玄殖へ冤罪を訴えた。だが、玄殖が象賢の無実を上表すると、彼まで罷免された。
 象賢は、刑に臨んで口を極めて太后を罵り、宮中の秘事を次々と暴露した。そして市人から柴を奪うと、看守へ撃ち掛かったので、金吾の兵卒が皆でこれを殺した。太后は、死体をバラバラにし、その父祖の墳墓を暴いて棺桶を壊し屍を焼かせた。
 これ以来、太后の御代の終わりまで、法官は処刑のたびに、まず木丸で囚人の口を塞ぐようになった。 

 永昌元年(689)、右衞冑曹参軍陳子昴が上疏した。
「周では成王、康王が、漢では文帝、景帝が称賛されていますのは、刑罰を緩くしたからでございます。今、陛下の政治は善を尽くしてはおりますので、朝廷は泰平、上も下も教化されて楽しんでおり、乱臣賊子が出ても日を置かずに天誅が下されます。それなのに、この時期に大獄が増え続け、逆徒として処刑される者がますます多くなっています。頑迷な愚臣達は、『彼等は皆有罪だ』と言っておりますが、先月の十五日に陛下が囚人の李珍等の無罪を看破された時、百僚は悦び慶い、皆、聖明を祝賀しました。ですから臣は、疏網に引っかかっている無罪の者もいると知ったのです。寛大な心を広めるのが陛下の務めです。しかし獄吏は刑罰を厳しく行う事に務め、陛下の仁を傷つけて泰平の政治を破っております。臣はこれを密かに恨んでいるのです。又、九月二十一日に楚金等の死を赦免すると敕がおりました。この日、初めは風雨でしたのに、この敕が降りた途端、晴れ上がりました。臣は、『刑は陰惨で徳は陽舒』と聞いております。聖人は天を手本とし、天は聖人を助けます。天の意向がこのようですから、陛下はどうしてこれに従わずにおられましょうか!今、また陰雨が続いています。臣は獄官に過があるのではないかと恐れるのです。およそ囚人を牢へ繋ぐのは、多くは極刑の結果ですから、道行く人々でさえ話題にして、あの『繋獄は正しい』だの、『あの繋獄は誤りだ』などと議論しています。それなのにどうして陛下は、囚人を引き出して自ら詰問なさらないのですか!その罪が事実でしたら刑罰が正しいことを顕示できますし、無罪の者でしたら獄吏を厳重に懲らしめられます。そうすれば天下を感服させられますし、人々は政刑を思い知ります。これこそ至徳克明ではありませんか!」 

 天授元年(庚寅、690年)十月、道州刺史李行褒兄弟が、酷吏に陥れられ一族誅殺に相当したが、秋官郎中徐有功が固く争ったので、実行されなかった。秋官侍郎周興は、有功が囚人に肩入れしたので斬罪に相当すると上奏した。太后は許さなかったが、有功も免官とした。しかし、太后は有功の人格を重んじていたので、やがて侍御史に再登庸した。だが、有功は地面にはいつくばり、涙を流して固辞した。
「『鹿が山林を駆ければ、厨房にて命を落とす。それは、彼の置かれた情勢がそうさせるのだ。』と臣は聞きます。陛下が臣を法官に任用されますと、臣は陛下の法を曲げずにはいられません。臣がこの官に就きますと、必ず死んでしまいます。」
 太后は、固く命じて、遂に任官させた。遠近の人々は、有功の就任を聞いて相賀した。 

 二年正月、御史中丞知大夫事李嗣眞は、酷吏がのさばっているので上疏した。その大意は、
「今、告事が紛紜としておりますが、その内容は虚偽ばかりで真実はわずかです。これは、凶悪な人間が陛下へ、君臣を離間させようとの陰謀をしかけているのではないかと恐れます。昔は、裁判の判決には公卿が参聴しましたし、王は必ず三度宥め、その後に刑を行ったものです。しかし最近では、獄官が一人で使を奉じて裁断を下しますと、法家はこれに同調し、再審させません。あるいは、独断にて決定して聞奏しないことさえあります。このようであれば、権は臣下から出ますし、審判を慎むとゆう原理にも反します。たまたま冤罪や濫発があっても、どうやって知れるでしょうか!ましてや九品の官が推覆を専命し殺生の柄を操り人主の威を盗んでおります。按覆は既に秋官の手から放れ、省審も門下省を経由しておりません。国の利器を軽々しく人に貸し与えるのは、社稷の禍になることを恐れます。」
 太后は聞かなかった。 

 八月庚申、玉今衞大将軍張虔勗を殺す。
 来俊臣が虔勗の罪状を取り調べた時、虔勗は自ら徐有功へ訴えた。俊臣は怒り、衞士へ虔勗をなます切りにさせて首を市へ曝した。 

 九月乙亥、岐州刺史雲弘嗣を殺す。
 来俊臣がこれを取り調べたが、彼は一言も問わずに、まず首を斬り偽の自白書をでっち上げた。張虔勗を殺した時も同様だった。敕旨はこれを是認し、海内は口を閉ざした。 

 鸞台侍郎、同平章事傅遊藝が夢で湛露殿へ登った。これを親しい者へ語ったところ、告発されてしまった。
 九月壬辰、遊藝は獄へ落とされ、自殺した。 

 十一月壬辰、鸞台侍郎・同平章事楽思晦と右衞将軍李安静を殺す。安静は綱の孫である。
 太后が革命を起こそうとした時、王公百官は皆上表して勧めたのに、安静一人顔色を変えてこれを拒んだ。それによって投獄されたが、来俊臣が反状を詰ると、安静は言った。
「我は唐家の老臣、殺さば殺せ!だが、謀反と言われても、身に覚えはない。」
 俊臣はついにこれを殺した。 

  長寿元年(692年)正月、同平章事任知古、狄仁傑、裴行本、司禮卿崔宣禮、前の文昌左丞盧献、御史中丞魏元忠、路(「水/路」)州刺史李嗣眞が造反を謀ったと、左台中丞来俊臣が告発した。
 これ以前に、来俊臣の請願により、造反をすぐに認めた者は死一等を減じるとゆう敕が降りていた。知古等が投獄されると、俊臣はこの敕を盾に自白を誘った。すると、仁傑は言った。
「大周の革命により、唐室の旧臣は甘んじて誅殺を受けた。造反は事実だ!」
 俊臣は、少し厳しさを緩めた。
 判官王徳壽が仁傑へ言った。
「尚書は多分死刑を免れます。徳壽は捕縛を生業としているのですが、もう少し出世がしたいのです。尚書、楊執柔を引き込んでくださいませんかね?」
 仁傑は言った。
「天はこんな事をさせる為に仁傑を生んだのか!」
 そして、柱へ頭を打ちつけた。顔面が血潮で染まる。徳壽は懼れて謝った。
 侯思止は魏元忠を尋問した。元忠は堂々とした態度で屈服しない。思止は怒り、部下へ引きずり倒させた。元忠は言った。
「我が不運は、まるで驢馬から落ちたようなものだ。足が鐙に引っかかり、曳かれて行くだけ。」
 思止はいよいよ怒り、更にこれを曳かせた。元忠は言った。
「侯思止、お前がもし魏元忠の頭を必要ならば、サッサと取って行けばいいのだ。何で謀反を自白させる必要があるのだ!」
 狄仁傑が謀反を自白すると、役人達は刑を執行するまで警備がおろそかになった。仁傑は衾帛を裂いて冤状を書き、これを綿衣の中へ入れて王徳壽へ言った。
「今は暑い季節だ。この綿を家人へ持って帰らせてくれ。」
 徳壽が許諾したので、仁傑の子の光遠が書を入手できた。彼はそれを持って変事を告げ、謁見できた。その書を読んだ太后が俊臣を詰問すると、俊臣は言った。
「仁傑等を投獄した時、彼はその巾帯を身につけていませんでした。家族の捏造です。尋問は緩やかなもの。事実でなければ、なんで自白しましょうか!」
 太后は、通事舎人周林(「糸/林」)へ様子を見に行かせた。俊臣は巾帯を西側に並べて仁傑等の巾帯だと偽ったが、林はそっぽを向いて行き過ぎた。俊臣は又、仁傑等が「謝死表」を書いたと言って、これを周林へ渡して上奏させた。
 楽思晦の十歳にも満足りない息子が、司農省の官奴となっていたが、謁見を求めて許諾された。太后が有様を聞くと、彼は言った。
「臣の父は既に死に、臣の家はもう破れています。ただ、陛下の法が俊臣等から弄ばれているのを惜しむのです。陛下が臣の言葉を信じないのなら、忠清で陛下が普段から信任している朝臣を選んで、彼が造反したとゆう密告状を造って俊臣へ渡してください。誰であろうとも、必ず自白してしまいます。」
 太后はようやく悟り始め、仁傑等を召し出すと、問うた。
「卿はどうして謀反したのか?」
 対して言った。
「承認しなければ、拷問で殺されたでしょう。」
「どうして『謝死表』など書いたのだ?」
「そんなもの、書いていません。」
 そこで表を出して見せ、これが偽物だと判明した。ここにおいて、この七族を出獄させる。
 庚午、知古を江夏令、仁傑を彭澤令、宣禮を夷陵令、元忠をバイ陵令、献を西郷禮へ左遷し、行本と嗣眞を禮南へ流す。
 俊臣と武承嗣等は、彼等を誅殺するよう固く請うたが、太后は許さない。すると俊臣は、行本は罪状がとても重いので、彼だけは誅殺するよう請うた。秋官郎中徐有功は、これへ対して判じた。
「明主が更生の恩を与えたのに、俊臣はこれを素直に遂行しない。恩信を汚し損なう行いだ。」
 殿中侍御史の貴郷の霍献可は、宣禮の甥である。彼は太后へ言った。
「陛下が崔宣禮を殺さなければ、臣はここにて命を捨てて見せます。」
 そして頭を階段へ打ち付けてた。血が流れて地を塗らす。彼はこうやって、人臣が私情に曳かれないことを示したのだが、太后は皆、聞かなかった。
 献可はこれ以来、この時の傷跡をいつも緑帛で覆い、頭を階段へ打ち付けた出来事を誇示した。太后がこれを見て忠義者と思ってくれることを冀ったのである。 

 同月、来俊臣が左衞大将軍泉献誠へ金を求めたが、断られた。そこで謀反と誣て投獄した。乙亥、これを縊り殺す。 

 五月丙寅、天下の屠殺及び魚蝦の捕獲を禁止する。
 江淮が旱で飢饉となったが、民は魚や蝦を捕れなかったので、大勢が餓死した。
 右拾遣張徳は、男児が生まれて三日目に、私的に羊を殺して同僚へ振る舞った。補闕杜粛は、その一つを懐に入れて上表して告発した。翌日、太后は仗を準備して徳へ言った。
「卿に男児が生まれたと聞きます。大変目出度い。」
 徳は拝謝した。
 太后は言った。
「どうやって肉を手に入れたのですか?」
 徳は叩頭して罪に伏した。すると、太后は言った。
「朕は屠殺を禁じたが、吉凶は別です。ただ、卿はこれ以後、客を招くときによく人を選ぶ事ですね。」
 そして、粛の表を見せた。粛は大いに恥じ入った。朝廷の士は、皆がその顔へ唾を吐きつけたいほど蔑んだ。
(生類憐れみの令は、中国にもあったのですね)
 この殺生禁止令は長く続いた。久視元年(700年)鳳閣舎人の全節の崔融が上言した。
「犠牲を料理し、禽獣を罠や狩猟で捕らえるのは聖人の典籍にも記載されております。なくしてはいけません。それに、江南では魚を食べ、河西では肉を食べます。一日として欠かせません。金持ちは今まで通り改めておりませんが、貧者は大変苦労しています。ましてや屠殺を仕事としている貧賤の者は、見せしめのために毎日一人殺していっても、止めさせることはできません。そんなことをしても恐喝の素となるだけで、いたずらに姦欺が増えるだけです。政治を執る者は、月令や礼経に従えば、自然は成長して行き、人々も正しく生きて行くことができるのです。」
 戊午、再び屠殺を解禁し、祭祀用の牲牢を従来通りへ戻した。 

 太后は、垂拱年間以来酷吏を任用していたが、密告が余りに多く、太后も煩わしくなってきた。監察御史の朝邑の厳善思は、直言を敢えて行った。そこで、善思に取り調べさせたところ、虚偽の告発の罪に伏した者が八百五十余人にも及んだ。これによって、でっち上げをする輩は一時逼迫したが、彼等は束になって善思を讒言した。善思は罪に陥ちて驩州へ流された。しかし、後に太后はその無実を知り、再び渾儀監丞に任用した。
 やがて、右補闕の新鄭の朱敬則や侍御史周矩の上疏を太后は大きく取り上げ、刑罰が緩やかになった。その詳細は、「武皇后、長寿元年」に記載する。 

 長安元年(701年)三月、鳳閣侍郎、同平章事張錫が、禁中での会話を知選へ漏洩して数万の収賄をしたとして有罪になった。法に照らせば斬罪だったが、刑場にて赦され、循州へ流された。
 この時、蘇味道もまた、錫と共に裁判を受けていた。ただ、錫は外出時に馬に乗り、ちっとも悪びれず、三品院に住んで、居住や食事もいつも通りだった。それに対して味道は、どこへ行くにも徒歩で、地べたに坐って粗食を食べていた。太后はこれを聞き、味道は赦して元の地位とした。 

 二年十一月辛未、監察御史魏靖が上疏した。その大意は、
「陛下は既に来俊臣の姦悪を知り、処刑しました。どうか、俊臣等が裁いた大獄に関しては、審議をやり直して、冤罪を晴らしてください。」
 太后は監察御史蘇延(「延/頁」)へ俊臣等の裁決の再審議を命じた。これによって、大勢の者が冤罪を雪げた。 

 夏官侍郎、同鳳閣鸞台三品李迥秀は収賄の常習者。監察御史馬懐素が、これを弾劾した。
 四年二月癸亥、迥秀を盧州刺史へ降格する。 

 鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台三品蘇味道が父親を埋葬する為に故郷へ帰る時、州県の官吏は葬儀を手伝うよう制が降りた。味道はこれを楯にとって郷人の墓や田を奪い、官吏達を無節操に酷使した。監察御史蕭至忠が、これを弾劾する。三月、味道は坊州刺史へ左遷された。
 至忠は引の玄孫である。 

 七月丙午、夏官侍郎、同平章事宗楚客が罪を犯し、原州都督へ左遷され、霊武道行軍大総管となった。
(訳者曰く。罪人が左遷されて行軍大総管となった。多分、誤訳ではないと思います。まともな感性とは、とても思えないのですが。) 

 十月、太后が宰相達へ、員外郎を推薦するよう命じた。
 韋嗣立は、廣武公岑義を推薦し、言った。
「ただ、彼の伯父の長倩は誅殺された人間です。」
 太后は言った。
「才能があれば、そんなことはどうでもよろしい!」
 遂に天官員外郎とした。これ以後、諸々の縁座に触れた者へ、登用の道が開けた。 

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