武三思復帰
 
神龍元年(705)正月癸卯、張易之と昌宗が誅殺された。詳細は、「張易之」へ記載する。
 丙午、中宗が即位する。
 庚戌、張柬之を夏官尚書、同鳳閣鸞台三品、崔玄韋を内史、袁恕己を同鳳閣鸞台三品とし、敬暉も桓彦も納言とする。李多祚へ遼陽郡王の爵位を賜り、王同皎を右千牛将軍、琅邪郡公、李湛を右羽林大将軍、趙国公とし、その他も各々へ褒賞として官位を賜下した。
 二張が誅殺されると、洛州長史薛李昶が、張柬之と敬暉へ言った。
「二凶は除かれたけれども、産、禄(武三思等)はまだ残っている。草を刈っても根を残すと、やがてはまたはびこるぞ。」
 二人は言った。
「大事は既に定まった。奴等は机上の肉に過ぎない。何ができるか!既に大勢を誅殺したのだから、これ以上殺すわけには行かない。」
 李昶は嘆いて言った。
「吾は、どんな末路をたどるやら!」
 朝邑尉の武強の劉幽求も、また、桓彦範と敬暉へ言った。
「武三思が生きている限り、公等は野ざらしにされるぞ。早く図らなければ、埋葬さえされなくなってしまうぞ。」
 従わなかった。
 上の娘の安楽公主は武三思の子息の祟訓へ嫁いでいた。
 上官婉児は、儀の孫娘だが、儀が死ぬと、没収されて官奴にされた。彼女は知恵が回り、文章が巧くて吏事に精通していた。則天武后は彼女を寵愛し、聖暦以後は、百司の表奏の多くへ参決させた。上が即位すると、彼も又、婉児へ制や命を専掌させた。益々これへ委任するようになり、ショウジョへ抜擢し、宮中を任せた。
 三思は婉児と通じ、彼女は武氏の仲間になった。それで婉児は、三思を韋后へ推薦し、禁中へまで引き入れるようになった。
 上は、遂には三思等と共に政事を図議するようになり、張柬之等は、皆、三思に命令されるようになったしまった。
 上は韋后と三思に双陸(双六のような遊戯か?)をさせ、自分は傍らで点数を数えてやる有様。三思は遂に韋后と通姦し、これによって武氏の勢力は、再び振るった。
 張柬之等は、諸武を誅するよう、上へしばしば勧めたが、上は聞かない。
 柬之等は言った。
「武后の革命の際には、宗室の諸李は殆ど殺しつくされましたが、今、天地の霊のおかげで、陛下が正統な地位へ返り咲けました。それなのに、武氏は不相応な高官高爵で、昔通り安閑としています。これがどうして遠近の望みでしょうか!どうか、彼等の禄や位を削り抑え、天下の人々を慰めてください!」
 これも聞かない。
 柬之等は、或いは肘掛けを撫でて嘆息し、あるいは出血するまで指を弾いて言った。
「主上は、昔は英王で、人々は勇烈を称賛していた。我等が諸武を誅しなかったのは、上自らにこれを誅させて天子の威厳を張らせるつもりだったのだ。それが今、却ってこんな事になった。時勢は既に去った。ももうどうしようもない!」
 上は屡々お忍びで武三思の第を訪ねた。監察御史の清河の崔皎が、密疏で諫めた。
「国令が、復したばかりです。則天皇帝はまだ西宮におり、人心はなお慕っております。そして周の旧臣は朝廷にズラリと並ぶ。それなのに、陛下はどうして豫且の禍を察しもしないで軽々しく外遊なさるのですか!」
 上がこれを洩らしたので、三思の仲間達は切歯した。
 丙寅、太子賓客武三思を、司空、同中書門下三品とした。
 丁丑、武三思、武攸既が新しい官爵と政事を固辞したので、これを許して開府儀同三司を加えた。 

 左散騎常侍の焦(「言/焦」)王重福は、上の庶子で、その妃は張易之の姪である。
 韋后はこれを憎み、上へ讒言した。
「重潤が死んだのは、重福のせいです。」
 このせいで、重福は僕(「水/僕」)州員外刺史へ降格したが、すぐに均州刺史へ改め、州司へ監視させた。
 丁卯、右散騎常侍の安定王武攸既(「既/旦」)を司徒、定王とした。 

 四月乙亥、張柬之を中書令とする。 

 張柬之等及び武攸既、武三思、鄭普思等十六人を功績を建てた人間として、鉄券を賜下し、反逆罪でなければ各々十回まで死刑を免除すると約束した。
 癸巳、敬暉等が百官を率いて上表した。その大意は、
「五徳の運は交互に勃興するもので、二つ徳が同時に強大になることはありません。天授革命の際には、唐の宗室は殆ど誅殺されつくされ、武一族と共に封じられた者などいなかったではありませんか!今、天命は改まりました。それなのに、武一族は従来通り封じられ、宗室と共に京師に住んでおります。このような道理は、開闢以来未だありません。どうか陛下、人々の心に従って社稷の為に計り、彼等の王爵を降して内外を安堵させてください。」
 上は許さなかった。
 敬暉等は武三思から讒言されることを畏れ、考功外郎の崔是(「水/是」)をスパイにして彼の動静を伺った。だが、是は上が三思へ親しんで暉等を忌んでいるのを見て、暉等の謀略を悉く三思へ告げ、却って三思の手下になった。三思は彼を引き立てて中書舎人とした。是は、仁師の孫である。
 話は前後するが、殿中侍御史の南皮の鄭音(「心/音」)は、二張へ諂って仕えていた。二張が誅殺されると、宣州司士参軍へ降格されたが、そこで贈賄を問われたので東都へ逃げ帰り、武三思のもとへ私的に会いに行った。
 彼は三思と会うととても哀し気に哭したが、その後大笑いした。三思はもともと彼を買っていたので、非常に怪しんで理由を尋ねた。すると、音は言った。
「大王にあった時に最初に哭したのは、大王が今にも殺戮されて一族も滅ぶかと思って哀しかったからです。後に大笑いしたのは、大王が音を得たことを喜んだからです。大王は、天子の御意を得ておりますが、あの五人は皆将相の権力を持っており、胆略は並外れ。太后の廃立さえ掌を返すように簡単にやってのけた連中です。大王は、御自身で考えて、今の御自分とあの頃の太后とでは、どちらが権勢が重いと思われますか?あの五人は、日夜大王の肉を食らおうと歯ぎしりしており、大王の一族を皆殺しにしなければ気が済まないのです。大王は、この五人を始末しなければ、朝露のように危険です。それなのに、泰山のように安泰であると安閑として居られます。ですから音は大王の為に我が心を震え上がらせているのです。」
 三思は大いに悦んで、彼と共に楼閣へ登り、安泰になるための計略を問うた。そして中書舎人として、崔是と共に参謀とした。
 三思と韋后は、日夜暉等を讒言して言った。
「彼等は功績を恃んで専横に振る舞っております。いずれ社稷の害になります。」
 上はこれを信じ込んだ。そこで三思等は上の為に画策して言った。
「暉等を王に封じて政事をやめさせるのが一番です。上辺は功臣を尊寵している態度を無くしませんし、実際には権力を奪うことができます。」
 上は同意した。
 五月甲午、侍中斉公敬暉を平陽王、桓彦範を扶陽王、中書令漢陽公張柬之を漢陽王、南陽公袁恕己を南陽王、特進、同中書門下三品博陵公崔玄韋を博陵王とし、全員政事をやめさせた。金帛鞍馬を賜下し、朝廷への参内は朔と望の二回のみとする。彦範へは韋氏の姓を賜下し、皇后と同籍とする。ついで玄韋を検校益州長史、知都督事とし、又、梁州刺史へ改める。
 三思は百官を則天武后の頃へ復帰し、武氏へなつかない者は排斥し、五王から追放された者は呼び戻した。こうして大権は全て武三思の元へ帰した。
 五王が武氏の諸王を削るよう誓願した時、上表してくれる人を捜したが、誰も肯らなかった。ただ、中書舎人岑義がこれをやったが、文章はとても過激だった。中書舎人の偃師の畢構がこれを読み上げたが、堂々として言葉も明瞭だった。三思が権力を握ると、義は秘書少監となり、構は潤州刺史へ飛ばされた。
 易州刺史趙履温は桓彦範の妻の兄である。彦範が二張を誅した時、履温もその謀略に関与していたとして、召し出して司農少卿とした。すると履温は、彦範へ二人の婢を送った。今回、彦範が政事をやめると、履温はその婢を奪い返した。
 上は宋景の忠直を嘉し、しばしば進級させて黄門侍郎とした。武三思は、かつてある事件で彼を部下にしたが、景は毅然としてこれを拒んで言った。
「今、太后は既に正統へ返しました。王は侯となって屋敷へ戻るべきです。何でなおも朝政へ干渉なさいますのか!昔の呂産、呂録の事を知らないのですか!」 

 韋安石へ検校中書令を、魏元忠へ検校侍中を兼任させ、李湛を右散騎常侍、趙承恩を光禄卿、楊元炎(「王/炎」)を衞尉卿とした。
 話は前後するが、元炎は三思の権勢が拡大して行くのを知ると、官を棄てて僧となることを請うたが、上は許さなかった。敬暉はそれを聞くと、笑って言った。
「我が早く知っていたなら、上へ許可するようお勧めしたのに。胡頭の坊主頭も面白いではないか!」
 元炎は髭が多く、まるで胡人のようだったので、暉は戯れたのだ。すると元炎は言った。「功成り名を遂げて退かなければ、危うい。だから衷心から請うたのだ。戯れではない。」
 暉はその意を知り、不機嫌になった。
 後、暉等が罪を得るに及んでも、元炎一人だけ免れた。 

 六月癸卯、諸武へ制が降りた。梁王三思は徳静王、定王攸既は楽寿王と県王へ降格し、河内王懿宗等十二人は皆、公爵へ降格となった。人々が厭がったからである。 

 敬暉、桓彦範、袁恕己が京師に居るのが、武三思は気に入らなかった。
 神龍二年、(706)正月乙卯、彼等を滑、洛、豫州刺史として、任地へ下向させる。
 それでも武三思と韋后は、日夜敬暉等を讒言してやまない。
 三月、暉を朗州刺史、崔玄韋を均州刺史、桓彦範を毫州刺史、袁恕己を郢州刺史へ再び左遷する。暉等と共に功績を建てた者は、彼等の一味として降格させられた。
 更に武三思は、”朗州刺史敬暉、毫州刺史韋彦範、襄州刺史張柬之、郢州刺史袁恕己、均州刺史崔玄韋は王同皎と通じて陰謀していた。”と、鄭音へ告発させた。
 六月戊寅、暉を崖州司馬、彦範を瀧州司馬、柬之を新州司馬、恕己を竇州司馬、玄韋を白州司馬へ降格する。全て員外に置き、しかも長任である。その勲封を削る。彦範は、姓を桓氏へ戻す。 

 始め、少府監丞の弘農の宋之問及び弟の?州司倉之遜は、共に張易之へ媚びていたとして嶺南へ飛ばされていたが、東都へ逃げ帰り、友人の光禄卿、フバ都尉王同皎の家へ匿われていた。
 同皎は武三思及び韋后のすることを憎んでおり、これの話をする度に歯ぎしりをしていた。之遜は、簾下でこれを聞き、密かにその子の曇及び甥の校書郎李悛を派遣して三思へ密告し、自分の罪を贖おうとした。
 三思は、”同皎と洛陽の人張仲之、祖延慶、武當丞の壽春の周景(「心/景」)等が密かに壮士と結託して三思を殺し、兵を指揮して闕を詣で皇后を廃立しようとしている、”と、曇、悛及び撫州司倉冉祖擁(本当は、にんべんがない)へ上書にて告発させた。上は御史大夫李承嘉、監察御史姚紹之へ、この事件を調査させた。又、楊再思、李喬、韋巨源へも参与させた。
 仲之は三思の罪状を言い、その事は宮壺まで連なった。再思と巨源は寝たふりをして聞かなかった。喬と紹之は、牢獄へ突き返すよう命じた。仲之は振り返って罵り続ける。紹之はこれを槌で打つよう命じ、その臂を折る。仲之は大声で叫んだ。
「我は既に汝に背いた。死んだら汝を天へ訴えてやる!」
 三月庚戌、同皎等は斬罪となった。家は官籍を剥奪される。
 周景は比干廟の中へ逃げ込んで、大声で言った。
「比干は古の忠臣。我はその心を知っている。三思と皇后は淫乱で国家を傾ける。いずれは都市で梟首されるだろうが、それを見れないのが悔しい!」
 遂に自剄した。
 之問、之遜、曇、悛、祖擁は皆京官へ登用され、朝散大夫を加えられた。 

 四月、處士の韋月将が”武三思が密かに皇后と姦通しているので、必ず乱を起こす”と上書した。上は激怒して、これを斬るよう命じた。
 黄門侍郎宋景が事実を確認するよう請うたが、上は益々怒り、巾を乱したまま靴を履いて側門から出てきて景へ言った。
「朕は既に斬れと言ったのだ。それ以上何をするのか!」
 そして、すぐに斬るよう命じた。
 景は言った。
「宮中が三思と私通したと言う者がいたのに、陛下は事実を確認もしないで告発者を斬る。これでは人々があらぬ噂を流すのではないかと、恐れるのです。」
 取り調べることを固く請うたが、上は許さない。景は言った。
「どうしても月将を斬るのなら、まず臣を先に斬ってください!そうでなければ、臣はこの詔を奉じられません。」
 上の怒りは、少し解けた。
 左御史大夫蘇向(「王/向」)、給事中徐堅、大理卿の長安の尹思貞は皆、今は夏だから斬罪に処する時期ではないと言った。そこで上は、月将を杖打ちにして嶺南へ流した。
 秋分の日を一日過ぎて、廣州都督周仁軌が月将を斬った。 

 同月、武三思は宋景を憎み、検校貝州刺史として下向させた。 

 武三思は皇后との醜聞をひそかに広めさせ、天津橋へ立て看板を立てさせて、上へ裁断を仰いだ。上は激怒して、御史大夫李承嘉へその事件を究明させる。承嘉は上奏した。
「敬暉、韋彦範、張柬之、袁恕己、崔玄韋の五人が人へ命じてやらせたことです。これは皇后を廃立する為の行いですが、実に大逆を謀ったといえます。どうか一族を誅殺してください。」
 三思は又、安楽公主へ内で讒言を広めさせ、侍御史鄭音へは外で吹聴させた。
 上は、法司へ徹底糾明を命じた。大理丞の三原の李朝隠が上奏した。
「暉等のしわざとゆう証拠がありません。たやすく一族誅殺してはいけません。」
 大理丞裴談が上奏した。
「暉等へは制書を下して斬罪に処し、官籍を没収するべきです。これ以上吟味することはありません。」
 上は、暉等へはかつて鉄券を賜下して殺さないことを約束していたので、流罪とした。暉は瓊州、彦範は襄(「水/襄」)州、柬之は瀧州、恕己は環州、玄韋は古州へ遠流とする。子弟も十六歳以上は全て嶺外へ流す。
 承嘉は金紫光禄大夫として爵位を襄武郡公へ進める。談は刑部尚書とする。李朝隠は聞喜令へ出向させる。
 三思はまた、太子へ風諭して、暉等の三族を皆殺しとするよう請願させた。上は許さなかった。
 中書舎人崔是が三思へ説いた。
「後に暉等が帰ってきたら、ついには後患となります。制を矯めて、使者を派遣して殺してしまうべきです。」
 三思が、誰を使者にすればよいか尋ねると、是は大理正周利用を推薦した。利用は、以前、五王から憎まれ、嘉州刺史へ降格された男である。そこで、利用を摂右台侍御史として、嶺外へ派遣した。
 到着すると、柬之と玄韋は既に死んでいた。彦範とは貴州で出会った。そこで左右へこれを縛らせ、植え込んだ竹の上を引っ張り回した。肉は引き裂かれて、骨まで顕わになる。その後、杖で打ち殺した。暉へ会うと、すぐに殺した。恕己は普段から黄金を服用していた。利用は、これへ力尽くで野葛の汁を飲ませた。(黄金を服用すると、毒に強くなると言われている。野葛の汁は猛毒)数升飲ませたが、死なない。しかし、毒のせいで地面に倒れて、爪も皆、無くなってしまった。その後、これを撲殺した。
 利用は都へ帰ると御史中丞を拝受した。
 薛李昶は数度の降格で州司馬となり、服毒自殺した。
 三思は五王を殺してしまうと、その権勢は人主をも傾けた。彼はいつも言っていた。
「どんな人間を善人と言い、悪人というのか、我は知らん。ただ、我が善いと思った相手は善人で、悪いと思った奴は悪人だ。」
 この頃、兵部尚書宗楚客、将作大匠宗晋卿、太府卿紀處訥、鴻臚卿甘元柬羅は皆、三思の羽翼となった。御史中丞周利用、侍御史冉祖擁、太僕丞李俊、光禄丞宋之遜、監察御史姚紹之等は皆、三思の耳目となった。人々は、彼等を”五狗”と呼んだ。 

 景龍元年(707)七月、太子が造反して武三思を殺した。詳細は、「太子の乱」に記載する。 

王陽明曰く(「読通鑑論」より)
 狄仁傑と、張柬之とは、皆、古の大臣の貞節があった。だから志が通い合い、信じあったのである。(狄仁傑は、張柬之を強く宰相に推した。「則天武后その九」参照)
 中宗が再び即位した当初、薛李昶が言った。
「二凶は除かれたけれども、産、禄(武三思等)はまだ残っている。草を刈っても根を残すと、やがてはまたはびこるぞ。」
 しかしながら張柬之は諸武を誅殺せず、上みずからへ彼等を誅殺させて、天子の威厳を張ろうと欲した。その言葉を以てその心情を推し量るに、張柬之の想いは深く、礼には謹みがる。彼は、自身の功名を薄しとし、一王の綱紀を正したかったのだ。
 節義正しい人間の拠り所は、自身の功績ばかりを求める人間達とは遠く離れている。中宗は、共に功績を為すことのできるような相手ではなかったが、それでも張柬之は自身の安泰を測ろうとしなかった。それは、彼が暗愚だからではないのだ。
 趙汝愚は言った。「社稷に霊があるならば、このような患いが起こるはずがない。」と。
 臣下となったら、為すべき事だけを行い、臣下としての節義を謹んで守るもので、天子と威福の柄を争うものではない。事業が失敗するのなら、それは社稷の不幸なのだ。一身の栄辱生死など、何で憂えようか。
 それに、中宗の淫乱混迷がここまで甚だしくなかったならば、どうだっただろうか?中宗は既に良い年だったのだし、即位もした。既に二張を殺しているのだし、諸武を誅殺しようと想えば、王鉞はその手にあったのだ。ただ好きなように処刑すればよいので、他人の命令を待つ必要がない。このような状況なのだから、貞淑な思いで主君に仕える者がビクビク暮らしたりするものか。薛李昶のように利害しか念頭に持たない人間の測り知れるものではないのだ。
 劉幽求は、「武三思が生きている限り、公等は野ざらしにされるぞ。早く図らなければ、埋葬さえされなくなってしまうぞ。」と言ったが、彼はどんな功績を建てて墓地の心配などしているのだろうか。
漢代に絳侯が諸呂を誅殺した時は、文帝はまだ地方におり、朝廷には劉氏は一人も居なかった。中宗が朝廷の中央に坐っているのとは訳が違う。だが、そのような状況であってさえ、絳侯は吏から尋問を受けることを免れず、一身をも失おうとした。もしも中宗が諸武を保とうと想っているのに張柬之が広く誅戮を行ったなら、どうして勲功や名誉を保てただろうか。なぜなら、中宗の淫乱混迷は実に甚だしいのだから。事実、その後、武三思が誅に伏した時、下手人である太子を謀反人として、その首を裂いて宗廟へ献上したではないか。(「太子の乱」参照)
 武三思がいなくなってしまっても、宗楚客が権力を握って唐を掻き乱し、相王まで殺されようとした。そう、諸武が誅殺されてしまっても、五王は走狗の煮を免れはしなかったのだ。どうせ免れないのに、臣節に背いて大難を蒙るのでは、その方が心のやましさは大きいではないか。
 論者は李昶や幽求の言葉が用いられなかったことを惜しみ、張柬之が愚かだと笑う。しかし、愚かなのはどっちだ?最初に禍福を謀る者は、貞士の心を持つ者に遠く及ばない。
 唐代は有能な士は多かったが、節義正しい士は少なかった。ただ、張柬之のみ見るべきものがある。それこそが、彼と狄仁傑とが感応し合った所以である。 

元へ戻る