魏、燕を伐つ   慕容垂、卒す。

 亀裂

 魏王の拓跋珪は、密かに後燕攻略を思い描いていた。
 晋の武帝の太元十三年、拓跋珪は、九原公の拓跋儀を中山へ使者として派遣した。
 慕容垂はこれを詰って言った。
「魏王は、どうして自身で来なかったのだ?」
 儀は答えた。
「先王と燕は、共に晋朝廷へ仕えた身の上。代々兄弟のようなものでした。(拓跋力微と慕容渉帰が、共に晋の朝臣として、その地位が同列だったことを指す。)今、臣下を使者として派遣するのは、筋道が通っております。」
「昔は昔、今は今。我が威光は四海を覆っているのだ。昔日と同様に考えられるか!」
「もしも燕が徳や礼を修められずに、ただ武力を誇りたいのでしたら、それは武臣の出番。臣の職務ではございません。」
 帰国して、儀は拓跋珪へ言った。
「燕王は老いました。太子は闇弱。范陽王(慕容徳)は自身の才気に驕っており、とても幼帝の手に負えますまい。燕主が没したら、必ずや内乱が起こります。その時こそ決起するべき。今暫くはご忍従を。」
 拓跋珪は、その言葉を嘉した。
 なお、拓跋儀は、拓跋翰(拓跋珪の叔父)の息子である。

 十六年、正月。賀染干が、兄の賀訥を殺そうと謀った。これを知った賀訥は挙兵し、互いに攻め合った。
 魏王珪は、これを後燕へ告げ、郷導となることを申し出た。
 二月、慕容垂と慕容麟は賀訥を攻撃し、燕の鎮北将軍蘭汗は龍城の兵を率いて賀染干を攻撃した。
 四月、蘭汗は、賀染干の軍を撃破した。
 六月、慕容麟が賀訥軍を破り、賀訥を捕らえた。賀訥の部落数万が、燕へ降伏した。
 慕容垂は、賀訥の部落を慕容麟へ与え、賀染干は中山へ移住させた。
 帰国した後、慕容麟は慕容垂へ言った。
「拓跋珪の挙動を見ますに、いずれ我等の国患となりそうです。奴目をここへ連れてきて、奴の弟に魏の国政を預けてはどうですか?」
 慕容垂は従わなかった。

 国交断絶

 七月、魏王珪は、弟の觚を燕へ派遣した。
 この時、慕容垂は老衰しており、国事は子弟が行っていたが、彼等は拓跋觚を都へ抑留し、名馬を求めた。しかし、拓跋珪はこれを与えず、燕と国交を断絶した。そして、張こんを使者として西燕へ派遣し、これと好を通じた。
 拓跋觚は脱出したが、燕の太子慕容寶が追いかけて捕らえ、連れ戻した。慕容垂は、以前同様、拓跋觚をもてなした。
 二十年、魏王珪は、後燕に造反し、辺域の諸部を侵略した。
 慕容垂は、慕容寶、慕容農、慕容麟へ八万の兵を与えて五原から出撃させ、慕容徳、慕容紹へ一万八千の兵を与えて後続とした。
 散騎常侍の高湖が諫めた。
「魏と燕は、代々の姻戚です。彼等に内乱が起こった時も、我等は平定してやりました。我等が施した徳は厚く、長い間友好を保っていたのです。今回、彼等は我が国へ攻め込みましたが、もとを糺せば、我々が名馬欲しさに彼の弟を抑留したのではありませんか。非は我等にあります。それなのに、どうして兵を挙げて攻撃なさるのですか!
 拓跋渉圭(渉圭は、珪の字)は、沈勇にして、知略深い人間。幼い頃から艱難を乗り越え、その兵は精鋭、軍馬は強力。軽々しくは見れません。
 それに対して我等が太子は、血気盛んな年齢で、戦意ばかりが先走っております。今、太子へ全権を委任しましたが、そうなれば太子は魏を弱小国と侮り、軽々しく動きます。それで万が一不覚をとれば、太子の威名に傷が付きます。どうか陛下、ここを深くお考え下さい!」
 その言葉は激切だったが、慕容垂は聞かなかったばかりか、激怒して、高湖を罷免した。高湖は、高泰の息子である。

 参合陂の戦

 七月、燕軍の来寇を聞き、張こんが魏王珪へ言った。
「燕軍は滑台、長子の戦勝で増長しています。それに総軍を挙げて来襲しておりますので、我々を侮っております。ここは弱軍に見せかけて、奴等の慢心を煽り立てましょう。」
 珪はこれに従い、部落の畜産は全て千余里程西方へ疎開させた。
 燕軍が五原まで来ると、魏の別部三万余家が降伏してきた。ここで、燕軍は百余万斗の穀物を収穫し、これを黒城へ運び込んだ。そして河に沿って進軍し、渡河の為の軍船を製造した。拓跋珪は右司馬の許謙を後秦へ派遣し、援軍を乞うた。
 八月、魏王珪は河南へ軍を集め、河まで進軍した。
 燕の太子慕容寶が渡河へ取りかかったが、その時暴風が起こり、数十艘の舟が南岸まで流された。魏は甲士三百余人を捕らえたが、皆、釈放して燕軍へ帰させた。
 さて、慕容寶が中山を出発した時、慕容垂は既に病気だった。燕軍が五原まで来ると、拓跋珪は五原から中山までの経路に密かに兵士を出し、中山からの使者を悉く捕らえさせた。こうして、慕容寶は、数ヶ月にわたって父の病状を知ることができなかった。
 その時になって、慕容垂は捕らえた使者を河まで連れ出して叫ばせた。
「お前の父は既に病死したぞ!どうして、早く帰らないのだ!」
 慕容寶等は憂恐し、士卒の心は動揺した。
 拓跋珪は、陳留公虔に五万の兵を与えて河東へ布陣させた。東平公儀に十万の兵を与えて河北へ布陣させた。略陽公遵に七万の兵を与えて燕軍の南への進路を塞がせた。後秦の姚興は楊仏祟を援軍として派遣した。
 燕の術士の革安が、慕容寶へ言った。
「天の時がありません。我が軍は必ず大敗します。速やかに撤退するべきです。」
 しかし、慕容寶は聞かなかった。
 退出した後、革安は知人へ言った。
「我等の屍が、野を覆うことになる。我等は帰国さえできまい!」
 燕と魏は数旬にわたって睨み合った。
 その間、燕軍では、慕容垂死去の噂が乱れ飛んでいた。慕容麟麾下の将軍慕輿祟が、その噂を信じ込み、慕容麟を奉じて造反しようと謀った。だが、その謀略が洩れ、慕輿祟等は罰された。これ以来、慕容寶と慕容麟は、互いに猜疑し合うようになった。
 十月、魏の奇襲隊が、燕軍の舟を焼き払って逃げた。この時、まだ河は凍り付いていなかったので、敵は渡河できないと多寡を括った慕容寶が、斥候を怠っていたのだ。
 十一月、暴風が起こり、黄河が凍り付いた。拓跋珪は兵を率いて河を渡った。そして輜重を留めると、精鋭二万余騎を選りすぐって急行した。
 燕軍は、参合陂にて大風に遭った。黒雲が堤のように盛り上がって軍の上方を覆っている。
 沙門の支曇猛が慕容寶へ言った。
「雲気が荒れ狂っております。これは魏軍が来襲する兆候。どうか防御をお固め下さい。」
 だが、慕容寶は既に魏軍から遠く離れていると思っていたので、一笑に付してしまった。それでも支曇猛が固く請うたので、慕容麟が怒って言った。
「殿下の神武を以て、この大軍を率いているのだ。沙漠だって渡りきって見せよう。索虜如きが、どうして来寇できようか!支曇猛は妖言を吐いて衆心を惑わしている!斬り殺せ!」
 支曇猛は涙を零して言った。
「苻氏は百万の大軍を率いながら、淮南で不覚をとったのです。それは大軍に驕って敵を軽んじ、天道を信じなかったせいではありませんか!」
 司徒の慕容徳は、支曇猛の言葉に従うよう、慕容寶へ勧めた。そこで、慕容寶は慕容麟へ三万の兵を与えて軍の後方へ移動させ、非常に備えるよう命じた。だが、慕容麟は、支曇猛の言葉を妄言と決めつけ、警備もしないで狩猟に耽った。
 魏軍は、参合陂まで昼夜兼行した。そして、乙酉の暮れ、参合陂の西へ到着した。この時、燕軍は参合陂の東に屯営していた。魏王珪は、夜半、兵卒を率い、馬には枚を加えさせて密かに進行した。
 翌朝、魏軍は登山し、燕の陣営を見下ろしていた。燕軍が東進しようとした時、敵に気がつき、大混乱に陥った。珪は総攻撃を掛け、燕軍は壊走した。河まで逃げても逃げ足は止まらず、燕の兵卒達は、後続に押し出されて、次々と河へ落ちて行った。そして、一万を越える兵卒が溺死した。
 略陽遵が燕軍の前方へ回り込んで行く手を遮ると、燕の兵卒達は次々と武器を放り出した。降伏した兵卒は四・五万人。逃げ延びた兵卒は、僅か数千人に過ぎなかった。慕容寶等は、皆、単騎でどうにか逃げ延びた。
 この戦いで、魏軍は、燕の右僕射陳留悼王紹を殺し、魯陽王倭奴、桂林王道成、済陰公尹国等文武の将吏数千人を捕らえた。そして、巨万の兵甲糧貨を略奪した。なお、道成は、慕容垂の甥である。
 魏王珪は、これらの捕虜の中から、代郡太守の賈閠、驃騎長史で昌黎太守の賈彜、太史郎の晁祟等、有能な者を選び、他は全て釈放しようとした。これは州の人々の人心を掴む為である。だが、中部大人の王建が言った。
「燕は強国。それが、国を傾けるほどの大軍で来寇しましたが、我等は幸いにも勝つことができました。この際、捕虜にした連中は皆殺しとするべきです。そうすれば、燕にはろくな人間は残らず、簡単に滅ぼすことができます。それに、せっかく捕らえた捕虜を釈放するなど、我慢できません!」
 遂に、彼等を悉く穴埋めとした。
 十二月、魏王珪は雲中の盛楽へ帰った。

 慕容垂、卒す。

 慕容寶は、参合陂の大敗を恥じ、再度の出兵を乞うた。すると、司徒の慕容徳が慕容垂へ言った。
「虜敵は、今回の大勝で、我等が太子を軽く見たに違いありません。ここは、陛下の神略にて服従させなければなりません。そうでなければ、後々の患いとなります。」
 慕容垂は、燕の要所要所へ信頼できる人間を配置し、龍城を鎮守していた高陽王慕容隆と、薊城を鎮守していた長楽公慕容盛を彼等の軍ごと中山へ召還した。翌年を期して、魏へ大挙して押し寄せる為である。
 二十一年、正月。慕容隆軍が中山へ入城した。その大軍の威容に、燕軍の志気はやや盛り返した。
 慕容垂は、征東将軍平規を冀州へ派遣し、兵卒を徴発させた。だが、二月、平規は、博陵・武邑・長楽三郡の兵を率いて造反した。時の冀州刺史の平喜は、平規の従子だった。彼は平規を諫めたが、平規は聞かない。平規の弟の海陽令翰も又、これに呼応して遼西にて起兵した。
 慕容垂は、鎮東将軍餘祟を派遣してこれを攻撃させたが、撃退され、餘祟は戦死した。そこで、慕容垂自らが兵を率いて平規討伐に乗り出した。
 慕容垂軍が魯口まで進軍すると、平規は軍を棄て、妻子や平喜等数十人と共に逃げ出して河を越えた。それで、慕容垂は引き返した。
 平翰は、兵を率いて龍城を攻撃した。慕容隆の代わりに龍城を守っていた清河公會は、東陽公根等に、これを迎撃させた。平翰軍は敗北し、山南へ逃げた。
 三月、范陽王慕容徳に中山を守らせて、慕容垂は密かに出陣した。この軍は、青嶺、天門のルートで進む。山を穿って道を造り、魏軍の不意を衝いて雲中目指して直進した。
 魏の陳留公虔が、三万余家の部落を率いて平城を鎮守していた。慕容垂は猟嶺へ出ると、慕容農と慕容隆を先鋒にして、これを襲撃させた。この時、燕軍は大敗したばかりだったので、兵卒達は魏軍を懼れていたが、龍城の兵卒だけは戦意旺盛で、先を争って出撃したのだ。
 拓跋虔は、もともと警備をしていなかった。閏月、燕軍は平城まで進軍した。拓跋虔はこれに気がつき、部下を率いて迎え撃ち、戦死した。燕軍は、彼の部落を全て収容した。
 この報告を聞いて、拓跋珪は怖じ気づき、逃げだそうとしたが、拓跋虔の戦死を聞いた諸部は、皆、造反を考え始めたので、どこに逃げて良いか判らない状態だった。
 燕軍は更に進んで、参合陂へ至った。ここには、積み上げられたが遺骨が、まるで山のようだった。燕軍は祭壇を設けてこれを弔った。
 慟哭する兵卒達の声が、山谷を震わせた。慕容垂は憤怒と慚愧が極まって吐血した。そして、これがもとで病気となった。そこで、彼は馬輿に乗って退却し、平城から西北三十里の場所で屯営した。連絡を受け、慕容寶等も、皆、引き返した。
 燕軍の造反者が、この事件を魏へ告げた。
「慕容垂は死にました。その屍は、輿に載せて陣中にあります。」
 拓跋珪は追撃を掛けようとしたが、平城が既に陥落したと聞き、陰山まで引き返した。
 慕容垂は、十日間、平城へ逗留したが、病状は益々悪化していった。そして四月、上谷の沮陽にて卒した。享年、七十一。燕軍は、その喪を秘して、公表しなかった。

 慕容寶、即位(付、後段氏受難)
 燕軍は、中山へ到着してから、ようやく慕容垂の喪を発した。諡は成武皇帝。廟号は成祖。
 太子の慕容寶が即位した。大赦を下し、「永康」と改元する。
 五月、范陽王慕容徳を、都督冀・?・青・徐・荊・豫六州諸軍事、車騎大将軍、冀州牧に任命し、業を鎮守させた。遼西王慕容農を都督へい・よう・益・梁・秦・涼六州諸軍事、へい州牧に任命し、晋陽を鎮守させた。
 その他の人事は、安定王庫辱官偉が太師、夫餘王尉が太傅。趙王慕容麟は左僕射、高陽王慕容隆が右僕射、長楽公慕容盛は司隷校尉、宜都王慕容鳳が冀州太守となった。

 さて、慕容垂の皇后の先段后は、慕容令と慕容寶を産んだ。後段后は、朗、鑑を産み、寵愛された諸姫は、麟・農・隆・柔・煕を産んだ。
 慕容寶は、太子になった当初こそ賞賛されていたが、次第に生活が荒廃し、中外から失望されてしまった。
 後段后は、かつて慕容垂へ言った。
「太子は、太平の世に生まれたならば、守成の主となれたでしょう。しかし、今は国家多難の時期。これを乗り切るだけの才覚はありません。遼西、高陽の二王は、優秀なご子息です。どうか、どちらかを世継ぎとなさって下さい。そして、趙王の麟は性根が腐りきっています。後々、必ず国家の患となりましょう。どうか、早めに処分なさって下さい。」
 すると、慕容垂は段氏へ言った。
「お前は、吾を晋の献公にするつもりか!」
 慕容寶は、慕容垂の左右の臣下達へはこまめに気を遣っていたので、側近達は皆、慕容寶を褒めていた。だから、慕容垂は彼を賢人と思っていたのだ。
 段氏は、泣き濡れて退出すると、妹(范陽王妃)へ言った。
「太子の不才は、天下の人々が知っています。吾は社稷の為に言ったのに、主上は私を驪姫と罵られた。何でここまで馬鹿にされなければならないの!見てらっしゃい!そのうち、太子はこの国を滅ぼすに決まってますから!ただ、范陽王は立派な才人。彼がこの国を奪ったら、何とかなるかも知れませんね。」
 この話は、慕容寶と慕容麟の耳にも入り、以来、二人は後段氏を恨んでいた。
 慕容寶が即位すると、彼から命じられて、慕容麟が後段氏へ言った。
「『主上は国を守れない』と、后は常々言われていました。今、国が滅ぶというのですか?この不始末はご自身でおやんなさい。それとも、段氏を根こそぎ殺しますか!」
 段氏は激怒した。
「汝等兄弟は、母だって殺せるのですね!それなら国を滅ぼすなど、尚更訳がないでしょう。私は、死ぬのは恐くない。ただ、この国が滅ぶのが口惜しいのです!」
 そして、段氏は自殺した。
 すると、慕容寶は決議した。
”段氏は正統な後継者を廃嫡しようと謀った。母后としての道義に反する。こんな女を皇后として葬るなど、国の恥だ。”
 群臣は皆、唯々諾々と従った。しかし、中書令の圭邃が、朝廷にて言った。
「子息が、その母親を廃するなど、義に適いません。かつて、漢の安思閻后は、自ら順帝を廃しましたが、なお太廟に祀られました。ましてや先后の言葉は、公式の場で為されたものではなく、虚実もハッキリとはしておりませんぞ!」
 そこで、喪を行った。

 六月、魏王珪の命令を受けて、魏の将軍王建等が、燕の廣寧太守劉亢泥を攻撃し、これを斬った。そして、その部落は平城へ連行した。燕の上谷太守開封公詳(慕容光の曾孫)は、郡を棄てて逃げた。
 この月、魏の賀太后が死んだ。
 同月、慕容寶は、士族の家系を定め、戸口を校閲し、古跡から洩れている民は悉く郡県へ登録させた。士民は怨嗟し、国への造反の心が生まれた。(これは、必ずしも悪いこととは言えない。しかし、皇帝は即位したばかりだし、国家は大敗したばかり。この時に国を乱すような真似はするべきではなかった。大学に言う。「物には本末があり、事には軽重がある。実践する順番を間違えなければ、道に近い。」と。)

 年頭に造反して蹴散らされていた平規が、敗残兵を集めて高唐へ據った。慕容寶は、これの討伐を慕容隆へ命じた。
 東土の民は、もともと慕容隆の仁政を懐かしんでいたので、彼を迎え出る人間は、道に溢れていた。
 七月、慕容隆の軍が河へ臨むと、平規は高唐を棄てて逃げ出した。慕容隆は、建威将軍の慕容進等へ追撃させ、済北にて、平規を斬った。
 平喜は彭城へ逃げた。