慕容鬼、業(「業/里」)に據る。

 始め、鮮卑の莫護跋が、塞外から遼西の棘城の北へ移住した。この時、彼等は「慕容部」と称した。

 莫護跋の子が木延。木延の子が渉帰。
 渉帰の代になって遼東の北へ移住した。彼等は代々中国に服従し、戦争では屡々功績を建て、大単于の称号を与えられた。

 武帝の太康二年(282年)、十月。渉帰は始めて昌黎へ来寇した。
 三年、三月。安北将軍の厳詢が、昌黎で渉帰を撃破し、敵兵一万余を殺した。

 四年。慕容渉帰が卒した。すると、弟の慕容刪が簒奪し、渉帰の息子の慕容鬼(「广/鬼」)を殺そうとした。慕容鬼は逃亡し、遼東の徐郁家に匿われた。
 六年。慕容刪は部下に殺された。慕容部の人々は慕容鬼を迎え入れ、擁立した。

 さて、慕容渉帰と宇文部とは仇敵だった。そこで、慕容鬼は宇文部討伐を晋朝廷へ願い出たが、許されなかった。怒った慕容鬼は、遼西で略奪を行い、大勢の民衆を殺した。
 これに対して、武帝は幽州軍に慕容鬼討伐を命じた。両者は肥如で戦い、慕容鬼は大敗した。
 だが、これ以後、慕容鬼は屡々辺境を侵すようになった。
 又、慕容鬼は東方の扶餘も攻撃した。
 扶餘王の依慮は自殺し、子弟は逃亡して沃沮を保った。慕容鬼は扶餘国城を壊し、万余人を捕らえて帰った。
 扶餘王依慮の息子の依羅は、国の復興を考え、東夷校尉の何龕へ救援を求めた。何龕は承諾し、都督の賈沈を派遣した。
 七年、夏。慕容鬼は部下の将軍孫丁を差し向けて迎撃させたが、賈沈は力戦して孫丁を斬った。こうして、扶餘国は復興した。
 十年、四月。慕容鬼は降伏の使者を派遣した。
 五月、詔が降り、慕容鬼は鮮卑都督に任命された。そこで、慕容鬼は何龕に謁見しようと、士・大夫の礼に則って正装して彼の屋敷までやって来た。すると、何龕は軍装した兵卒をズラリと並べて迎え入れようとしたので、慕容鬼は服に着替えて入って行った。
 ある者がその理由を尋ねたところ、慕容鬼は答えた。
「主人が客を礼遇しないのに、なんで客が礼を遵守しなければならんのだ。」
 何龕はこれを聞き、深く慚愧した。以来、彼は慕容鬼を敬重するようになった。

 この頃、鮮卑では宇文氏と段氏が勢力を強め、屡々慕容部を略奪した。これに対して慕容鬼は、腰を低くし、厚く贈り物をして和平を結んだ。すると、段国の単于は、娘を慕容鬼へ娶せた。彼女は光(「皇/光」)、仁、昭の三人を生んだ。

 この年、彼等は徒河の青山へ移住した。遼東が僻地過ぎたからである。

 恵帝の元康四年(294年)、慕容鬼は大棘城へ移住した。
 鮮卑の宇文単于莫圭の部族は、益々勢力を強めた。

 太安元年(302年)宇文莫圭は弟の宇文屈雲に慕容鬼を攻撃させた。慕容鬼は、素怒延率いる別働隊を撃破した。素怒延はこれを恥じ、十万の兵で再び来寇し、慕容鬼を棘城に包囲した。城内の人々は懼れたが、慕容鬼は言った。
「素怒延の兵は確かに多いが、統制が取れていない。吾に勝算有り。諸君はただ力戦せよ。憂う物は何もない!」
 かくして討って出て、大いに敵を破った。追撃すること百里。殺したり捕まえたりした敵兵は万を数えた。
 遼東の孟暉は部下数千家を率いて慕容鬼に降伏した。慕容鬼は、彼を建威将軍に任命した。

 慕容鬼は二人の臣下を抜擢した。一人は慕輿句。経理に秀で、財政を任された。もう一人は慕輿河。明敏で筋道の通った男だったので、裁判を任せた。

 懐帝の永嘉元年(307年)慕容鬼は、鮮卑大単于と自称した。
 拓跋部では、拓跋禄官が卒し、弟の拓跋猗廬が後を継ぎ、慕容鬼とよしみを通じた。

 三年、東夷校尉の李秦が、遼東太守の龍本に殺された。すると、遼東付近の鮮卑の素喜連と木丸津が結託して、「李秦の為に報復する」と称し、連年侵略して暴行涼奪の限りを尽くした。郡の兵力では屡々敗北した。
 後任の東夷校尉の封釈が龍本を討ち、これを斬り殺したが、彼等は略奪を止めない。封釈も彼等を撃退できず、講和を求めたが、拒否された。民は働くこともできなくなり、大勢の人々が慕容鬼の許へ逃げ込んだ。慕容鬼は彼等へ必需品を配給し、移住を望む者は慰撫して住まわせた。

 五年、慕容鬼の息子の鷹揚将軍慕容翰が慕容鬼へ言った。
「主君となった人間は、まず勤皇を旗印として民衆の心を掴み、遂には大業を成就したのです。今、素喜連と木丸津は、『龍本討伐』と口先では叫んでいますが、その実、動乱を幸いとこれに乗じているのです。その証拠に、封釈が龍本を誅して講和を求めたにもかかわらず、彼等は略奪を止めないではありませんか。
 中原は乱れてから久しく、州の軍隊では兵力が弱い。遼東は荒れきっているのに、これを救済する者が居ません。今こそ、単于がその悪行を数え上げて討伐するべきです。そうすれば、上へ対しては遼東復興と言えますし、実益としては素喜連・木丸津の兵力を吸収できます。
 本朝には忠義を取り、私利は我が国へ入る。これこそ王業の基礎となります。」
 慕容鬼は笑った。
「子供だと思っていたら、いつの間にかそんな智恵を身につけたのか。」
 そこで、連・津討伐軍を挙げた。慕容翰は先鋒として敵を撃破し、この二部の兵力を吸収した。
 この戦いで、慕容部は三千家の民を略奪した。なおかつ、それまで移住した民はそのまま慕容部に残り、遼東では彼は絶大の人気を博した。
 それからすぐに、封釈が死んだ。彼は死に臨んで、孫の封奕を慕容鬼へ託した。
 慕容鬼は封奕と語ってみて、驚いた。
「奇士だ!」
 そこで、封奕を小都督に任命した。
 封釈には二人の息子が居た。州主簿の封悛と、幽州参軍の封抽である。彼等も父親の喪に服す為慕容鬼の許へやって来たが、彼等を見て慕容鬼は言った。
「何と人材が揃っていることか!」
 そこで、道が不通になったと理由を付けて、彼等を領内へ留めた。二人とも慕容鬼へ仕えることを承諾したので、慕容鬼は封悛を長史に、封抽を参軍に任命した。
 空席になった東夷校尉は、王浚が舅の崔必を送り込んだ。

 当初、乱から避難した中国の士民の多くが、王浚の元へ集まって来たが、王浚は彼等を慰撫できなかったし、又、政治や法令がでたらめだったので、愛想を尽かして離散した士民が続出した。段氏の兄弟は武勇を振り回すだけで士大夫へ礼節を尽くさなかった。ただ、慕容鬼は政治がしっかりしており、人物を愛し重んじたので、士民は結局彼の元へ集まっていた。
 慕容鬼は彼等の中に英雄俊才を見出すと、すぐに抜擢した。

 愍帝の建興元年(313年)、四月。慕容鬼は王浚と結んで段氏を攻撃した。(詳細は「石勒、河朔に寇す」に記載)。
 この年、慕容鬼は、裴巍、陽耽、黄泓、魯昌等を参謀とし、游遽、逢羨、西文虔、宋爽、封抽、裴開を股肱とし、宋該、皇甫岌と、その弟の皇甫眞、繆豈、劉斌、封奕、封裕を幕僚とした。封裕は、封抽の息子である。

 裴巍は清廉で才能もあり、もともとは昌黎の太守だった。彼の兄が死んだ時、裴巍は兄の息子の裴開と共に喪に服しに行ったが、途中、慕容鬼の領地を通った。慕容鬼は裴巍を敬って礼遇し、彼が去るときには厚く贈り物をした。二人が遼西まで着くと、そこから先が不通となっていたので、裴巍は引き返して慕容鬼へ仕えようと思った。すると、裴開が言った。
「私達の郷里は南にあるのに、どうして北へ行くのですか?もしも、流浪の身となって誰かの許へ行くのなら、段氏が強盛を誇っており、慕容氏は弱い。どうして彼を棄てて之へ就くのですか?」
「中国の騒乱は始まったばかり。これから益々泥沼にのめり込んで行くぞ。それに故郷は遠い。平和に通行できるようになるまで待っていては、何年では済まないだろう。
そこで、故郷へ帰るより、ここいらで仕えることを考えねばならないが、それには相手を選ぶことが肝腎だ。お前は段氏一族を見て、長期的展望を持っているように思えるか?国士を使える才人が居ると思うか?慕容公は仁義を修め、その胸に覇王の志を秘めている。その上、国は豊かで、民は安楽に生活している。今、彼の許へ赴いけば、功名を立てることも宗族を庇護することもできるぞ。お前も詰まらない疑いを持つな!」
 裴開は叔父に従った。彼等が引き返すと、慕容鬼は大喜びで迎えた。
 陽耽も清廉で、沈着、機敏。遼西の太守だった。慕容翰が陽楽で段氏と戦った時、彼に捕まったが、慕容鬼は彼を礼節を持って迎え、登庸した。
 游遽、逢羨、宋爽は、皆、かつては昌黎太守だった。黄泓と共に薊へ疎開し、後、慕容鬼へ帰順した。
 王浚は、游遽の兄の游暢へ屡々手紙を出して幕閣となるよう求めた。そこで游暢は王浚の許へ赴こうとしたが、游遽が言った。
「王彭祖の刑罰はでたらめ。配下の華人も蛮人も次々と離反しています。私の見立てでは、長くありません。兄上は、貞節を旨として時を待って下さい。」
「だが、王彭祖は残忍で猜疑心が強い。いつだったか、流民が北へ行こうとしたところ、追いかけて皆殺しとしたことさえあった。今、彼は何度も私へ呼びかけている。もしも私が行かなければ、お前にまで迷惑を掛けてしまうぞ。それに、今は乱世だ。兄弟で別々の軍閥へ属した方が、一族が生き延びやすい。」
 游遽はこれに従った。游暢は、遂に王浚と運命を共にした。
 宋該は、同郷の杜群、劉翔等と共に王浚の許へ赴いたが、これに愛想を尽かして段氏の許へ行き、彼にも愛想を尽かして慕容鬼へ帰属した。
 東夷校尉の崔必は、皇甫岌を長史にしようと何度か招いたが、彼は許諾しなかった。しかし、慕容鬼が招くと、弟の皇甫眞まで引きつれてやって来た。

 遼東の張統は、楽浪と帯方の二郡に據り、高句麗王と連年に及んで交戦していた。ところが、楽浪の王遵は慕容鬼へ帰順することを考え、張統を説得した。張統は納得し、これに従った。慕容鬼は楽浪郡を置き、張統を太守、王遵を参事に任命した。

 元帝の建武元年(317年)、三月。江東の琅邪王が晋王を名乗った。
 晋王は、慕容鬼へ、「都督遼左雑夷流民諸軍事、龍驤将軍、大単于、昌黎公」の称号を与えたが、慕容鬼は受け取らなかった。すると、征虜将軍の魯昌が言った。
「今、両京(洛陽、長安)が陥落し、天子が疎開なさっております。この状況で江東を領有する琅邪王は、四海の衆望を一身に集めております。明公は一方に雄據しているとはいえ、諸部落には、なお、服従しない者もおります。これは、明公の命令が、王命ではないからです。ここは、琅邪王へよしみを通じ、皇帝として即位されるよう勧めましょう。その上で詔さえ貰えば、侵略ではなく討伐です。誰が明公に逆らいましょうか。」
 遼東の処子高羽も言った。
「義を重んじることこそ、覇王の資格。今、晋皇室は衰微したとはいえ、人々はなお、これを慕っております。どうか江東へ使者を派遣し、尊皇の姿勢を示されて下さい。その後に大義を堂々と討ち鳴らして諸部落を討伐すれば、誰が無用の侵略戦争と謗りましょうか。」
 慕容鬼はこれに従い、長史の王済を使者として建康へ派遣した。

 太興元年(318年)、三月。元帝は再び慕容鬼の許へ使者を派遣し、「龍驤将軍、大単于、昌黎公」の称号を与えたが、慕容鬼は今度も受け取らなかった。上辺は謙譲を装っていたが、その実、たかが昌黎公程度でくすぶりたくなかったのだ。
 慕容鬼は、游遽を龍驤長史、劉翔を主簿に任命し、游遽に府朝での儀法を制定させた。
 これで慕容鬼の真意を知った裴巍は、慕容鬼へ言った。
「晋皇室は衰微して江東へ追いやられており、その威徳は遠方まで及びません。中原の動乱については、さすがの明公でも救済するには力不足です。今、諸部落は各々軍備を擁しているとは言え、頑愚な連中の集まりですから、次第に蚕食して行くことができましょう。ここをまず制圧して領土を増やし、西方進出の資本としましょう。」
「壮大な計画だな。孤は思いにもよらなかった。しかし、君は中朝では知られた名士なのに、孤のことを田舎者と侮らずに教授してくれる。これは、孤に国を興させるため、天が君を賜下してくれたのだろう。」
 そこで、裴巍を長史として、軍国の謀略を委ねた。
 これ以来、弱小の部族は、漸次慕容鬼に侵略されて行った。

 二年、十二月。平州刺史の崔必が、「中州の人望に依る」と自称して、遼東を治めた。しかし、士民の多くは慕容鬼へ帰順したので、崔必は面白くない。屡々使者を派遣して招聘したが、士民は彼に帰順しなかった。
 崔必は、慕容鬼が士民を抑留していると邪推して、慕容鬼討伐を考えた。そこで彼は、「連合して慕容氏を滅ぼし、その領土を分割しよう」と、高句麗、段氏、宇文氏を密かに説得した。
 崔必が親しくしていた渤海の高瞻は力諫したが、聞かない。こうして三国連合軍が慕容鬼討伐へ向かった。
 諸将は迎撃を請うたが、慕容鬼は言った。
「奴等は、崔必の誘いに乗った連中だ。欲に駆られて士気が旺盛だから、その勢いは鋭い。これとまともに戦ってはならぬ。まず、固守して奴等の戦意を挫こう。
 あれは烏合の衆で統一がとれていない。だから、時が経てば、その心は必ずバラバラになる。一つには、吾と崔必に密約があって、背後を襲われるのではないかと疑い、二つには、三国が互いに猜忌しあっている。奴等の人情が離間するのを待ってから攻撃すれば、必ず破れる。」
 連合軍は棘城を攻撃したが、慕容鬼は門を固く閉ざして籠城した。
 暫く経って、慕容鬼は宇文氏の許へ使者を派遣し、肉や酒を差し入れた。すると段氏と高句麗は、宇文氏が慕容氏と共謀していると邪推し、兵を退いてしまった。
 宇文氏の大人悉独官は言った。
「二国は帰ったが、なに、慕容氏ぐらい、我等だけで陥してやる。」
 宇文氏の兵卒は数十万。陣営は四十里も連なっていた。
 慕容鬼は徒河の慕容翰を召集した。すると、慕容翰は使者を派遣して言った。
「悉独官は国を挙げて来寇しました。敵軍と我等は多勢に無勢。計略を使えば易々とうち破れましょうが、力攻めだと勝てません。今、城内の兵だけでも防御はできましょうから、私は外で遊撃隊となって敵を引っかき回しましょう。敵の隙を見たら攻撃しますので、その時は城内から呼応してください。内外共に奮戦すれば、敵は震駭して為す術もありますまい。
 今、我等が城内へ入れば、敵は城攻めに専念できます。それは得策ではありません。それに、我等が城内へ入れば、防戦一方の怯の形を部下へ示すことにもなり、戦う前に味方の志気が萎えてしまうことも考えられます。」
 これを読んで慕容鬼は、息子が臆病風に吹かれて参戦を拒絶したかと疑った。しかし、遼東の韓壽が言った。
「悉独官は大軍に驕っております。兵卒の志気はだらけておりますし、軍律は厳しさを欠いてきました。もし、奇襲を掛けて敵の不備を衝けば、必ず撃破できます。」
 そこで、慕容鬼は、慕容翰が徒河に留まることを許した。
 これを聞いて悉独官は言った。
「慕容翰は、もともと驍勇で名を売った男。それが今、入城しない。あるいは何か考えているのかもしれん。まず、これを先に落とそう。棘城くらい、いつでも落とせる。」
 とど、数千騎を派遣して慕容翰を襲撃させた。
 だが、これは慕容翰の知るところとなった。そこで彼は、部下を段氏の使者に変装させて差し向けた。その使者は、敵軍に会うと、伝えた。
「我々にとって慕容翰は、長い間頭痛の種でした。今、これを襲撃すると聞きましたので、我等も出陣し、徒河にて貴軍を待っております。どうか急いで進軍下さい。」
 使者を送り出した慕容翰は、城から出て伏兵となり、敵を待ち受けた。宇文軍は、使者の言葉を真に受けて大いに喜び、駆け出した。そして備えもしないまま、伏兵の中へ入って行った。慕容翰軍は一斉にこれを攻撃し、奮戦して敵を悉く捕らえた。
 慕容翰は、勝ちに乗じて進撃した。その傍ら、棘城へ使者を派遣し、慕容鬼へ出撃を請うた。慕容鬼は慕容光と長史の裴巍に精鋭を与えて先鋒とし、自身は大軍を以てこれに続いた。
 最初、悉独官は備えをしていなかった。そこへ慕容鬼が襲撃して来たので、驚いて総勢を出陣させた。先鋒が戦いを始めた頃、今度は背後から、千騎を率いた慕容翰が悉独官の陣営へ突入し、焼き払っていった。宇文軍の兵卒達は、パニックに陥って為す術も知らない。遂に彼等は大敗し、悉独官は体一つで逃げ出した。慕容鬼は、敵の兵卒を悉く捕虜とし、更に皇帝の玉璽三紐を手に入れた。
 これを聞いて、崔必は震え上がった。そこで甥の崔壽を棘城へ派遣して、慕容鬼の戦勝を祝賀した。ところが、それ以前に三国の使者が和平を請いにやって来ていた。
「今回の出兵は、我々の本意ではありません。崔平州にそそのかされただけです。」
 慕容鬼はそれらの書状を崔壽へ突きつけながら武装兵で脅したので、崔壽は懼れ、全てを白状した。そこで、慕容鬼は崔壽へ伝言を命じて、崔必の許へ返した。
 その伝言の内容は、
「降伏こそ上策。逃げるのは下策だぞ。」
 しかも、慕容鬼は兵を率いてこれに続いた。
 崔必は数十騎と共に城を棄てて高句麗へ逃げた。残された人々は、全員、慕容鬼へ降伏した。そこで慕容鬼は、息子の慕容仁を征虜将軍に任命し、遼東を鎮守させた。そして、官府、市里には手出しをせず、庶民の生活は平常を保証した。
 高句麗の将軍如奴子は于河城に據って抵抗したが、慕容鬼は張統を差し向けて襲撃し、これを捕らえた。その他の捕虜は千余世帯。崔壽・高瞻・韓恒・石宗を捕らえて棘城へ帰ったが、彼等は客分として礼遇した。
 韓恒は安平の人。石宗は石鑑の孫である。
 慕容鬼は、高瞻を将軍にしようと思ったが、高瞻は病気と称して仕官を断った。しかし、慕容鬼は何度も彼の許へ出向いた。
「君の病の原因は分かっている。今、晋室は動乱の最中だが、孤は諸君と共に社会を糺し、晋室を翼戴しようと思っているのだ。君は中州では人望がある。同じ思いを持つ者が、どうして華人と戎人の違いだけで疎遠にならなければならないのか!そもそも、功業を建てる為には志や計略を問うべきなのか?それとも人種を問うべきなのか!」
 高瞻はそれでも仕官しなかった。とうとう、慕容鬼も心中不満を抱いてしまった。
 さて、龍驤主簿の宋該は、高瞻と仲が悪かった。そこで彼は、高瞻を斬るよう慕容鬼をそそのかしたが、慕容鬼は従わなかった。しかし、高瞻はこれを憂え、心労の余り卒した。

 この戦果を江東へ報告することを、宋該が建議した。そこで慕容鬼は宋該を正使、裴巍を副使とし、入手した玉璽を持たせて、江東へ派遣した。
 三年、三月。建康へ到着した裴巍は、慕容鬼について、「賢人俊才を大切にする方だ。」と、褒めそやかした。それまで朝廷は、慕容鬼のことを単なる戎人と考えていたのだが、これによって評価が変わり、慕容鬼を重んじるようになった。
 元帝が裴巍に言った。
「卿もかつては晋の朝廷に仕え名臣との評判だった。このまま江東へ留まらぬか?その気があるのなら、龍驤将軍(慕容鬼)に詔を出して、卿の家族を派遣させよう。」
 すると、裴巍は答えた。
「臣も幼い頃から朝廷に出入りしておりましたので、復職できるといたしましたら、光栄の至りでございます。しかし、賊の手によって洛陽は陥落し、国はメチャメチャにされてしまいました。この恥を、名臣宿将達は雪げませんでしたが、慕容龍驤だけは、王室に忠義を尽くして凶悪な逆賊達を討伐しようとの志を持っております。それ故、臣は万里をおして帰順したのでございます。
 今、もしも臣が江東へ留まって帰らなければ、どう思われるでしょうか?
『朝廷は、遼東を片田舎と考え、見捨ててしまった。』と、そのように思われるに違いありません。
 臣の義を慕う想いが、結局は逆賊討伐の志気を萎えさせてしまうのです。そのようなことは臣の望みではありません。ですから、敢えて私を優先して公に就かないのです。」
「成る程。卿の言うとおりだ。」
 そこで、裴巍の帰郷に勅使を同伴させ、慕容鬼を安北将軍、平州刺史に叙任した。

 四年、十二月。元帝は、慕容鬼へ「都督幽・平二州、東夷諸軍事、車騎将軍、平州牧」の称号を与え、遼東公へ封じた。単于の称号は従来通り。そして、官司守宰の設置も認めた。
 こうして慕容鬼は、僚属を置けるようになった。そこで、裴巍と游遽を長史とし、裴開を司馬、韓壽を別駕、陽耽を軍諮祭酒、崔壽を主簿、黄泓と鄭林を参軍事に任命した。
 又、息子の慕容光を世子に立てた。東横(学校)を作り、平原の劉讚を祭酒とした。慕容光には、諸学生と共に講義を受けさせ、慕容鬼も暇ができると出かけていって講義を聴いた。慕容光は剛毅で機転が利き、経術を好んだので人々は賞賛した。
 他の子息については、慕容翰を遼東へ移し、慕容仁には平郭を治めさせた。慕容翰は民を慰撫し、威厳も慈愛も兼ね備えていたし、慕容仁も、兄には及ばないながら、そこそこではあった。

 成帝の感和六年(331年)。慕容鬼は江東へ使者を派遣し、北伐を勧めた。
 これに先だって、僚属の宋該等が協議して言った。
「閣下は一隅で功績を建てられました。しかし、任務が重い割には官位は低うございます。近隣の者共と同等の官位では、華・夷を鎮圧することができません。上表して、閣下の官爵を勧めるよう請願しましょう。」
 すると、参軍の韓恒が反した。
「そもそも、功業を建てる者は、信義が褒められないことも、名位が低いことも気にしないものだ。斉の桓公も晋の文公も、崩壊しかけた周王室を復興した後、諸侯へ号令を掛ける覇者の称号を得たのではないか。まず、軍備を整え、逆賊を掃討する。そうやって功績さえ建てれば、九錫でも自ずから賜われるのだ。それなのに、今、主君を脅しつけて寵を求める。それがどうして栄誉だろうか!」
 慕容鬼は気分を害し、韓恒を新昌県の県令へ左遷した。
 こうして、東夷校尉の封抽等は、慕容鬼を燕王へ封じるよう、江東へ上表したのである。
 これに対して、東晋の太尉陶かんは返書をよこした。
「それ、功績ある者は爵位を進める。それが古来からの制度である。車騎将軍は、未だ石勒を捕らえていないとはいえ、その忠義は誠を尽くしておられる。今、この請願は陛下へ伝えた。沙汰の可否・遅速は陛下の胸にある。」
 八年、五月。慕容鬼は、遼東武宣公のまま卒した。

 六月、慕容光が平北将軍、行平州刺史、督攝部内として、領内の囚人へ大赦を行った。長史の裴巍を軍諮祭酒とし、郎中令の高羽を玄莵太守とする。
 帯方太守の王誕が有能だったので、慕容光は、彼を左長史とした。すると王誕は言った。
「遼東太守の陽鶩は才能があります。その大任は、どうか彼を抜擢されて下さい。」
 慕容光はこれに従い、陽鶩を左長史、王誕を右長史とした。

 七月、慕容光は長史の王済を使者として東晋へ派遣し、喪を告げた。
 九年、八月。王済が遼東へ戻ってきた。
 東晋は、彼と共に侍御史の王斉を勅使として派遣し、遼東公慕容鬼を祭った。
 又、謁者の徐孟を別に派遣し、慕容光に、「鎮軍大将軍、平州刺史、大単于、遼東公、持節」の官爵を与え、幕僚任免の顕現は慕容鬼同様に認めた。だが、この一行は、馬石津にて、慕容仁に抑留された。

 感康元年(335年)、七月。慕容光は、息子の慕容儁を世子に立てた。

 十月。去年慕容仁に抑留されていた徐孟等が棘城へ到着し、慕容光は朝命を受け取った。
 二年、九月。慕容光は、長史の劉斌等に、徐孟を建康まで送らせた。

 三年、九月。鎮軍左長史の封奕等が、慕容光へ燕王となるよう勧め、慕容光はこれに従った。そこで、群司を設置し、封奕を国相に任命した。
 他の人事は、以下の通り。
 韓壽は司馬。裴開は奉常。陽鶩は司隷。王は太僕、李洪は大理、杜群は納言令。宋該、劉睦、石宗は常伯。皇甫眞、陽協は冗騎常侍。宋晄、平煕、張泓は将軍。封裕は記室監。李洪は李秦の孫で、宋晄は宋爽の息子である。
 十月、慕容光は燕王を称し、大赦を下した。
 十一月。宣武公(慕容鬼)を追尊して宣武王と称した。婦人の段氏を武宣后とする。
 夫人の段氏は王后と為した、嫡子の慕容儁は王太子と為し、魏の武帝や晋の文帝が政治を補佐した故事に従った。

 四年、十二月。燕王光は段氏を討伐した。(詳細は、「燕、段遼を討つ」に記載。)

 ところで、慕容光は燕王を自称していたが、晋皇室の詔を受けたわけではない。そこで、五年の冬、長史の劉翔と参軍の革運を東晋へ派遣して、戦勝を報告し、王の爵位を求めた。そして、刻限を決めて共に挙兵し、中原を回復しようと持ちかけた。

 同年、慕容光は高句麗を討った。新城まで攻め込んだところ、高句麗王が和睦を求めたので、兵を退いた。
 又、息子の慕容恪、慕容覇に宇文部を討伐させた。慕容覇は十三才。しかし、その勇名は三軍に鳴り響いていた。

 六年、後趙の石虎が燕を攻撃しようと準備した。これを知った慕容光は、敵の不備の城へ先制攻撃を掛けた。
 攻撃された幽州の刺史は石光。彼が籠城したので、燕軍は近隣を焼き払い、三万余世帯の民を略奪して帰った。
 石光は怯懦と見なされ、都へ召還された。

七年、正月。慕容光の命令で、唐国郡内史の陽裕等が城を築き、宗廟と宮殿を建てた。この城を、龍城と名付ける。

 二月、劉翔が建康へ着いた。成帝は謁見し、慕容鎮軍の日常を問うた。すると、劉翔は言った。
「臣を派遣する時、閣下は晋の朝服を身につけておりました。」
 さて、劉翔は慕容光の為に大将軍の地位と燕王の章璽を求めた。すると、晋朝廷は会議を開いて答を出した。
「古来より、大将軍が辺境にいた試しはない。又、漢・魏以来、皇帝と異姓の者を王に封じたことはないのだ。この請願は許可できない。」
 しかし、劉翔は言った。
「劉淵、石勒が乱を起こして以来、長江以北では異民族が横行しております。中国の公卿が甲冑を身に纏って逆賊を撃破したとゆう話なぞ、ついぞ聞いたことがございません。ですが、慕容鎮軍の親子のみ、力を尽くし、皇室を想って無勢で多勢と戦い、屡々強敵を挫いてきたのです。
 石虎は我々を懼れ、辺境の民を強制移住させて国境を大幅に後退させました。今では、薊城が国境となっております。これ程の功績を建てましたのに、海北の土地を惜しんで封邑としない。これはどうゆう事でございましょうか?
 昔、漢の高祖は王爵を惜しげもなく乱発しましたので、帝業を成し遂げることができました。逆に項羽は印璽を惜しんで与えることができなかったので滅亡したのです。
 私は、自分が偉ぶりたいのではありません。聖朝が忠義の臣下を疎遠にすれば、結局は四海の民に勤皇の精神が生き渡らなくなってしまう。実にそのことを惜しんでいるのです。」
 劉翔の姉の夫の諸葛恢は、晋の尚書だったが、この件については強硬に反対していた。最初の会議の時も、彼が反対派の筆頭として、主張していた。
「夷狄が互いに攻撃するのは中国の利益。しかし、器と名だけは、軽々しく与えてはならない。」
 今回も、彼は劉翔に反論した。
「もしも、慕容鎮軍が首尾良く石虎を滅ぼしたとしても、結局は、彼が第二の石虎となるだけではないか。朝廷にとって頼りがいのある相手ではない!」
「何とゆうことを言われるのだ!婦女でさえ、猶、宗周の恥を憂えたのです。(春秋時代の故事。ある封建諸侯が滅亡した時、それと聞いた婦女が滅亡した諸侯を痛まずに、周王室の権威が失墜したことを憂えた。「春秋左氏伝」)それなのに貴殿は、晋室の危機にありながら、憂国の思いがないのか!
 昔、孔子は、『斉の桓公や晋の文公が戦いに勝たなければ、周の民は野蛮人に征服されてしまっただろう』と評された。慕容鎮軍は、逆賊を殲滅しようとの志を立てられ、臥薪嘗胆の苦労を厭われないのだ。
 それなのに貴殿は邪惑の言葉を吐き、君臣の間を離間するのか!晋が天下を回復できないのは、貴殿のような臣下が居るせいだ!」
 劉翔は一年余り建康に逗留したが、結局結論は出なかった。
 劉翔は中常侍の或弘に言った。
「石虎は八州の土地を占有し、百万の武装兵を擁している。そして、その志は、天下統一にあるのだ。索頭、宇文といった弱小の国々は、彼に隷属しないものがない。ただ、慕容鎮軍のみが、天子を翼戴し、至誠を貫き通している。それでいて礼遇されないとなると、天下の人々が晋皇室へ対して幻滅し、誰も臣従しなくなるのではないか?私はそれが恐ろしいのだ。
 三国時代、公孫淵は呉へ対して一欠片の功績さえもなかったが、呉の孫権は彼を燕王に封じ、九錫を与えた。それに対して、今、慕容鎮軍は屡々逆賊を撃退し、その威名は秦・隴までも震わせている。
 その我々へ対して、石虎は何度も使者をよこし、甘言と厚幣で招き寄せ、曜威将軍・遼西王の官爵まで準備した。だが、慕容鎮軍は、彼が逆賊なので、突っぱねたのだ。
 今、朝廷は虚名を惜しみ、忠順を押さえつけているが、それがどうして社稷の長計だろうか!後で悔いても及ばないぞ。」
 或弘は、それをそのまま成帝へ伝えた。これを聞いた成帝は、慕容光の望みを叶えた方が良いと思うようになった。
 そうこうするうち、慕容光は上表した。
?氏の兄弟は権力を専断して社会を掻き乱しております。(?亮への反感で蘇峻と祖約が造反したことを指摘。?亮が死んだ後は弟のうち?翼が地方で兵権を握り、?冰が内政を専断していた。)彼等を排斥して社稷を安んじるべきでございます。」
 又、?冰にも書を送り、その専断と、国恥を雪げないことを責めた。?冰は甚だ懼れたが、相手は敵国を挟んだ遠い地方に割拠していることとて、どうこうすることもできない。そこで、何充と共に参内し、彼の望みを叶えるよう進言した。
 やがて、慕容光に「使持節、大将軍、都督河北諸軍事、幽州牧、大単于、燕王」の官爵が賜下された。彼の世子の慕容儁は、「仮節、安北将軍、東夷校尉、左賢王」とされた。そして、燕国へ賜下された軍資器械は百万を数えた。又、燕国の諸功臣百余人も封じられた。劉翔は代郡太守として臨泉郷候に封じられ、員外散騎常侍を加えられたが、劉翔は固辞して受けなかった。
 さて、歳余江南で暮らした劉翔は、江南の士・大夫達に嫌気がさした。彼等が驕奢で放縦な人間ばかりに思えたからだ。ある日、彼は宴会の席で何充へ言った。
「四海が戦乱に見まわれて、既に三紀(三十六年)。宗社は廃墟となり、黎民は塗炭の苦しみを味わっております。まこと、廟堂は焦慮し、忠臣は命を捨てるべき時。
 にも関わらず、諸君は江南でのうのうと暮らして居られる。欲望の赴くままに楽しみ、贅を尽くすことを栄えと為し、傲慢なことを賢となす。剛直な言葉は聞かれず、征伐の功績を立てない。これでどうやって主君を尊び民を救うことができるのか!」
 何充達は甚だ恥じ入った。
 やがて、大鴻臚の敦希へ、棘城へ行くよう詔が降りた。一つには、慕容光を燕王に封じる詔を持って行く為。そしてもう一つには、劉翔を送って行く為である。
 公卿が江上まで劉翔を送って行くと、劉翔は諸公へ言った。
「昔、少康は、僅かの領地で有窮を滅ぼし、句踐は会稽を足場に強国呉へ復讐した。草でさえ、はびこる前に刈らなければならない!ましてや仇敵ですぞ!
 今、石虎と李壽(成蜀の国王)は互いに争っている。それなのに官軍は北伐も、巴・蜀征伐も行わない。石虎が李壽を併呑し、万全の形勢で東南へ臨めば、どんな知恵者が居ようとも、国を守ることなどできませんぞ!」
 すると、中護軍の謝廣いが言った。
「それこそ我が心だ!」

 七月、敦希と劉翔は燕へ到着した。燕王慕容光は、劉翔を「東夷護軍、領大将軍長史」とし、唐国内史の陽裕を左司馬とし、典書令の李洪を右司馬とし、中尉の鄭林を諮酒祭とした。

 八年、十月。燕王光は龍城へ遷都し、境内へ大赦を下した。