東西魏、交々闘う  その三
 
孝寛 

 中大同元年(546年)七月、西魏は、ヘイ州刺史王思政を荊州刺史とした。それに伴い、玉壁を鎮守できる器量人を後任として推挙するよう命じた。すると、王思政は、孝寛を推挙した。宇文泰は、これに従った。
 この交代を知った高歓は、山東の総力を挙げて西魏討伐を考えた。彼らは業にて合流し、晋陽へ向かう。
 九月、東魏軍は玉壁を包囲し、西魏軍を挑発したが、西魏は挙兵しなかった。
 高歓は玉壁を攻め立てたが、孝寛は巧みに拒戦した。
 ところで、玉壁城内には井戸や泉などはなく、水は全て汾から汲んでいた。そこで高歓は、汾の流れを変える工事を行ったところ、一夕で完成した。
 更に高歓は、城の南に築山を造って、その上から城内へ攻め込もうとした。ところで、城内には元々二本の楼閣があった。韋孝寛は、その楼閣へ木を縛って築山よりも高くして、その上から防がせた。
 高歓は使者を送った。
「お前が楼閣へ接ぎ木して天まで届かせるなら、我は地を穿って攻めるまでだ。」
 そして、地下道を十道同時に掘り進んだ。又、術士李業興の孤虚法を使って、城の北側を集中攻撃した。北側は、天険である。
 韋孝寛は長い壕を掘って精鋭を選び、地下道が開通するのを待ち受けた。地下道から出て来た東魏の兵卒達は、全員捕殺された。又、壕の外へ柴を積み上げて火を付け、地下道の中へ投げ入れたので、地下道へ入った東魏の兵卒達は皆、蒸し焼きになってしまった。
 東魏は、撞車を造った。これは、丸太を乗せた車である。これで、城壁を突き崩すのだ。撞車がぶち当たると、城壁は次々と突き崩されていった。
 そこで韋孝寛は、布を縫い合わせて幔幕を造ってこれを張り巡らせた。この布は垂れ下がっているだけだったので、車で壊すことができなかった。
 次に東魏軍は、長い竿の先に油を染み込ませた布を付け、これに火を付けて楼閣を焼き払おうとした。すると韋孝寛は、長い鉤刀を造って、竿を中途で切り落とした。
 東魏軍は、今度は城壁の下へ、四面から二十の地下道を掘った。この地下道は支柱で支えており、その支柱を燃やすと、支えを失った城壁は崩れ落ちた。しかし、韋孝寛は崩れた城壁の内側に即座に木柵を造って防いだので、東魏軍は攻め込めなかった。
 このように、城外から様々な城攻めが行われたが、韋孝寛の知力はこれを防いで余りあった。
 更に韋孝寛は、築山を奪って、これに據った。
 打つ手がなくなった高歓は、倉曹参軍の祖艇を使者として派遣して、説得させた。
「君はこの孤城をたった一人で守り抜いているが、西方からは救援にも来ないではないか。このままではジリ貧だぞ。降伏したらどうかね?」
 すると、韋孝寛は答えた。
「我が城池は堅固で、兵糧もまだたっぷりと残っている。攻撃する者は疲れ、守備に専念すれば安逸である。たかが数旬で救援などいるものか!それよりも、お前達の方こそ帰れなくなってしまうぞ。韋孝寛は関西の男子だ。降将軍になどならぬ!」
 祖艇は、城内の人間へ言った。
「韋城主は、朝廷から十分な棒禄を受けている。だから、その心意気も判らないではない。しかし、他の軍民まで、どうして彼に従って火の中へ飛び込むのか!」
 そして、城内へ矢文を射掛けた。
「城主を斬って降伏した者は、太尉とし、開国郡公に封じ、帛万匹の褒賞を与える。」
 韋孝寛は、その手紙の裏側へ、自ら返事をしたためて、敵陣へ射返した。
「高歓を斬った者も、これに準じる。」
 東魏は総力を挙げて攻めること、およそ五十日。士卒の戦死者や病死者は、七万人を数えた。彼等は、全て一つの塚へ合葬された。
 高歓は、万策尽き、考えすぎて発病してしまった。そこうこするうちに、流星が東魏の陣営へ落ちた。士卒は驚愕し、すっかり怖じ気づいてしまった。
 十一月、東魏軍は包囲を解いて退却した。
 一方、高歓は侯景を別働隊として斉子嶺へ派遣させていた。
 西魏の建州刺史楊標が車廂を鎮守していたが、侯景は、彼が邵郡へ侵入することを懼れ、騎兵を率いて防御した。やがて、楊標が進攻してきたと聞くと、侯景は木を切り倒して六十余里に亘って道を封鎖したが、それでもなお不安で、遂に河陽まで撤退した。
 西魏は韋孝寛を驃騎大将軍、開府儀同三司とし、建忠公へ進爵した。人々は、王思政に人を見る目があったことを褒めそやかした。 

(訳者、曰く)東魏郡は、最初に川の流れを変えて、城内の水を断った。これへ対して、韋孝寛はどう処理したのだろうか?一文の解説もなかった。或いは、欠落したのだろうか? 

  

 太清元年、(547年)東魏の高歓が卒した。子息の高澄が襲爵する。それへ対して侯景が造反したが、鎮圧され、侯景は梁へ逃げた。(詳細は、「侯景の乱(東魏偏)」へ記載。) 

  

王思政の最期 

 太清二年(548年)。 四月、東魏は、高岳、慕容紹宗、劉豊生へ十万の兵を与えて、西魏の穎川を攻撃させた。ここを守るのは、王思政である。
 王思政は、軍鼓を鳴らさせず、旗を巻いて、まるで無人のように見せた。
 高岳は、大軍を恃んで、四方から城へ迫る。すると、王思政は驍勇の士卒を選び、城門を開いて討って出た。高岳は敗走した。
 高岳は、今度は築山を築き、昼夜の別なく攻撃を続けた。だが、王思政は、これを良く守り抜き、築山を奪った。そして、これに楼を設置したので、長社城の防備は更に厳重になった。
 高澄は援軍を続々派遣したが、一年近くも落ちない。
 三年、四月。山鹿忠武公劉豊生が、近くの川を堰止めて水攻めとするよう建策した。これによって、城の多くは崩れた。高岳は、軍を何隊かに分け、交代で休みながら攻撃させた。対して西魏の王思政は、自ら矢面に立ち、士卒と辛苦を共にして戦った。
 宇文泰は、大将軍趙貴へ東南諸州の指揮権を与えて派遣した。だが、長社から北はぬかるみとなっており、穰城から先へは進めなかった。
 東魏は、射撃の巧い者を戦艦へ乗せ、城へ接近して連射させた。この猛攻に、城は陥落寸前だった。慕容紹宗と劉豊生が堰へ臨んで城内の様子を窺ったところ、東北の方で塵が巻き起こったので、戦艦へ避難した。だが、突然の暴風は船を大揺れに揺らした。係留している綱は切れ、船は城へ向かって漂流した。城の中から長鉤が延びてきて戦艦をひっかけ、弓や弩が乱発される。慕容紹宗は川へ飛び込んで溺死し、劉豊生は泳いでいるところを射殺された。
 慕容紹宗を失って、高岳の志気は阻喪し、以後、長社城を攻撃しなくなった。
 陳元康は高澄へ言った。
「王は輔政以来、大功を建てられておりません。侯景を撃破いたしましたが、あれは外賊ではありません。今、穎川は陥落寸前。どうか、王自らの功績となさいませ。」
 高澄は、これに従った。自ら十万の軍を率いて長社を攻撃する。堰を造る現場にも自ら臨んだが、堰は三度も決壊した。
 六月、長い包囲で、長社城内は塩が不足した。人々は痙攣や浮腫ができ、八・九割が死んだ。やがて、西北から大風が吹き、水が城内へ雪崩れ込んで、城は崩れた。
 高澄は、城中へ命令を下した。
「王大将軍を生け捕りにした者は、侯に封じる。もしも大将軍に万一のことがあったら、親近左右を全て斬り殺すぞ。」
 王思政は、衆を率いて土山に籠もっていたが、彼等へ言った。
「彼は力は屈し計略も尽きた。この上は、死んで国へ詫びるだけだ。」
 そして、自ら首を刎ねようとしたが、都督の駱訓が言った。
「公は、いつも私へ言っていました。『お前達、我が頭を持って降伏したら、ただ富貴になれるだけではない。この城の人間が、その一人だけでも生き延びることができるのだ。』と。今、このような通告が為されているというのに、我等士卒が殺されるのを哀れまれないのですか!」
 そして、みんなして王思政を捕らえたが、しかし、東魏へ引き渡すことはできなかった。
 高澄は、通直散騎趙彦深を土山へ派遣し、彼等を出頭させた。王思政がって来ると、高澄は拝礼も求めず、礼遇した。
 王思政が穎川へ入った時、兵卒は八千人いた。城が陥た時は、三千人にまで減っていたが、それでも造反する者は遂にいなかった。高澄は、その兵卒達を全員遠方へ連行し、あちこちへ散らしてしまった。又、穎州を鄭州と改称する。王思政へ対しては、厚く礼遇した。 

 当初、王思政は襄城へ逗留していたが、行台治所を長社へ移そうと考え、宇文泰の元へ使者を派遣して請願した。また、浙州刺史の崔猷へも手紙で相談した。すると、猷は返事を出した。
「襄城は京・洛を後ろに控え、当今の要地です。動静いずれにも即座に対応できます。それにひきかえ穎川は、寇地に隣接しております。また、山川の固めもありません。賊がもしも来襲したら、即座に城下へ襲撃します。軍を置くには襄城の方が適切です。どうかここに行台をお造りください。穎川には州を置き、良将を選んで派遣し、膠で張り付けたように表裏一体となれば、人心は安んじます。たとえ不慮のことが起こっても、患いはしませんぞ!」
 使者は宇文泰へ謁見し、王思政の意向と猷の返事をつぶさに伝聞した。宇文泰は猷の意見に賛同したが、王思政は固く請い、約束した。
「賊が陸攻したら三年、水攻めをしても一年は持ちこたえ、けっして朝廷の援軍を煩わさせません。」
 そこで、宇文泰はこれを許可したのである。だが、長社が陥落するに及んで、深く後悔した。 

 侯景が梁へ亡命した時、宇文泰は、侯景から譲り受けた土地を東魏へ奪還されるのではないかと恐れ、諸城へ将を派遣して、それらを守らせた。だが、穎川が陥落すると、交通の要衝を抑えられてしまったので、諸城が孤立して各個撃破されることを慮り、諸将を全て召還した。 

(訳者、曰く。)良将は機を見るに敏。穎川が陥落したことで、他の土地も全て失ってしまったのだ。領土へ執着して軍備をそのままにしておけば、いたずらに兵卒を失うだけである。廣地の虚名より、兵力を温存するとゆう実利を選んだ。この見切りの早さは見事なものだ
 だが、そんなことよりも、この戦役で、東魏は慕容紹宗を、西魏は王思政を失った。この両将軍のこれまでの活躍を思えば、その最期を省略するわけにも行かなかったので、後に大活躍する韋孝寛の登庸シーンと併せて、ここに一章を裂いた次第です。