東西魏、交々闘う  その二
 
金庸城の攻防    

 大同四年(538年)七月、侯景、高敖曹等は、金庸にて独孤信を包囲した。高歓は、大軍を率いて後続となる。侯景が、洛陽内外の建物を悉く焼き払った。官舎、寺院、民家などは、二・三割程度しか焼け残らなかった。
 この頃、西魏の主将達は洛陽の園陵へ拝礼に行っていた。そこへ、独孤信が急を告げて来たので、彼等は宇文泰と共に東へ逃げた。尚書左僕射の周恵達へ、太子の欽を輔けて長安を守備するよう命じ、開府儀同三司の李弼と車騎大将軍の達奚武へ千騎を与えて前駆とした。
 八月、宇文泰は穀城へ到着した。これに対して、侯景等は陣を整えて待ち受けようとしたが、儀同三司の莫多婁貸文は、手勢を率いて襲撃したがった。侯景等は固く止めたが、莫多婁貸文は血気に逸る上に専横。命令を拒否して可朱渾道元と共に、千騎を率いて前進した。
 彼等の軍は、夜半、李弼・達奚武軍と遭遇した。李弼は、軍鼓を盛大に討ち鳴らし、馬には柴を曳かせて土煙をもうもうと立ち上らせた。
 莫多婁貸文等は、西魏軍の見せ勢に騙され、敵を大軍と思って怖じ気づき、逃げ出した。李弼軍はこれを追撃し、莫多婁貸文を斬る。可朱渾道元は、どうにか単騎で逃げ延びた。この戦いで捕らえた捕虜は、全て恒農へ送られた。
 侯景等は、夜、包囲を解いて退却した。宇文泰は軽騎にて追撃し、河上へ至った。侯景は、河橋に據って陣を布き、宇文泰と戦った。
 合戦の最中、宇文泰の乗馬へ流れ矢が当たった。馬は驚いてめちゃくちゃに走り、自分の居場所さえ分からなくなり、遂には落馬してしまった。東魏の兵卒がワラワラと駆け寄ってくる。宇文泰の左右は我先に逃げ出したが、都督の李穆は下馬して、自分の馬へ宇文泰を助け乗せ、罵った。
「こらっ。衛兵のくせに一人だけ駆け回ってどうするのだ!お前の主人の王はどこにいるのか!」
 それを聞いた敵兵達は、貴人ではないと信じ込み、これをうち捨てて行き過ぎた。敵兵がいなくなると、李穆は宇文泰へ馬を与え、自分は徒歩で護衛しながら自陣へ戻った。
 やがて、西魏軍の後続が到着したので、西魏軍は勢いを盛り返し、東魏軍を撃破。大勝利を収めた。東魏軍は北へ逃げた。
 高敖曹は、もともと宇文泰を軽く見ていたので、陣立が甘かった。西魏軍はそこへつけ込んで猛攻を加えたので、彼の軍は壊滅、敖曹は単騎で逃げ出すていたらく。それでもどうにか、河陽南城まで逃げ延びた。
 河陽南城の守将は、北豫州刺史の高永楽。彼は高歓の一族だったが、敖曹へは怨みを持っており、城門を閉じて敖曹を受け入れなかった。
 敖曹は、「縄を降ろせ」と連呼したが、かなえられない。そこで刀を抜いて穴を掘って隠れようとしたが、完成しないうちに追っ手がやってきた。しかたがないので、橋の下へ身を伏せた。
 追っ手は、高敖曹の従者が金帯を持っているのを見て、敖曹の居場所を問いつめた。すると従者は居場所を指し示したので、敖曹は逃れられないと観念し、飛び出した。
「来い!お前達を開国公にしてやるぞ。」
 追っ手は、敖曹の首を斬って去った。
 高敖曹戦死の顛末を聞いた高歓は、呆然として腑抜けのようだった。やがて、高永楽を杖打ち二百の刑に処し、高敖曹へは太師、大司馬、太尉を追賜した。
 宇文泰は、敖曹を殺した者へ布絹一万段を与えて賞した。ただ、これは毎年少しづつ与えるもので、北周が滅亡する時まで与えられ続けたが、結局、完済しなかった。
 この戦役で、東魏は西コン州刺史宋顕等を喪い、武装兵一万五千が捕らえられ、河へ飛び込んで溺死した兵士も一万を越えた。 

 話は遡るが、高歓は、万俟普を長老として尊んで特に礼遇し、ある時などは自ら馬へ助け乗せた程だった。その子息の洛は、元服した時、稽首して言った。
「死力を尽くして、今までの深い御恩へ報います。」
 沙苑の戦役に及んで、諸軍が河を渡って逃げた時、洛ひとりだけは兵を激励して動かず、西魏軍へ叫んだ。
「万俟受洛干ここに在り!来るなら来て見ろ!」
 西魏の兵卒は畏れて退却した。
 高歓は、その時の陣営地を、「回洛」と名付けた。
 この日、東西魏は盛大に陣を布いており、先陣と後陣とが大きく離れていた。折しも霧が四方を塞いでおり、両軍は明け方から昼過ぎまでに数十合も戦ったので、戦況が把握できないほどの大混戦になってしまった。
 この時、西魏の独孤信と李遠は右軍で、趙貴と怡峯は左軍だった。共に戦況が不利になってしまい、又、西魏帝や宇文泰の居場所も判らなくなったので、皆は、兵卒を棄ててサッサと退却してしまった。後陣は、開府儀同三司の李虎と念賢。彼等は、独孤信等が退却するのを見て、一緒に退却してしまった。そこで宇文泰も、陣営を焼いて退却した。後へは、儀同三司の長孫子彦を残し、金庸を守らせた。 

 王思政は下馬し、長矛を挙げて左右を横撃した。彼の一振りごとに数人がなぎ倒される。いつの間にか敵陣深く攻め込んでおり、従者は全員戦死していた。彼自身、重傷を蒙り、悶絶する。日が暮れると、敵もまた、撤収した。王思政は、戦争となれば毎回、衣が破れ鎧がボロボロになるまで戦う。だから彼が気絶していても、敵兵は将帥とは気がつかずに行き過ぎてしまう。そうゆう訳で、今回も生還できた。
 平東将軍の蔡祐も下馬して、徒歩で戦っていた。左右が、乗馬して撤退するよう勧めると、彼は怒鳴りつけた。
「丞相は、我を子供のように愛してくれた。命など惜しんではいられん!」
 そして、左右十余人を率いて声を合わせて叫んで東魏軍を襲撃し、大勢の敵を殺した。
 敵軍は、彼等を十余重にも包囲する。蔡祐は、強弓を引き絞り、四方を牽制した。すると、東魏軍は、頑丈な鎧と長刀を持つ者を募り、攻撃させた。彼等が蔡祐から三十歩の距離まで近づいた時、左右は発射するよう勧めたが、蔡祐は言った。
「我等の命は、ただ、この一矢にかかっている。あだには撃てん!」
 十歩まで近づいた時、彼はようやく矢を射た。弦音に応じて敵が倒れる。東魏軍が驚いて退いたので、蔡祐は静かに退却した。 

 西魏帝が恒農まで進軍すると、守将は城を棄てて逃げた。だが、東魏へ降伏した者達が、城門を閉じて抵抗した。宇文泰はこれを攻撃し、陥す。魁首数百人を誅殺した。
 蔡祐は、宇文泰を追って恒農までやって来た。彼を見て、宇文泰は大いに喜んだ。
「承先(蔡祐の字)、お前が来たら、吾には何の憂いもないぞ。」
 この日、宇文泰は気を揉んでおり夜眠ることもできなかったが、蔡祐の股を枕にしたら、ようやく心が安らいだ。
 蔡祐は宇文泰に従軍した時は、常に士卒に率先して戦った。そして、帰ると、功績を荒そう諸将を尻目に終始無言でいた。だから、宇文泰はいつも感嘆したのである。
「承先は、自分では勲功を宣伝しない。だから、吾が賞して、その功績を宣伝してやるのだ。」
 宇文泰は、王思政を恒農へ留めて鎮守させ、彼を侍中、東道行台とした。 

  

于伏徳の乱 

 西魏の東伐は総力戦だったので、関中に留守兵が少なかった。
 ところで、西魏は捕虜とした東魏の兵卒を、民間へ散在させていた。そんな中で、西魏が敗北したとの流言が乱れ飛んだ。それを聞いて彼らは、造反しようと謀らんだ。
 李虎が長安へ着たが、対処の仕様がない。太尉の王盟と僕射の周恵達等は、太子の欽を奉じて渭北へ避難した。百姓は、互いに略奪しあい、関中は大いに乱れた。
 ここにおいて、沙苑において捕らわれていた東魏都督の趙青雀とヨウ州の住民于伏徳等が造反した。于伏徳は咸陽を保ち、咸陽太守慕容思慶と共に東魏の降伏兵をかき集め、西魏軍の帰還を拒んだ。
 趙青雀は長安の子城によった。長安の大城の民は力を合わせて趙青雀軍を拒み、両軍は連日戦った。大都督の侯莫陳順が、造反軍を攻撃して、しばしば撃破したので、やがて造反軍は迂闊に出撃しなくなった。侯莫陳順は、侯莫陳祟の兄である。
 河東を鎮守していた王羆は、城門を大きく開け広げ、軍士を全員招集して言った。
「大軍が敗北したと聞くや、青雀が造反し、諸人も何をしでかすか判らない。しかし、王羆はこの城を委ねられたのだ。命を懸けてでも、この御恩に報いる。我と心を同じくする者は、共にこの城を固守しよう。だが、城の陥落を恐れる者は、好きに出て行くが良い。」
 皆はその言葉に感動し、心を一つにして城を守った。
 西魏帝は受郷へ留まった。
 宇文泰は、造反の報告を受けたけれども、士馬が疲れ切っているので、全軍を挙げて急行することはできないと判断した。また、趙青雀など、どうせ烏合の衆だと多寡を括っていたので、言った。
「あんな奴ら、軽騎で十分。我がひとっ走り長安へ駆けつけて縛り上げてやる。」
 すると、通直散騎常侍の陸通が諫めた。
「賊徒どもは、長い間機会を狙っていたのです。改心することなどあり得ません。蜂にさえ毒があるものを、どうして軽くみれましょうか!それに、賊徒どもは、『すぐにでも東魏軍が来襲するぞ』とデマを広げて、人々を動揺させております。そんな時に僅かの軽騎で引き返せば、諸人は噂が本当だったと信じ込み、ますますパニックになってしまいます。今、確かに我が軍は疲れ切っておりますが、それでも精鋭兵は大勢おります。殿の威光を以て大軍で臨めば、どうして勝てないことがありましょうか!」
 宇文泰はこれに従い、兵を率いて西へ入った。宇文泰を見て、父老達は大喜びし、士女は相賀した。
 華州刺史宇文導が兵を率いて咸陽へ入り、慕容思慶を斬って于伏徳を捕らえた。そのまま渭を渡り、宇文泰と合流して趙青雀を攻撃、撃破した。
 太保の梁景睿は、病気と言い立てて長安へ留まっていたが、彼は趙青雀と内通していた。宇文泰は、梁景睿を殺した。 

  

収支決算 

 高歓は、七千騎を率いて孟津まで来たが、そのままそこへ留まって、渡河しなかった。やがて、西魏が逃げ去ったと聞いてようやく渡河し、別将へ追撃させた。だが、追いつけずに戻ってくる。
 高歓は金庸を攻撃した。長孫子彦は城を棄てて逃げる。東魏軍は、城を全て焼き払い、城壁まで壊して帰った。
 東魏が業へ遷都した時、裴譲之を落陽へ留めていた。ところが、独孤信が敗北した時、裴譲之の弟の裴諏之は、宇文泰に従って関中へ赴き、大行台倉曹郎中となった。そこで、高歓は裴譲之兄弟五人を捕らえた。すると、裴譲之は言った。
「昔、諸葛亮の兄弟は、蜀と呉に別れて仕えましたが、それぞれ自分の主人へ誠を尽くしました。まして、私の母はここにおります。不忠不孝な行いは、絶対にいたしません。殿が真心で人を使うから、人々も殿へ帰順しているのです。もしも部下を猜忌したなら、覇業の達成はできませんぞ。」
 高歓は、皆を釈した。
 九月、西魏帝は長安へ入城し、宇文泰も華州へ戻った。
 十月、西魏は、高敖曹、竇泰、莫多婁貸文の首を東魏へ返した。
 十二月、西魏の是云宝が落陽を襲撃した。東魏の落州刺史王元軌は城を棄てて逃げる。
 西魏の都督趙剛は廣州を襲撃して、これを抜いた。
 ここにおいて、襄、廣以西の土地は、再び西魏の領土となった。 

  

財政逼迫 

 西魏では戦争が続き、民の負担は大変なもの。そこで、賦役から逃れる為、多くの民が僧尼になり、その数は二百万人を数え、寺院は三万余にも及んだ。ここにいたって、西魏では始めて詔が降りた。
「勝手に寺を建てる者がいれば、牧守や令長へ告ぐ。勝手に寺を建てる者がいたら、そのその資格を問い、法を以て正せ。」 

  

李延孫と韋孝寛 

 話は遡るが、伊川の土豪李長寿は防蛮都督となり、功績を積んで北華州刺史まで出世していた。孝武帝が西へ逃げた際、彼は手勢を率いて東魏の進攻を防いだので、西魏は彼を廣州刺史とした。後、侯景がこれを攻撃して城を抜き、彼を殺した。すると、子息の李延孫は、父親の兵卒をかき集めて東魏の軍勢相手に拒戦した。
 やがて、西魏の貴臣廣陵王欣や録尚書事長孫稚等は、家族ごと彼の元へ逃げ込んだので、李延孫は、護衛の兵を与えて、彼等を関中まで送り届けた。高歓はこれを憂え、李延孫を屡々攻撃したが、勝てなかった。
 西魏は、李延孫を、京南行台、節度河南諸軍事、廣州刺史へ任命した。
 李延孫は、伊、洛地方の守備を自分の任務として精励した。西魏は、彼の兵力が少ないので、李長寿の婿の法保を東洛州刺史に任命し、数百の兵を与えて、彼を助けさせた。法保は、任地へ着くと、李延孫と合流し、伏流へ柵を築いた。
 独孤信が洛陽へ入った時、彼は宮室を修繕しようと考え、外兵郎中の権景宣へ三千の兵を与えて木材を運ばせた。やがて東魏が進攻して河南の民が皆、西魏へ背くと、権景宣は間道を通って西へ逃げ、李延孫と合流し、孔城を攻撃して、これを抜いた。こうして、洛陽以南は、再び西魏の勢力圏へ入った。宇文泰は、権景宣をそこへ留めて張白塢を守らせると共に、西魏へ呼応する東南諸軍を彼の指揮下へ入れた。
 この年、李延孫が自分の長史の楊伯蘭に殺されたので、韋法保は、兵を率いて李延孫の柵へ入り、そこを守った。 

 東魏の将軍段深等が宣楊に據った。彼等は陽州刺史牛道恒を派遣して、西魏の辺境の民を東魏へ誘って回った。西魏の南コン州刺史韋孝寛は、これを憂慮した。そこで、牛道恒から韋孝寛へ宛てた帰順請願の書物を偽造し、これを間諜の手で段深の陣営へ届けさせた。 こうして、肴・縄地方は西魏の支配が確立した。 

 六年、東魏が西魏へ進攻したが、西魏が軍備を厳重にしたので、戦わずに帰った。 

  

辺将 

 七年、西魏の侍中宇文測が、大都督、行汾州事となった。
 宇文測は、宇文深の兄である。彼の政治は、簡潔で恩恵があり、士民の心を掴んでいた。
 さて、汾州は東魏との国境である。だから、東魏の人間が、屡々略奪にやって来ていた。宇文測は、彼等を捕らえると、いましめを解いて会見し、賓客へ対するように接して酒や肴を振る舞った。そして、食糧などを与えて東魏の国境内まで送り届けるのだ。
 東魏の人間は大いに恥じ入り、遂に襲撃しなくなった。
 こうして、汾州と晋州は修好し、お互い慶弔の使者が行き来するようになったので、時の人々はこれを讃えた。
 ある者がこの事実を宇文泰へ誣告した。
「宇文測は、東魏の人間と行き来しています。」
 すると、宇文泰は激怒した。
「宇文測は、我が為に辺境を安寧にしているのだ。その志は、我が良く知っている。お前如きが、我等一族を仲違いさられると思っているのか!」
 そして、通報者を斬り殺させた。 

  

東魏の経済 

 北魏が騒乱に陥ってから、農商が立ち行かないようになり、六鎮の民は相継いで内地へ移住し、斉や晋で食いしのぐようになった。高歓は、これを背景に覇業を達成したのである。
 だが、東西に分裂して連年戦争が続くと、河南の州郡も荒れ果ててしまい、民は困窮して、餓死する者も後を絶たなかった。
 そこで高歓は、諸州の浜や河や津に穀物倉を造るように命じ、飢饉の地方や軍隊へ即座に輸送できる体制を整えた。又、幽・瀛・滄・青の四州の海岸沿いで塩を作らせ、軍国の費用に充てた。
 こうして、東魏の経済は、なんとか持ち直し、民力も回復した。 

  

小康  

 八年、西魏で始めて六軍が設置された。
 八月、高歓が沛・絳から西魏へ進攻した。その大軍は、延々四十里も続く有様。
 宇文泰は、王思政へ玉璧を鎮守させ、敵の糧道を絶たせた。高歓は、王思政へ書を書いて、帰順を呼びかけた。
「もしも降伏したら、お前へヘイ州を与えよう。」
 すると、王思政は返書を出した。
「以前、可朱渾道元が降伏しましたが、彼へは何を与えましたか?」
 十月、東魏軍は玉璧を包囲した。九日後、大雪が降り、多くの士卒が飢えと寒さで死んでいった。そこで、高歓は包囲を解いて退却した。
 宇文泰は追撃を掛けたが、追いつかなかった。
 十一月、東魏は、可朱渾道元をヘイ州刺史とした。 

  

亡山の戦役 

 九年、二月。東魏の高仲密が虎牢関にて、西魏へ降伏した。西魏は、高仲密を侍中、司徒とする。
 宇文泰は、諸軍を率いて高仲密へ応じた。太子少傅李遠を前駆として洛陽へ入り、于謹へ柏谷を攻撃させて、これを抜いた。
 三月、河橋南城を包囲する。
 高歓は、十万を率いて河北へ出てきた。すると宇文泰は軍を退き、上流から火のついた舟を流し、河橋を焼き払おうとした。
 東魏では、斛律金が小艇百艘余りへ長い鎖を乗せて待ち受けた。そして、火のついた舟が流れてくると、鎖を向こう岸まで張って、その行く手を阻んだので、河橋は焼けずに済んだ。
 高歓は河を渡り、亡山へ據って陣を布き、そのまま数日留まった。宇文泰は、退却した場所へ輜重を留めたまま、夜半、亡山へ登って高歓を襲撃した。
 斥候が、高歓へ言った。
「賊軍は四十里の向こうから、乾飯を食べてやって来ました。」
 高歓は言った。
「それならば、勝手に渇死するぞ。」
 そして、陣を布いて待ち受けた。
 黎明、宇文泰軍と高歓軍が遭遇した。
 東魏の彭楽が数千騎を率いて右側から、西魏の北方へ突っ込んだ。彼が向かうところ、西魏軍は次々となぎ倒され、遂に西魏の本営まで突入した。
 この頃、「彭楽が造反した」とゆう流言が興り、高歓は激怒した。だが、たちまち西北から塵が巻き上がり、彭楽の部下が勝報を携えてやって来た。
「西魏の大都督の臨兆王東、蜀郡王栄宗、江夏王闡を始め、都督や将僚佐を合わせて四十八名捕らえました。」
 諸軍は勝ちに乗じて西魏を攻撃し、大勝利を収めた。斬った首級は三万余。
 高歓は、彭楽へ追撃を命じた。
 彭楽から追撃されて、宇文泰は言った。
「お前は彭楽ではないか?この痴れ者が!今日俺を生け捕ったら、明日からお前は、どうやって手柄を建てるのか!このまま陣へ帰って、今日の分の褒美を受け取るのが上分別だ。」
 彭楽はその言葉に従い、宇文泰から金帯一嚢を貰い受けて帰り、高歓へ報告した。
「取り逃がしましたが、宇文泰めの肝を潰してやりましたぞ!」
 高歓は、勝利は嬉しかったが、宇文泰を取り逃がしたこは立腹し、彭楽を地面へ平伏させると、その頭をひっつかみ、何度も地面へ叩きつけて沙苑での敗北を罵り、遂には刀を挙げて何度も振り下ろそうとまでしたが、歯がみして、何とか思い留まった。
 彭楽は言った。
「五千騎をください。必ず奴目を捕らえてきます。」
「思いつきで言っても、成果は出せまいよ。」
 高歓はそう答えて、絹三千匹を彭楽へ賜った。
 翌日、両軍は再び戦った。宇文泰は中軍、中山公趙貴が左軍、領軍若于恵が右軍。中軍と右軍が合流して東魏を攻撃して大勝利を収め、東魏軍の歩兵を悉く捕虜とした。
 高歓は馬を失った。すると、赫連陽順が馬を降りて高歓へ与えたので、高歓はその馬に乗って逃げた。付き従う従者は、僅かに七人。追撃が迫ると、親信都督尉興慶が言った。
「王よ、逃げたまえ。私は矢を百本持っています。これで百人殺せます。」
 高歓は言った。
「落ち着いたら、お前を懐州刺史にしてやるぞ。もしも死んだなら、お前の子息が州刺史だ。」
「いえ、我が子はまだ幼うございます。その時には我が兄を州刺史へ。」
 高歓はこれを許諾した。興慶は防戦し、矢を撃ち尽くして戦死した。
 西魏へ逃げ込んだ東魏軍士が、高歓の居場所を告げた。宇文泰は、三千人の精鋭兵を募って、大都督賀抜勝へ与え、攻撃させた。賀抜勝は、高歓の姿を見つけ、槊を持った十三騎で追撃する。数里ほど追撃し、槊が殆ど相手の体に触れるところまで追いついた。すると、賀抜勝は、槊で字を書いた。
「賀六渾(高歓の字)、賀抜破胡が、必ずお前を殺す!」
 高歓は、殆ど気絶寸前だった。
 その時、河州刺史劉洪徽率いる一隊が、一斉に矢を射込み、賀抜勝の部下の馬二騎に当たった。そして、武衛将軍段韶が、賀抜勝の馬を射殺した。賀抜勝が添え馬へ乗り換えているうちに、高歓は逃げてしまった。
 賀抜勝は嘆いて言った。
「今日、飛び道具を持たなかったのは、天命か!」
 西魏の南郢州刺史耿令貴が、大声で叫びながら一人で敵中へ乱入した。混戦になり、人々が「耿令貴は戦死した。」と言い合っていると、当の耿令貴は、奮戦しながら生還した。そのようなことが、前後四回。耿令貴は、大勢の敵兵を殺し、左右へ言った。
「殺人がどうして楽しかろうか!だが、壮士が賊を除くのだ。やむを得ないではないか。もしも賊徒を殺さず、賊徒から傷つけられもしないのでは、単なる禄盗人ではないか!」
 左軍の趙貴は、五回戦って、戦況不利だった。東魏軍は勢力を盛り返し、宇文泰も押され始めた。日が暮れる頃、西魏軍は遂に逃げ出した。東魏軍は追撃する。すると、独孤信と于謹が敗残兵をかき集めて、その背後を追った。これによって、東魏の追撃兵は混乱し、西魏の諸軍は壊走を免れた。
 若于恵は、夜半に撤退した。東魏軍は追撃する。すると、若于恵は徐かに下馬し、コックへ調理を命じた。そして、食べ終わると、左右へ言った。
「畳の上で死ぬのと、ここで死ぬのと、どこが違う!」
 そして、旗を建てて軍笛を鳴らさせ、敗残兵を収容しながら徐かに退却する。追撃兵は、伏兵を恐れて、敢えて迫らなかった。
 宇文泰は、遂に関中へ入り、渭上へ屯営した。
 高歓は、陜まで進軍した。宇文泰は、達奚武へ防戦させた。すると、東魏の行台郎中封子繪が高歓へ言った。
「東西の統一は、この一挙にあります。昔、曹操は漢中を平定しながら、勝ちに乗じて巴・蜀を併呑することができませんでした。ここで遅疑したら、悔いても及びません。どうか大王、お疑いなさいまするな。」
 高歓は深く頷いた。
 諸将を集めて軍議を開くと、ある者が言った。
「野には青草がなく、人馬は疲れ、痩せ細っております。遠くまで追撃することはできません。」
 陳元康が言った。
「両雄は、既に積年戦っております。今、幸いにも大勝しましたのは、天が我へ授けたのです。時を失ってはいけません。この機に乗じて追撃しましょう。」
 すると、高歓は言った。
「もしも伏兵がいたらどうすれば良い?」
「前回、王が沙苑で敗北しました時でさえ、奴等は伏兵を置きませんでした。ましてや今回、奴等は敗走しているのです。何でそこまで考えましょうか!もしも追撃しなければ、必ず後悔しますぞ!」
 だが、高歓は追撃しなかった。
(胡三省、曰く。私は思う。亡山の戦役では、両軍共に損傷が激しかった。言ってみるならば、双方共に敗れたのである。宇文泰は力屈して逃げ出したけれども、高歓も気力が衰えきっていた。この状況で、どうして敵領深く追撃できただろうか!) 

 宇文泰は、王思政へ虎牢を鎮守させようと思い、彼を玉璧から呼び寄せていた。しかし、王思政が到着する前に敗北してしまったので、結局、彼へは恒農を鎮守させることにした。
 王思政は、城へ到着すると、城門を開放させ、鎧を解いて横になり、将士を慰勉した。敵など畏れるに足らないと示したのである。数日後、劉豊生が城下へ来たが、彼等の余裕を憚って、攻撃せずに引き返した。
 王思政は、城郭を修繕し、高楼や櫓を造り、農田を開拓して食糧を蓄えた。これ以来、恒農の守備は堅固となった。 

 宇文泰は、官位を貶すよう自ら申し出たが、西魏帝は許さなかった。 

  

賀抜勝の死 

 十年、四月。高歓は、自国領内にいる賀抜勝の諸子を皆殺しにした。それを聞いた賀抜勝は、憤慨の余り卒してしまった。
 かつて、宇文泰は皆へ言ったことがある。
「諸将は、敵と対峙する時動揺が顔に出ているが、賀抜公だけは平時とちっとも変わらない。彼こそ真の大勇だ。」 

元へ戻る