東西魏、交々闘う  その一      亡山の戦い
 
皇帝急逝   

 西魏の孝武帝の一族には、傍若無人な者が多かった。
 孝武帝の従兄弟には、未婚の女性が三人居たが、彼女達は皆公主に封じられた。平原公主明月は、南陽王寶炬と実の兄弟だった。彼女は孝武帝と共に西遷したが、宇文泰は、元氏の諸王に彼女を捕らえさせて殺してしまった。孝武帝はムカついた。また、様々なことが積み重なり、遂に孝武帝と宇文泰の間に溝ができてしまった。 

 中大通六年(534年)十二月、癸巳。孝武帝は酒を飲んでいて急死した。毒が混ぜてあったのだ。享年二十五才。
 宇文泰は、群臣と共に次に擁立する皇帝について協議した。
 大半は廣平王賛を推挙した。彼は、孝武帝の兄の子である。すると、侍中の濮陽王順が、宇文泰を別室へ連れ出して、泣きながら言った。
「高歓は、先帝を追い出し、幼少の皇帝を建てて専断しております。殿はこれと反対のことをするべきです。廣平王は幼すぎます。もつと年長の君を立ててこれに仕えてください。」
 そこで、宇文泰は太宰の南陽王寶炬を立てた。
 孝武帝の殯は草堂仏寺で行われた。諫議大夫の宋球は慟哭のあまり血を吐いて、食べ物も水も数日間口にしなかった。しかし、彼は名高い儒学者だったので、宇文泰は彼を罰しなかった。
 大同元年(535年)西魏で南陽王寶炬が即位した。これが文帝である。大統と改元し、父親の京兆王を文景皇帝と追尊する。
 己酉、宇文泰は都督中外諸軍事、録尚書事、大行台に進級し、安定王に封じられた。だが、宇文泰が王爵と録尚書事を固辞したので、安定公に封じられた。
 文帝の妃の乙弗氏を皇后に立て、子息の欽を皇太子とする。皇后は思いやりがあって倹約家、嫉妬深くなかったので、文帝はとても大切にしていた。 

  

独孤信と可朱渾道元 

 賀抜勝が荊州に居た頃、武衛将軍の独孤信を大将軍に推挙していた。
 東魏が荊州を奪取すると、西魏は独孤信を都督三荊州諸軍事、尚書右僕射、荊州刺史に任命し、民を招懐させた。すると、荊城の民は密かに独孤信を呼び寄せた。独孤信はこれに応じて進軍し、東魏軍を蹴散らして三荊を平定した。
 閏月、東魏は高敖曹と侯景に荊州を攻撃させた。独孤信の兵力は少なかったので、彼は楊忠と共に梁へ亡命した。 

 魏の渭州刺史可朱渾道元は、もともと侯景陳悦へ従事していた。侯景陳悦が死ぬと、宇文泰がこれを攻撃したが、勝てなかったので、盟約を結んで兵を退いた。
 可朱渾道元は、代々懐朔に住んでいた。彼は高歓と仲が善く、彼の母方の叔父は、皆、業に住んでいた。だから、常に高歓と交遊があった。
 宇文泰が、再び可朱渾道元を攻撃しようとしたので、可朱渾道元は指揮下の民三千戸を率いて西北へ逃げた。これを聞いた高歓は、彼の元へ兵糧を送って招き寄せ、車騎将軍に任命した。
 可朱渾道元が晋陽へ来て、高歓は始めて孝武帝の崩御を知った。高歓は、国を挙げて喪に服そうと請願した。孝静帝が群臣へ協議させると、太学博士の潘祟和が言った。
「臣下を礼遇しない主君へ対して、喪へ服す義理はありません。ですから殷の湯王の民は夏のケツ王の為に哭しませんでしたし、周の武王の民は殷の紂追うの喪に服しませんでした。」
 しかし、国子博士の衛既隆と李同軌が言った。
「孝武帝の皇后は高歓の長女です。彼女は孝武帝の亡命に従いませんでしたが、まだ正式に縁を切ったわけではありません。喪に服すべきでございます。」
 東魏は、これに従った。 

  

豪傑王羆 

 東魏の大行台尚書の司馬子如が大都督竇泰と太州刺史韓軌を率いて潼関を攻撃した。対して、西魏の丞相宇文泰が覇上へ陣を布いた。
 司馬子如と韓軌は、軍を返して蒲津から渡河し、明け方、華州を攻撃した。この時、華州城は修繕が完成しておらず、城外に梯子が掛けられていた。そこで東魏軍はその梯子を登って城内へ突入した。
 華州刺史王羆は、この時まだ眠っていたが、閣外が騒がしいので起き出し、裸身裸足ザンバラ髪のままで大きな棍棒を持って大呼した。東魏の兵卒達は、これを見て肝を潰した。 王羆は、東門へやって来て左右を呼び集めて合戦し、東魏軍を撃破した。
 司馬子如は、ついに退却した。 

  

東魏の高歓 

 己巳、東魏は丞相の高歓を相国、仮黄鉞、殊礼としたが、高歓は固辞した。
 二月、東魏は、十万の人夫を動員して、洛陽の宮殿を解体し、その材木を業へ運び入れた。 

 高歓は、劉蠡升の娘を太子へ嫁がせると約束した。だが、これは偽りで、劉蠡升が油断しているのを見計らって、高歓はこれを攻撃した。
 三月、辛酉、劉蠡升の北部王が劉蠡升を斬り殺して降伏した。
 しかし、残党は子息の南海王を立てて抵抗したので、高歓は更に攻撃した。ついに南海王を始め、その皇后、諸王、公卿以下四百余人を捕らえ、華・夷併せて五万戸を併合した。
 壬申、高歓は業へ凱旋した。そして孝武帝の皇后(高歓の長女)を彭城王韶の妻とした。
 七月、東魏は七万六千人を徴発して業の都を新築した。僕射の高隆之と司空冑曹参軍辛術が監督し、業の南城を築いた。その大きさは、周囲二十五里。 

  

西魏の宇文泰 

 戦争が続くので、宇文泰は吏民が疲弊することを思い、古今の故事を斟酌して二十四条の新制を制定し、施行した。
 かつて、宇文泰は蘇綽を行台郎中へ抜擢していた。一年ほど経つと、台中の全ての人間が蘇綽の才覚を賞賛するようになり、疑事があると、皆、彼に裁断を仰ぐようになった。しかし、その事を、宇文泰はまだ知らなかった。
 ある時、宇文泰は僕射の周恵達と議論したが、周恵達は満足に答えきれなかったので、皆へ広く尋ねるよう請うた。そこで、官吏達へ議論させてみると、蘇綽が巧い回答を出した。周恵達が、その回答を宇文泰へ伝えると、宇文泰はそれを賞賛し、尋ねた。
「この回答を出したのは誰だ?」
「蘇綽です。彼には王佐の才があります。」
 そこで、宇文泰は蘇綽を著作郎へ抜擢した。
 又、ある時、宇文泰は公卿と共に昆明池で漁を行う事にした。
 道行きの途中、宇文泰が漢の倉池について尋ねたところ、誰も知る者が居なかった。そこで、宇文泰は蘇綽を召しだして尋ねてみた。すると、蘇綽は、つぶさに答えた。宇文泰は悦んで、天地造化の始まりや、歴代興亡の後を尋ねたが、蘇綽は全てによどみなく答えた。
 宇文泰と蘇綽は、馬を並べて進んだ。やがて一行は昆明池へ到着したが、宇文泰は蘇綽と語るのが面白く、遂に網を設けずに帰った。
 宇文泰は蘇綽を引き留め、夜になっても政事について語り明かし、寝床に入っても終わらなかった。蘇綽が政治の要諦を語ると、宇文泰は起き出して、衣服をただして聞き入った。遂に、君臣は朝まで語り明かした。
 翌朝、宇文泰は周恵達へ言った。
「蘇綽は真の奇士だ。吾は、彼へ政治を任せようと思う。」
 そして、大行台左丞に抜擢し、機密へ参典させた。
 以来、蘇綽の寵遇は日々篤くなっていった。
 蘇綽は文案程式や計帳や戸籍の法を発案し、これは後世遵用され続けた。
 五月、宇文泰に柱国大将軍の官職が加えられた。 

 七月、西魏は下詔して高歓の罪状二十を列挙し、かつ、言った。
「朕は六軍を親総し、丞相と共に凶醜を掃除する。」
 すると、高歓は西魏へ檄文を廻し、宇文泰や斛斯椿を叛徒と言い、かつ、言った。
「今、百万の兵を挙げ西討を諸将へ命じる。」
 西魏の秦州刺史王超世は、宇文泰の母方の親戚だったが、驕慢な性格で、賄賂を貪っていた。宇文泰は、これを法規通り裁くよう上奏した。
 十月、王超世は自殺させられた。
 同月、西魏の太師の長孫稚が卒した。 

  

  

両将の帰国。 

 趙剛が、蛮中から東魏の東荊州へ行き、刺史の李愍へ西魏へ帰順するよう説得した。李愍は、説得されて長安へ出向いた。 
 この功績で、趙剛は光禄大夫となった。
 趙剛は、梁へ亡命した賀抜勝と独孤信等を召還するよう宇文泰を説得した。そこで宇文泰は、趙剛を使者として、梁へ派遣した。
 さて、梁の武帝は、賀抜勝等を手厚く遇していたが、彼等が請願する東魏討伐については許諾しない。そこで、彼等は西魏への帰国を思うようになっていた。
 そんなある日、前の荊州大都督史寧は、賀抜勝へ言った。
「梁主は、朱異の言うことには、何でも従っています。ですから、まず、彼とよしみを結びましょう。」
 賀抜勝は、これに従った。
 二年、四月。朱異の口利きで、賀抜勝や史寧、廬柔等が西魏へ帰ることができた。
 この時、梁の武帝は、自ら南苑にて別れを告げた。賀抜勝は武帝の御恩を忘れず、以後、禽獣でも南を向いているものは射なくなった。
 一行が襄城まで行くと、高歓の命令で侯景が軽騎にて追撃してきた。これを知った賀抜勝等は、舟を棄てて山路を行った。彼等の従者達は、飢えと凍えで大半が死んでしまった。
 どうにか長安へ到着すると、彼等は闕を詣でて謝罪した。すると、西魏帝は賀抜勝の手を執り、歓んで言った。
「乗輿が都落ちしたのは、天命だ。卿の咎ではない。」
 宇文泰は、廬柔を従事中郎に抜擢し、蘇綽と共に機密に参与させた。 

 独孤信が北へ帰ることを許可されたのは、三年七月のことである。この時、独孤信の父母は山東に居たので、武帝が、東魏と西魏のどちらに帰るのか尋ねたところ、独孤信は言った。
「君に仕えたのです。私親を顧みて、二心を持ってはなりません。」
 武帝は、彼が義に篤いことを賞賛し、丁重に礼送した。
 独孤信は、楊忠等と共に長安へ到着すると、西魏帝へ謝罪文を上書した。
 独孤信には三荊を平定した功績があったので、西魏帝は、彼を驃騎大将軍、加侍中、開府儀同三司とし、それ以外の元の官職もそのまま遺留した。
 宇文泰は楊忠の勇を愛していたので、彼を自分の帳下へ配置した。 

  

小競り合い 

 二年、正月。高歓は自ら万騎を率いて西魏の夏州を攻撃した。
 彼は四日間、火の通った物も食べずに急行し、矛を縛って梯子を作り、夜間、夏州城へ侵入した。刺史の斛抜俄彌突を捕らえる。
 都督の張瓊へ城の守りを任せ、部落五千戸を引き連れて帰った。 

 同月、西魏の霊州刺史曹泥が、婿の涼州刺史劉豊と共に東魏へ降伏した。
 これを知った西魏は、城を包囲し、水攻めとした。水浸しとなった城内は、水面から僅かに四尺しか出ていない有様。
 東魏は、阿至羅へ三万の兵を与えて救援に派遣した。阿至羅軍が西魏の後方へ出たので、西魏軍は退却した。
 高歓は曹泥と劉豊を迎え入れ、五千戸を東魏へ連行した。劉豊を、南汾州刺史とする。 

 四月、西魏の秦州刺史万俟普と、その子息で太宰の万俟洛、タク州刺史の叱干宝楽、右衛将軍破六韓常が部下の将三百人を率いて東魏へ亡命した。
 西魏の丞相宇文泰は軽騎でこれを追ったが、追いつけずに帰った。 

  

会戦 

 十二月、高歓は諸軍を督して西魏討伐を敢行した。まず、司徒の高敖曹を上洛へ、大都督の竇泰を潼関へ派遣した。 

 三年、高歓は蒲坂へ浮き橋を三つ作って黄河を渡ろうとした。
 宇文泰は廣陽へ陣を布いて諸将へ言った。
「賊徒共は我等を三方から攻撃している。今、奴等は浮き橋を造って渡河しようと見せかけているが、これは囮だ。その真意は、竇泰を西進させることにある。竇泰は、高歓が起兵して以来、常に先鋒を努めてきた将軍である。その麾下には鋭卒も多く、屡々戦勝しているので、心が驕っている。今、彼等を襲撃すれば、必ず勝てる。竇泰に勝てば、高歓は戦わずに逃げる。」
 諸将は皆、言った。
「近くに賊軍が居るのに、これを捨てて遠くの賊軍を攻撃するのですか。それでは、蹉跌があったら悔いても及びませんぞ!兵を分けて防御もしましょう。」
 だが、宇文泰は言った。
「高歓は二度、潼関を攻撃したが、我が軍は二度とも覇上を守るだけで、討って出たりしなかった。今、敵は我等を軽く見ている。その隙に乗じて攻撃するのだ。負ける筈がない!賊軍の浮き橋はまだ完成していない。あと五日は攻撃はないぞ。その間に、我等は竇泰を撃破できる!」
 行台左丞の蘇綽と、中兵参軍の達溪武が、これに同意した。
 こうして、宇文泰は長安へ戻ったが、諸将の意向には、なお、異同があった。宇文泰は、真意を隠して族子の宇文深へ尋ねてみた。すると、宇文深は言った。
「竇泰は、高歓の驍将です。今、大軍で蒲坂を攻撃しています。高歓と対峙していたら、この軍が駆けつけてきて、我等は腹背に敵を受けます。これは危道です。ここは、軽鋭を選んで密かに小関から出撃させるべきです。そうすれば、あの性急な竇泰は、必ずや決戦を挑んできます。高歓が自重して救援に駆けつけずにいる間に我等が竇泰を急撃すれば、必ず擒にできます。竇泰を捕らえれば、高歓軍は救けがなくなりますので、我等が軍を返してこれを撃てば、勝利を得ることができます。」
 宇文泰は言った。
「それこそ我が心だ。」
 こうして、軍略は決した。彼等は、隴右を確保すると宣伝しながら、その実、密かに軍を東へ移動させ、小関へ出た。敵軍の進軍を聞いた竇泰は迎撃に出たが、宇文泰はこれを撃破。竇泰軍の兵卒を悉く捕らえた。竇泰は自殺、その首は長安へ届けられた。
 黄河の氷が薄かったので、高歓は救援を果たせず、浮き橋を撤収して退却した。殿は、儀同の薛孤延。彼は、追撃してくる西魏軍相手に奮戦した。一日に十五本もの刀がへし折れる程の激戦の末、東魏軍はどうにか退却できた。
 高敖曹は、商山から転戦して進む。向かうところ敵はなく、遂に上洛まで攻撃した。すると、住民の泉岳と弟の泉猛略、そして杜出(「穴/出」)がこれに内応しようとした。だが、洛州刺史泉企はこれを察知し、 泉岳兄弟を殺した。杜出は高敖曹のもとへ逃げ込めたので、敖曹は、彼を郷導として上洛を攻撃した。この攻撃で、高敖曹は流れ矢に当たった。三本の矢が体に突き刺さり、落馬して気絶していたが、やがて意識を取り戻し、再び乗馬した。
 泉企は、旬日余りも城を固守した。彼の二人の子息泉元礼と泉仲遵も力戦して敵を阻んだ。だが、泉仲遵は目を傷つき、それ以上戦うことができず、城も遂に陥落した。
 泉企は、敖曹へ言った。
「我は、ただ力が屈しただけだ。心服したわけではない。」
 敖曹は、杜出を洛州刺史に任命した。
 敖曹は、思いの外重症だった。彼は言った。
「弟の季式が刺史となったところを見れないのが恨めしい。」
 それを聞いた高歓は、高季式を済州刺史とした。
 敖曹は、藍田関まで進軍したがったが、高歓が使者を派遣して伝えた。
「竇泰軍は壊滅し、人心は動揺している。速やかに帰還せよ。途中は賊軍で溢れている。単身で帰還しても構わない。」
 だが、敖曹は部下を捨てて行くに忍びず、全軍で力戦しながら帰還した。この時、泉企と泉元礼は、自らこれに従軍したが、泉仲遵は重症で随行できなかった。
 泉企は二人の子息を戒めた。
「我の余生は幾ばくもないが、お前達は若く才覚もある。功績を建てることもできるはずだ。我が東魏へ行ったとて、臣下としての節義を汚してはならない。」
 そこで、泉元礼は途中で逃げ出した。
 もともと、泉氏も杜氏も土豪だったが、郷人は泉氏を重んじ、杜氏を軽んじた。そこで、泉元礼と泉仲遵は豪右と結託して杜出を襲撃し、これを殺した。西魏は、泉元礼へ落州刺史を世襲させた。 

  

恒農攻防 

 宇文深は常々、宇文泰へ恒農攻略を勧めていた。
 八月、宇文泰は李弼等十二将へ東魏討伐を命じた。先鋒は、北ヨウ州刺史于謹。彼は磐豆を攻撃し、これを抜いた。
 庚寅、恒農を抜き、東魏の陜州刺史李徽伯を捕らえ、敵兵八千を捕虜とする。
 この時、河北の諸城の大半は東魏へ帰属していた。ところで、西魏の左丞の楊標は、かつてショウ郡白水令だった楊猛の子息である。その関係で、彼はショウ郡の豪傑達をよく知っていたので、彼等を説得して回ってショウ郡を攻略すると申し出た。宇文泰はこれを許可する。
 楊標は、土豪の王覆憐等と共に挙兵して、ショウ郡を攻略し、県令四人を斬った。そして、王覆憐をショウ郡太守とするよう上表し、更に近隣の城堡を説得して回った。すると、一ヶ月もしないうちに、多くの城堡が西魏へ寝返った。
 東魏は、東ヨウ州刺史司馬恭へ正平を鎮守させていた。西魏の司空従事中郎聞喜裴がこれを攻撃しようとすると、司馬恭は城を棄てて逃げた。
 宇文泰は、楊標を行正平郡事に任命した。 

  

亡山の戦い 

 閏九月、高歓は二十万を率いて壺口から蒲津へ向かった。高敖曹へは三万の兵を与えて河南へ出撃させた。
 この時、関中は飢饉で、宇文泰の麾下の兵力は一万もなかった。恒農へ五十余日分の兵糧を備蓄していたが、高歓が河を渡ったと聞いて、関中まで撤退した。
 敖曹は、遂に恒農を包囲した。
 高歓の右長史薛叔が高歓へ言った。
「西軍は、連年飢饉続き。ですから、決死の覚悟で陜州へ攻め込み、倉粟を奪おうとしているのです。今、敖曹は既に陜城を包囲しました。奴等は倉粟を奪えません。ですから、諸道へ兵卒を置いて堅守するだけで充分です。野戦をしなくても、秋になれば奴等は飢えます。その民が餓死寸前になれば、西魏帝も宇文泰も降伏するに決まっています!どうか、河を渡らないでください。」
 侯景は言った。
「今回の挙兵は大軍です。これで万が一勝てなければ、収拾がつかなくなります。ここは全軍を二分して、相継いで進軍するべきです。もしも前軍が勝てば後軍は全力で戦えますし、前軍が負けても後軍で形勢を立て直せます。」
 だが、高歓は従わず、蒲津から渡河した。
 宇文泰は、華州刺史王羆のもとへ使者を派遣して、彼を戒めた。すると、王羆は使者へ言った。
「老羆が道に横たわっているのだ。狢子がどうして通れようか!」
 高歓は馮翊城下へ至ると、王羆へ言った。
「さっさと降伏しろ!」
 すると、王羆は大呼した。
「この城は、俺の墓だ。死ぬも生きるもここにある。死にたかったらやって来い!」
 高歓は、攻撃するしかないと悟り、洛水を渡って許原の西に陣を布いた。
 宇文泰は、渭南で州兵を徴集したが、なかなか集まらない。それでも宇文泰は進軍して高歓と戦おうとした。諸将は言った。
「この兵力では、衆寡敵せずと申すもの。高歓が更に西へ進むのを待ち、その状況で判断しましょう。」
 すると、宇文泰は言った。
「もしも高歓が長安へ入ったら、人心は大いに乱れ、手が付けられなくなる。それに、奴等は遠征したばかりで疲れている。この機を逃してはならない。」
 そして、渭水に浮き橋を造り、全軍へ三日分の兵糧を携行するよう命じ、軽騎で渭水を渡った。輜重は、渭南から運ぶ。
 十月、宇文泰は沙苑へ到着した。東魏から六十里離れて陣を布く。諸将は皆、恐れたが、宇文泰一人祝賀した。諸将が訳を問うと、宇文泰は言った。
「高歓は河北を鎮撫して、衆心を得ている。だから、ここを基盤にして守備を固められたら容易には図れない。ところが、今、高歓は大軍で遠征してきた。しかも、それは衆人の望みではない。ただ高歓一人、竇泰を失ったことを恥じて諫言も聞かずに進軍してきた。いわゆる、『忿兵』とゆう奴だ。(漢の魏相が言った。「つまらない事を争って、憤怒を我慢できずに挙兵した者。これが忿兵である。忿兵は、敗れる。)この一戦で擒にできる。それが明白なのに、どうして祝賀せずにいられようか!ここで宇文深の一隊を借り、王羆へ退路を立たせて、敵を一人も取り逃がすな。」
 宇文泰は、須昌県公の達奚武へ高歓軍を偵察させた。
 奚武は、三騎を従え、揃って高歓軍の扮装をして、日暮れに出発した。彼等は、まず、陣営から数百里離れた所で下馬し、密かに敵軍へ入って合い言葉を盗み聞きした。そして、馬に乗って堂々と敵陣を回ったが、警備兵相手には合い言葉を言ったので咎められず、敵状をつぶさに知ることができた。
 宇文泰の進軍を知った高歓は、会戦するべく進軍した。そこで宇文泰は諸将を集めて軍議を開いた。すると、李弼が言った。
「敵は大軍、我等は小勢。ですから平地で戦ってはいけません。ここから東方十里のところに、渭曲があります。まず、ここに據って敵を待ち受けるべきです。」
 宇文泰はこれに従い、水を背にして東西に陣を布いた。右の防ぎは李弼、左の防ぎは趙貴。将士へ対しては、戈を中へ隠し、軍鼓を聞いたら一斉に立つよう命じた。
 東魏軍が渭曲へ到着すると、都督の斛律キョウ挙が言った。
「宇文泰は国を挙げて進軍して来ました。これは死力を尽くして一気に勝敗を決しようとしているのです。鼠でさえ、追い詰められたら猫を噛みます。それに、渭曲はが深く、地面はぬかるみ。これでは戦いようがありません。ですから、一隊がここで宇文泰軍とゆっくり対峙している間に、精鋭兵で長安を急襲しましょう。その本拠地を落とせば、宇文泰は戦わずに捕らえられます。」
 高歓は言った。
「焼き払ったらどうかな?」
 すると侯景、
「宇文泰は捕らえて、百姓へさらし者としなければなりません。もしも人混みの中で焼け死んだなら、誰がそんなことを信じましょうか!」
 彭楽は、闘志をみなぎらせて、
「我等は大軍、敵は小勢。百人掛かりで一人を捕らえるのです。何で負けましょうか!」
 高歓は、これに従った。
 東魏兵が望み見ると、西魏の兵力はほんの僅か。彼等は先を争って進撃したので、隊列は大いに乱れた。
 戦端が開かれるや、宇文泰は軍鼓を鳴らした。すると西魏兵は、皆、奮い立った。于謹等六軍が敵と合戦しているのを、李弼が横合いから鉄騎で襲撃する。東魏軍は真ん中から二分され、遂に大敗した。
 李弼の弟の李標は小柄だけど勇敢。馬を跳ねさせる度に、鞍の陰に身を隠し、敵を襲撃する。だから、李標を見た敵兵は、皆、言った。
「あの小男から逃げろ!」
 宇文泰は感嘆した。
「肝っ玉があのようだったら、なんで八尺の体が要ろうか!」
 征虜将軍の耿令貴は傷が多く、鎧が真っ赤に染まった。それを見て、宇文泰は言った。
「その鎧を見たら、卿の武勇が判るぞ。挙げた首級など見る必要はないな。」
 東魏の彭楽は戦勝に酔って、敵陣深く進みすぎた。そして敵に刺されて内蔵が飛び出したが、彼はそれを傷口の中へ押し込んで、更に戦った。
 高歓は兵を結集して戦線を立て直そうと考え、各陣営へ使者を放ったが、応じる者が居ない。使者は戻ると高歓へ言った。
「衆人は皆逃げ去り、陣営は全て空っぽです!」
 それでも、高歓はなお退却を肯らなかった。すると、阜城侯の斛律金が言った。
「衆心は離散し、修復できません。急いで河東へ向かうべきです。」
 だが、高歓は鞍に跨ったまま動かない。そこで斛律金は馬を鞭打って走らせた。
 この戦いで、東魏は武装兵八万人を失い、鎧や武器十八万を遺棄して行った。
 宇文泰は、高歓を河上まで追撃した。ここで武装兵二万人を選抜して留め、残りの者は帰らせる。都督の李穆が言った。
「高歓は肝を潰しています。速やかに追撃すれば捕らえられます。」
 だが、宇文泰は聞かなかった。(胡三省、曰く。沙苑の戦役では、宇文泰は高歓を追撃せず、亡山の戦役では、高歓は宇文泰を追撃しなかった。けだし、二人の智力は伯仲していた。これが天下が二分されて統合されなかった理由である。)
 侯景が高歓へ言った。
「宇文泰は大勝した直後です。きっと驕って警備をしていません。どうか精鋭二万人をお貸し下さい。必ずややっつけて見せます。」
 高歓は、婁妃へ相談した。すると、婁妃は言った。
「そんなことをすれば、侯景は絶対帰って来ません。宇文泰をやっつけても侯景が自立するのでは、何の利益がありましょうか!」
 そこで、請願は却下された。
 この戦勝で、宇文泰には柱国大将軍の称号が加えられ、李弼等十二将も、各々爵位が進み食邑が増封された。 

 高敖曹は、高歓の敗戦を聞き、恒農の包囲を解いて洛陽まで退却、これを保持した。
 西魏の行台の宮景寿等が洛陽へ向かったが、東魏の洛州大都督韓賢が撃破した。州民の韓木蘭等が造反したが、これも韓賢が撃破した。
 この時、賊徒の一人が死体の間に隠れていた。韓賢が自ら戦利品の鎧や武器を漁っていると、彼は突然飛び出して、韓賢のすねを砕き、殺した。 

 西魏は、再び洛陽攻略を敢行し、馮翊王李海と独孤信へ二万の兵を与えた。又、洛州刺史李顕は三荊へ赴き、賀抜勝と李弼は蒲坂を包囲した。
 ところで、高歓が西伐を行った時、蒲坂の民敬珍が、いとこの敬祥へ言った。
「高歓は、乗輿を追い払った。それだけでも、天下の忠義の士は、皆、奴を殺しても飽き足らなく思っているのに、今、更に西進している。兄上、共に起兵してその退路を断とうではありませんか。これこそ、千載一遇のチャンスです。」
 敬祥は、これに従い、郷里の住民を煽動したところ、数日で一万余りの兵力が集まった。高歓が沙苑で敗北すると、彼等はその敗軍を襲撃し、大勢の東魏兵を斬獲した。
 賀抜勝と李弼が河東へ到着すると、敬珍と敬祥は六県十余戸を率いて帰順した。宇文泰は、敬珍を平陽太守に、敬祥を行台郎中へ抜擢した。 

 蒲坂を守るのは、東魏の秦州刺史薛祟礼。彼の一族に別駕の薛善とゆう男がいたが、彼は薛祟礼へ言った。
「高歓は、主君を追放した罪人です。私と兄上はともに衣冠を享受し、代々御国の御恩を蒙った身の上。今、大軍が既に来寇していますのに、なお高氏の為にこの城を固守するのですか。いったんこの城が落城すれば、我等の首は長安へ送られ、逆賊と罵られるのですぞ。これこそ、『死んで、なお余愧あり』とゆう奴です。ですが、今、帰順したならば、まだ間に合うでしょう。」
 だが、薛祟礼はグズついて決断できなかった。すると、薛善は一族の人間と共に関所を斬って西魏軍を迎え入れた。薛祟礼は逃げ出したが、捕らえられた。
 宇文泰は、蒲坂まで進み、汾・絳をほぼ平定した。薛善と共に開城へ協力した人間には。全て五等爵を与えた。だが、薛善は言った。
「逆に背いて順へ帰順するのは臣子として当然のことです!」
 そして、弟の薛慎とともに、固辞して受けなかった。 

 東魏の行晋州事の封祖業は、城を棄てて逃げた。すると、儀同三司の薛修義が追いかけて行って、引き返して城を守るよう説得した。だが、封祖業は従わない。しかたがないので薛修義は単身で戻って晋州城を守った。
 西魏の儀同三司長孫子彦が兵を率いて城下まで来ると、薛修義は城門を開き、武装兵を伏兵として待ち受けた。長孫子彦は、まんまと計略にはまり、敗走した。
 高歓は、薛修義を晋州刺史に任命した。 

 独孤信が新安へ到着すると、高敖曹は兵を率いて河を渡って北へ逃げた。
 独孤信は洛陽へ迫る。洛州刺史の廣陽王甚は城を捨てて業へ帰った。独孤信は遂に、金庸城へ據った。
 かつて、孝武帝が西へ逃げた時、散騎常侍の裴寛は弟達へ言った。
「天子が西へ逃げられた。我が、どうして高氏へ東附できようか。」
 そして、家族を連れて大石嶺へ逃げ出していた。
 独孤信は、入洛すると、彼等を見つけだして登庸した。
 この時、洛陽は荒廃し、人士は流散していた。ただ、柳蚪は陽城にも裴諏之は穎川に住んでいたので、独孤信は彼等を徴用し、柳蚪を行台郎中へ、裴諏之を開府属へ抜擢した。
 東魏の穎州長史賀若統は刺史の田迄を捕らえ、城ごと西魏へ降伏した。西魏の都督梁迥は入城してこれに據った。
 さきの通直散騎侍郎の鄭偉は陳留て挙兵して東魏の梁州を攻撃し、刺史の鹿永吉を捕らえた。前の大司馬従事郎崔彦穆は栄陽を攻撃し、太守の蘇椒を捕らえ、廣州長史劉志と共に西魏へ降伏した。鄭偉は、鄭先護の子息である。宇文泰は、鄭偉を北徐州刺史へ、崔彦穆を栄陽太守へ任命した。 

 十一月、東魏の行台任祥が、督将の堯雄、趙育、是云寶を率いて穎川を攻撃した。宇文泰は、大都督の宇文貴と楽陵公の怡峯へ二千の兵を与えて救援に向かわせた。彼等が陽テキへ到着した時、堯雄軍は既に穎川へ三十里の所まで迫っていた。後続の任祥本隊は、兵力四万。諸将達は言った。
「多勢に無勢です。戦争になりません。」
 すると、宇文貴は言った。
「堯雄等は、我等の少数を見て、まさか進軍するとは思うまい。それに、奴等が任祥軍と合流して穎川を攻撃したら、持ちこたえられない。もしも賀若統が陥落したら、我等はここまで何をしに来たのか!進軍あるのみ。城があれば拠点にして守れるし、敵の不意を衝くのだ、必ず勝てる!」
 そして、全速力で穎川へ向かい、城を背にして陣を布いた。
 堯雄等が到着すると、これと戦い、大勝利を収めた。堯雄は敗走し、趙育は降伏した。捕らえた士卒は万余人。これらは、悉く逃がしてやった。
 任祥は、堯雄の敗北を聞いて、敢えて進まなかった。宇文貴と怡峯は、勝ちに乗じてこれへ迫り、任祥は宛陵まで退却した。宇文貴はこれを追撃し、任祥軍は大敗した。是云寶は、東魏の陽州刺史那椿を殺し、州ごと西魏へ降伏した。
 この手柄で、宇文貴は開府儀同三司となった。又、降伏した是云寶と趙育は車騎大将軍に任命された。
 西魏の都督韋孝寛が、東魏の豫州を攻撃してこれを抜き、行台の馮邑を捕らえた。
 十二月、西魏の行台楊白駒と、東魏の陽州刺史段粲が戦い、西魏が破れた。
 西魏の荊州刺史郭鸞が、東魏の東荊州刺史慕容儼を攻撃した。慕容儼は、二百日に亘って、昼夜防戦した後、隙を見て出撃し、郭鸞軍を撃退した。 

 この頃、河南の諸州の大半は西魏へ制圧されていたが、東荊州のみ、東魏へ服属していた。
 東魏の済州刺史高季式は、千余人の私兵と馬八百匹を擁していた。この頃、濮陽で賊徒が一万近くの部下をかき集めて暴れ回っていたので、高季式は三百の兵を派遣して、一戦で賊首を捕らえた。又、陽平で暴れていた賊徒も掃討し、悉く捕らえた。これによって、遠近は粛然となった。
 ある者が言った。
「濮陽も陽平も、畿内の郡だ。そのような重要な場所で、詔も奉っていないのに私兵を動かすとは何事か!もしも敗戦したら、罪は重いぞ!」
 すると、高季式は言った。
「お前は何と不忠な奴だ!我と国家は、安危を共にしているのだぞ。賊が居るのに、どうして討たずに居られようか!それに、賊軍達は、台軍が疲弊して討伐に来れない事を知っていたのだ。その上、外州からも討伐軍が来る筈がないと多寡を括り、警備も怠っていた。その隙に乗じて攻撃すれば、必ず撃破できる。賊徒を掃討できたなら、たとえ罪に落とされても望むところだ!」 

 四年、東魏の大都督賀抜仁が、西魏の南汾州を攻撃した。南汾州刺史韋子粲は、降伏した。すると宇文泰は、韋子粲の一族を皆殺しにした。
 東魏の大行台候景等が、虎牢で閲兵を行った。河南諸州を回復する為の示威行為である。西魏の梁迥、韋孝寛、趙継宗等は、皆、城を棄てて西へ逃げた。
 候景は、廣州を攻撃した。だが、まだ抜かないうちに、西魏から救援軍が来るとの風聞が立ったので、彼は諸将を集めて軍議を開いた。すると、行洛州事の廬勇が偵察を買って出て、百騎を率いて進んだ。
 廬勇軍は、大隗山にて西魏軍と遭遇した。この時、既に日が暮れていたので、廬勇は多数の旗指物を樹々の間に立てさせた。そして、夜半、十隊に分かれて軍鼓を盛大に鳴らしながら襲撃した。西魏軍はパニックに陥り、大敗北を喫した。
 廬勇は、西魏の儀同三司の程華を捕らえ、王征蛮を斬り殺して引き返した。
 廣州守将の駱超は遂に降伏した。
 高歓は、廬勇を行廣州事へ抜擢した。廬勇は、廬弁の子息である。
 これによって、南汾、穎、豫、廣の四州は、再び東魏の版図へ入った。
 ところで、沙苑の敗北の後、高歓は大丞相の職の解任を申し出、受諾されていた。三月、高歓は再び大丞相へ任命された。 

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