宋の穆公、殤公を立てる。

(春秋公羊伝)

 宋の宣公が弟に言った。
「俺はお前よりも、息子の与夷を愛している。しかし、国のために考えるなら、与夷よりもお前の方が統治能力に優れているのだ。」
 そして、臨終の際、爵位を弟へ譲った。こうして、穆公が即位した。
 穆公は臨終に及んで、兄の息子である与夷へ爵位を返そうと思った。そこで穆公は二人の息子、馮と朝を国外へ追放した。すると与夷は言った。
「父君が私ではなく叔父上へ爵位を与えましたのは、この国を叔父上へ譲るつもりだったのです。今、叔父上は二人のご子息を追放してまで私へこの国を返そうとなさいましたが、これは我が父君の心に背いております。それに、爵位を譲らない息子を追放しなければならないとしたら、父君も私を追放した筈です。」
「いいや、そうではない。兄上がそなたを追放しなかったことからも、その心が判るではないか。私は摂政に過ぎなかったのだ。この国はお前に返すべきだ。」
 こうして与夷は即位させた。これが殤公である。
 後、馮は殤公を殺して爵位を奪還した。
 事件について、公羊氏は次のように批評した。
「君子は正を守ることが大切なのだ。宋のこの禍は、宣公が生んだのだ。」

(博議)

 人々は奇をてらうことを喜ぶが、君子はそうではない。人々は高尚な行いを慕うが、君子はそうではない。しかし、君子と言ってもその心情は常人と変わらないのだ。それなのに、愛憎がどうして正反対なのだろうか?それには理由がある。
 凡そ、「常」でない物を「怪」と言う。「中(丁度善い程度)」でないものを「偏る」と言う。古より今に至るまで、「常」はただ一つであり、北から南に至るまで、「中」はただ一つしかない。常人は「常」の他に「奇」を求めるが、これも結局は「怪」の一種に過ぎない。同様に常人は「中」の他に「高」を求めているが、これも結局は「偏」の一種に過ぎないのである。つまり、人々の言う「奇抜」は、君子の言う「奇怪」であるし、人々の言う「高尚」は、君子の言う「偏り」に他ならないのだ。
 例を挙げて説明しよう。

 「最高に貴い物」と言えば、金だろう。逆に、「ありきたりの物」と言えば穀物がそうだ。だが、考えてみよう。穀物を食べれば生きてゆけるが、金を食べたところで餓死するのが落ちではないか。この一件からも、「常」に背く弊害が判るだろう。
 又、百里離れた都市へ行くのに千里進んだら、却って遠くなってしまうではないか。努力すればするほど、目的地から益々離れて行ってしまう。「過ぎたるは及ばざるが如し」と言うが、まさしく、やり過ぎたら「中」を守れないのだ。
 君子は、困難を乗り越えることを貴ばないし、説教では明察な観点を貴ばない。そして、政治を執っても戦争をしても抜群の功績などはない。それは何故か?奇抜を厭い、高尚を畏れているからである。
 奇抜が本当に奇抜だったら、君子は率先してそれを行っているし、高尚が本当に高尚だったら、君子は率先してそれを行っている。しかし君子は、現実には逡巡して遂に行わない。それは「奇」を愛さないのではなく、「怪」を愛さないのだ。「高」を愛さないのではなく、「偏」を愛さないのだ。そうでなければ、赫々たる功績を避け碌々たる凡人に甘んじるなど、人情に反しているではないか。

 さて、国君がその地位を子供へ伝えるのは常道であり、「中」に叶っている。しかし、宋の宣公は考えた。
゛そんなもの当たり前で人から誉められない。しかし、子供を差し置いて弟へ伝えれば、奇特な人だと誉められるだろう。情に溺れない高尚な人だと誉められるだろう。゛
 こうして爵位は穆公へ伝えられ、その為に彼は自分の子供を追放する羽目になってしまった。そしてその穆公も同様の過ちを犯して殤公へ伝え、その為に殤公は殺されてしまったのである。この事件について公羊氏は、「君子は正を守ることが大切なのだ。宋のこの禍は、宣公が生んだのだ。」と評したが、けだし、この言葉が全てを言い表している。

 さて、ここで私は宣公の心をもう少し突っ込んで考えてみた。彼は多分、次のように考えたのだろう。
゛領主が親子代々国を伝えて行くのは聖人の決めた掟だが、それは常人の為に決めた掟なのだ。伝説の聖王として讃えられている尭も舜も自分の息子をさておいて優秀な人間へ国を譲ったではないか。してみると、息子へ国を譲るとゆうのは常人に甘んじるとゆうことだ。それよりも、尭や舜の至奇至高の行いを慕うべきではないか。゛
 しかし、これは甘い考えである。「常」でなければ「道」ではなく、「中」でなければ「道」ではない。
「賢者に国を譲る」とゆうのは普通の人から見れば異常であり、立派だとか高尚だとか誉めるけれども、尭や舜から見れば当たり前のことで、ことさらに奇をてらったり高尚ぶったりしているわけではないのだ。

 昔、烏獲とゆう勇者がいて、万斤の重さの鼎でも易々と持ち上げた。人々はそれを見て勇者と讃えたが、彼にとってそれは普通のことに過ぎなかった。海女は千尋の淵深くまで潜る。人々はこれを神業と驚くが、彼女たちにとっては普通のことをしているに過ぎない。宋の領主達は常人であり、その人格能力は聖王たる尭や舜には遠く及ばない。それにも関わらず、彼等の上辺の行いだけを真似したのだ。それは、弱者が烏獲の鼎を持ち上げ、幼子が千尋の淵へ入るようなもの。悲惨な結果になるのも当然である。 

(訳者曰く)

 この論文は、「春秋公羊伝」を元にしている。
 「春秋」の解説書として一般に流布しているのは「春秋左氏伝」である。私も、かつては「左氏伝」だけしか読んでいなかったので、この宣公批判には疑問があった。今回、「公羊伝」をひもといてみれば、前述のように記載されていた。これならばこの論述にも納得できる。

 参考の為に、この事件について「春秋左氏伝」の記載を一部載せてみよう。

−前略−
 穆公は二人の息子を国外へ追放して、殤公を即位させた。これについて君子は評した。「宣公には人を見る目があった。結局は自分の子供へ爵位が戻ったのだから。それとゆうのも、義に従って賢者へ譲ったからだ。」
 さて、殤公の時代、華父督とゆう重臣が居たが、彼がある時孔父の妻を見て岡惚れしてしまった。結局、華父督は孔父を殺してその妻を略奪した。それを聞いて殤公が憤慨したので、懼れた華父督は却って兵を挙げて殤公を殺し、国外から馮を呼び返して即位させた。
 この事件について孔子は「華父督が殤公を殺し、その巻き添えで孔父まで殺された。」と記している。これは、「もともと華父督が主君を蔑ろにしていたからこそこのような暴挙ができたのだ」と判断し、「全ての罪は殤公の不甲斐なさにある」とそしったのである。
 更に、殤公は即位して十年間に十一回も戦争をしたので、民衆は重税に苦しんでいた。孔父は将軍だったので、華父督は、「孔父が殤公を焚き付けて戦争ばかり起こさせるのだ。」と宣伝しておいた。
 馮を即位させると、華父督は、近隣の諸国へ篤く賄賂を贈り、今回の事件を承諾させた。こうして、彼はまんまと宰相の地位を得たのである。 

 「春秋」が編纂されたのはこの事件が起こってから二百年以上も後のことだから、細かい記述がどこまで信じられるかは判らない。二つの解説書の間に多少のズレがあるのは当然だろう。

 さて、「公羊伝」を読むと、与夷(殤公)は爵位を辞退しただけではなく、叔父が息子を追放したことまで気遣っている。その彼が馮に殺されたのだから、公羊氏は宣公の行動を罪として非難しているのだ。これは十分に納得できる。
 しかし、「左氏伝」では違う。殤公は部下を掌握できなかった愚君だから部下から足下をすくわれたのであり、十年に十一回も戦争を行う暴君だから見放されたのだ。殤公はあくまでその資質が劣っていた為に殺されたのであり、馮に殺されたわけではない。むしろ、父親の宣公が爵位を譲らなかった判断こそ正しかったと思ってしまう。
 それに、周の前の殷代には兄弟相続が「常」であり、殷の末裔である宋では周代に入っても兄弟相続の風習が残っていたことを考えると、「宣公は奇をてらって弟へ爵位を譲った」とは思えない節もある。
 大体、日本人の感覚から言えば「例え無能でも絶対に息子へ譲らなければならない」とゆう儒教の制約も、かなり縁遠い物である。もっとも、この制約は儒教の根幹に関わっており、それに対する論文は「東莱博議」には多数排出する。中にはかなり説得力の強い物もあり、その類の論文は儒教精神理解の一助ともなるだろう。しかし、この時代にはまだ儒教思想が体系化していなかったので、彼が論じたような「親子で相続するのが当然」とゆう感覚が宣公の心にあったとは思えない。
 結局の所、「人々から誉められたいが為に、無理して弟へ爵位を譲った」とゆう呂東莱や公羊氏の宣公非難は、私には「死者を笞打つに過酷過ぎる」としか思えない。

 しかしながら、この論文の主旨は宣公や穆公を非難するところにはない。あくまで、奇をてらい高尚を求める「スタンドプレー」を非難したのである。「中」を守るとゆう儒教の根幹精神の一つを訴えかけてくれる。
 又、「金は貴く、穀物はありふれている。しかし、餓えた時に金を食べれば死ぬ」とゆう一文は、何と感激的な台詞であることか。「ありふれているか珍しいかではなく、自分自身にとって本当に大切か否かで物の価値を判断する」とゆうことだろうか?この台詞は、熟読玩味してもなお飽きない。私事で恐縮だが、私にとって、これは大きな感銘を与えてくれた論文の一つである。

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