安禄山の死
 
     河西、隴右節度使哥舒翰は病気で退役して家にいた。上は、彼の威名を借りる為、また、彼が日頃から安碌山と仲が悪かったこともあり、呼び出して謁見し、兵馬副元帥を授け、八万の兵を率いて碌山を討つよう命じた。また、天下四面の兵へ進軍して洛陽を攻撃するよう敕を下す。
 翰は病気を理由に固辞したが、上は許さない。田良丘を御史中丞として行軍士馬へ任命し、起居郎蕭を判官として、蕃将火抜帰仁等へおのおの部落を率いて従軍させる。仙芝の旧兵と併せて、号して二十万。潼関へ布陣させる。
 翰の病気は治らず、軍政は全て田良丘へ委ねられた。良丘もまた決断力がなく、王思禮へ騎兵を李承光へ歩兵を指揮させたが、二人は主導権を争って統一がとれなかった。
 翰は軍法を厳格に適用して憐れまなかったので、士卒は皆嫌気が差し、闘志がなかった。 

 安碌山の大同軍使高秀巖が振武軍を襲撃した。朔方節度使郭子儀がこれを撃退する。子儀は、勝ちに乗じて静辺軍を抜いた。
 大同兵馬使薛忠義が静辺軍を襲撃した。子儀は、左兵馬使李光弼、右兵馬使高濬、左武鋒使僕固懐恩、右武鋒使渾釈之等へ逆襲させ、これを大いに破る。その騎七千を穴埋めにする。
 進軍して雲中を包囲する。別将公孫瓊巖へ二千騎を与えて馬邑を攻撃させ、これを抜き、東ケイ関を開いた。
 甲辰、子儀へ御史大夫を加える。
 懐恩は、哥濫抜延の曾孫であり、代々金微都督となっていた。釈之は渾部の酋長で、代々皋蘭都督となっていた。 

 この頃、河北の諸軍は響きに応じるように朝廷へ加担した。朝廷へ帰順する者十七軍。その兵力は合計二十余万。対して碌山へ附いていた者は、ただ范陽、盧龍、密雲、漁陽、汲、ギョウの六郡だけだった。
 初め、碌山は自ら将となって潼関を攻撃しようとしていたが、新安まで来た時、河北で変事が起こったと聞いて、引き返した。
 蔡希徳が兵一万人を率いて河内から北上して常山を攻撃する。 

 至徳元載(756)正月乙卯朔、碌山は大燕皇帝と自称し、聖武と改元する。達奚cを侍中、張通儒を中書令、高尚と厳荘を中書侍郎とする。 

 甲子、哥舒翰へ左僕射、同平章事を加えた。他の官職は元のまま。
 乙丑、安禄山がその子慶緒へ潼関を襲撃させた。哥舒翰がこれを撃退する。 

 初め、戸部尚書安思順は禄山の反謀を察知し、入朝して上奏した。禄山が造反するに及んで、上は思順が先に上奏していたことを思い、これを罰しなかった。
 哥舒翰は、もともと彼と反目していた。そこで、人を使って禄山が思順へ遣った手紙をでっち上げ、関門にて捕らえて献上した。かつ、思順の罪七箇条を数え上げて、これを誅殺するよう請うた。
 丙辰、思順及び弟の太僕卿元貞は有罪となって死刑。家族は嶺外へ移した。
 楊国忠は彼等を救えなかった。これによって、始めて翰を畏れた。 

 楊国忠は、左捨遣の博平の張高(「金/高」)と蕭斤へ、士の中に将とできる者がいないか尋ねた。高と斤は、左贊善大夫の永壽の来眞(「王/眞」)を推薦した。
 丙午、眞を穎川太守とする。賊軍は屡々これを攻撃したが、眞は前後して甚だ多くの賊を破った。そこで、本郡防禦使を加える。人々は、「来嚼鉄」と呼んだ。 

 五月壬午、李光弼が嘉山にて、史思明軍を大いに破った。詳細は、「河北の興亡」に記載する。
 ここにおいて河北十余郡は皆賊の守将を殺して降伏した。
 往来する賊は、軽騎で隙を窺いながら逃げ、多くは官軍に捕らえられた。漁陽に家族の居る将士は、動揺せずにはいられなかった。
 禄山は大いに懼れ、高尚、厳荘を呼び出して、詰って言った。
「汝等は数年間、万全だと言って我に造反を唆していたのではないか。ところが今、潼関を守ったままで数ヶ月も進軍できず、北へ帰る道は閉ざされた。諸軍は四合して、我が所有しているのは、ベン、鄭数州だけだ。どこが万全なのか?お前達は、もう二度と顔を見せるな!」
 尚と荘は懼れ、数日謁見しなかった。
 田乾真が関下から来て、尚、荘の為に禄山へ説いた。
「古より帝王が大業を経営する時には、皆、勝敗があったのです。どうして一挙に成功したでしょうか!今、四方の軍や塁は多いのですが、皆、募兵したばかりの烏合の衆。ろくな訓練も受けておりません。我等薊北の剽悍な精鋭兵の敵ではありません。何で深く憂うに足りましょうか!尚、荘は共に佐命の元勲。陛下が一旦断交したことが諸将に聞こえたら、誰が懼れずにおれましょうか!もしも上下心が離れれば、それこそ陛下の危機でございますぞ!」
 禄山は喜んで言った。
「阿浩、お前は我の心を広げてくれた!」
 即座に尚と荘を呼び出して、酒を置いて宴会を催し、自ら彼等の為に歌を歌い、酒を注ぐ。そして従来のように扱った。阿浩は、乾眞の幼名である。
 禄山は洛陽を捨てて范陽へ逃げ帰ることを議論したが、計略は未だ決まらなかった。
 この時、天下は楊国忠の驕慢放縦が乱を呼んだと考え、歯がみしない者は居なかった。また、禄山の起兵が、楊国忠誅殺を名分としていたので、王思禮は密かに哥舒翰をたきつけて、国忠を誅するよう上表させようとした。翰は応じない。そこで思禮は言った。
「三十騎で国忠をさらってきて、潼関にて殺しましょう。」
 翰は言った。
「そんなことをすれば、禄山ではなく、翰こそが謀反人になってしまうぞ。」
 ある者は国忠へ説いた。
「今、朝廷の重兵は全て翰の手中にあります。翰がもし軍旗を振って西進したら、公は何と危ないことでしょうか!」
 国忠は大いに懼れ、上奏した。
「潼関には大軍がいますが、後続はありません。万一利を失えば、京師の危機です。監牧の小児三千人を選んで、苑中にて訓練しましょう。」
 上はこれを許し、剣南軍将李福徳等へこれを指揮させた。
 国忠はまた、一万人を募って覇(「水/覇」)上に屯営させ、自分と親しい杜乾運を将とした。上辺は賊を防ぐと言っていたが、実は翰へ備えたのである。
 翰はこれを聞いて、国忠から図られる事を恐れ、覇上の軍を潼関の指揮下へ入れるよう上表して請うた。
 六月癸未、杜乾運を関へ呼びよせ、他にかこつけて斬った。国忠はますます懼れた。
 そんな折、ある者が告げた。
「陜にいる崔乾祐の兵力は四千に満たず、しかも皆、老弱な兵です。」
 そこで上は潼関へ使者を派遣し、進軍して陜、洛を回復するよう翰へ命じた。
 翰は上奏した。
「禄山は長い間用兵を習い、今始めて造反したのです。どうして備えを無くしましょうか!これは絶対、老弱兵を囮にして我等を誘い出しているのです。もしも進軍したら、敵の策にはまります。それに、賊は遠征軍です。利は速戦にあります。官軍は険阻な地形に依ってこれを迎え撃つのですから、利は堅守にあります。いわんや、賊軍は残虐な行為で民から憎まれ、兵勢は日々衰えているのです。そのうち内変も起こりましょう。その時に乗じれば、戦わずして擒にできます。大切なのは功を成すこと。何で必ずしも速攻に務めましょうか!今、諸道の徴兵の多くはまだ集結していません。どうかこれを待ってください。」
 郭子儀と李光弼もまた上言した。
「兵を率いて北進し、范陽を取らせて下さい。その巣穴を覆して賊党の妻子を人質に取って招いたら、賊は必ず内側から潰れます。潼関の大軍は、ただ固守して敵を疲れさせてくれればよいのです。軽々しく出てはいけません。」
 国忠は、翰が自分を謀っているのだと疑い、上へ言った。
「賊には備えがありません。それなのに翰は逗留して、好機を失おうとしています。」
 上は同意して、続けざまに中使を派遣し、それらは項背相い望む有様だった。翰はやむをえず、胸を撫でて慟哭した。
 丙戌、兵を率いて関を出る。
 己丑、霊寶の西原で、崔乾祐軍と遭遇した。乾祐は、険阻な地形で、これを待った。南に山が迫り北は河に阻まれた隘道が七十里も続く。
 庚寅、官軍は乾祐と会戦した。乾祐は険所に伏兵を置いていた。
 翰と田良丘は船を浮かべて流れの中で敵の軍勢を観た。乾祐の兵が少ないのを見て、諸軍へ進軍させる。王思禮等は精鋭五万を率いて前に居り、龍忠等は余兵十万を率いてこれに続く。翰は三万の兵力で河北の丘へ登ってこれを望み、軍鼓を鳴らしてその勢いを助ける。
 乾祐が出した兵は一万に足りず、三々五々、星のように散らばっていた。或いは疏に或いは密に、或いは進み或いは退く。官軍はこれを望んで笑う。だが、乾祐は精兵を後方へ布陣していた。
 兵が交戦すると、賊はまるで逃げ出したいかのように旗を仰向けに倒した。官軍は侮って備えもしない。
 突然、伏兵が飛び出した。賊は高い場所から木石を落とす。大勢の人間が撃ち殺された。道は狭く、士卒は束のようになった。槍や長矛は使いようがない。
 翰は氈車(毛織り絨毯で覆った車?)や駕馬で前駆となり、敵をなぎ倒そうとした。既に昼過ぎ。東風が吹き荒んでいる。乾祐は草を積んだ車数十台で氈車の行く手を塞ぎ、火を点けて燃やした。 煙が立ち籠もったところでは、官軍は目を開くこともできず、妄りに相打ちをしてしまった。賊軍が煙の中にいると騒ぐ者がいたので、弓弩が集まって煙へ向かって射掛けた。日が暮れる頃は矢が尽きてしまったが、賊の所在は判らない。
 乾祐は、同羅の精騎を南山を過ぎた所から出した。彼等は官軍の後方へ出て、これを攻撃する。官軍は大混乱に陥って対応もできず、ここにおいて大敗した。あるいは鎧を捨てて山谷へ鼠のように逃げ込み、あるいは押し合って河の中へ落ち込み溺れ死ぬ。叫び声は天地をどよめかせた。賊は勝ちに乗じて差し迫る。
 後軍は前軍が敗れるのを見て、皆、自ら潰れた。河北軍は、これを望んでまた潰れた。翰は麾下数百騎と共に逃げ出し、首陽山から西に河を渡って関へ入る。
 関の外には先に三つの塹壕が掘ってあった。皆、広さは二丈、深さは一丈。人馬はその穴へ落ち込み、穴はたちまち満たされてしまった。残りの衆は、それを踏み越えて逃げる。関へ入ることのできた士卒は僅かに八千余人だった。
 辛卯、乾祐は潼関へ進攻し、これに勝つ。
(訳者、曰く)翰は囮だと看破していたのに、楊国忠から迫られて、仕方なく出陣した。とゆう事になっている。だが、それにしては、こんないかにも伏兵がいそうな場所に全軍を投入し、敵の狼狽に乗せられた兵卒達は備えを怠った。翰は本当に敵の意図を読んでいたのだろうか?全てを通して読んでみて、「名将が奸臣庸君に迫られて、不本意な戦闘で敗北した」とはとても思えない。楊国忠の暴虐を増やし、翰を悲劇の名将に仕立て上げる為に創作された文辞が挿入されているのではないだろうか?耄碌して凡将となった翰が、敵の策に陥って敗北したとしか思えないのだ。 

 翰は関西駅へ到着すると、牌を掲げて敗残兵を収容し、再び潼関を守ろうとした。蕃将火抜帰仁は百余騎を以て駅を囲み、入って翰へ言った。
「賊が来ました。公はどうか乗馬してください。」
 翰は乗馬して駅を出た。帰仁は衆を率い、叩頭して言った。
「公は二十万の大軍を一戦でなくしてしまいました。何の面目あって天子へまみえるのですか!それに、公は高仙芝、封常清を見なかったのですか?どうか東へ向かってください。」
 翰が断ると、帰仁は彼の足を毛で馬腹へ縛り付け、従わない諸将は全て捕らえて東へ向かった。賊将田乾眞と遭遇し、遂にこれに降伏する。乾眞は、共に洛陽へ送った。
 安禄山は翰へ問うた。
「汝はいつも我を軽視していた。今はどうだ?」
 翰は地に伏して答えた。
「臣は開き盲で、聖人が判りませんでした。今、天下は未だ平定されていません。李光弼は常山にあり、李祇は東平に、魯Qは南陽にいます。陛下が臣を留めて尺書で彼等を招き寄せれば、天下はすぐにでも下りましょう。」
 禄山は大いに喜んで、翰を司空、同平章事にした。
 火抜帰仁へ対しては言った。
「汝は主人に叛いた。不忠不義だ。」
 捕らえて、斬る。
 翰は書を以て諸将を招いたが、皆は返書を書いてこれを責めるだけだった。禄山は効果がないことを知り、彼を苑中へ軟禁した。
 潼関が陥落すると、河東、華陰、馮翊、上洛の防御史は、皆、郡を棄てて逃げた。所在の守兵も皆、逃げ散った。上も西へ逃げた。玄宗の西行については、別にまとめて記載する。
 安禄山は、上が西へ逃げ出したとは思わず、使者を派遣して崔乾祐軍を潼関へ留めさせていた。十日ほどして、孫孝哲へ兵を与えて長安へ入城させる。張通儒を西京留守、崔光遠を京兆尹とする。安思順へ兵を与えて苑中へ駐屯させ、関中を鎮める。
 孝哲は禄山から寵任されており、実権を持っていて、いつも厳荘と権力を争っていた。禄山は、彼へ関中の諸将を監督させ、通儒等は皆、彼の制を受けた。
 孝哲は贅沢な人間で、果断に人を殺す。だから賊党は、彼を恐れていた。
 禄山は、百官、宦官、宮女等を探すよう命じた。数百人捕らえるごとに、護衛兵を付けて洛陽へ送った。車駕へ随従した王侯将相の家族が長安に残っていたら、嬰児まで誅殺した。
 陳希烈は、晩年になって寵を失っていたので上を怨み、張均、張自と共に賊へ降伏した。禄山は、希烈、自を相として、他の朝士にも皆、官を授けた。
 ここに於いて、賊勢は大いに燃え上がった。西は隴を脅かし、南は江、漢を侵し、北は河北の半ばを奪う。しかしながら賊将は、皆租猛で遠略がなかった。長安に勝つと、既に大願が成就したと思い、日夜酒に溺れる。女漁りや財宝集めに精を出して、西進の意欲などなかった。だから上は危険な目にも会わずに蜀へ入れたし、太子も追撃の憂き目に会わずに北行できた。
 丁卯、安禄山の命令で、孫孝哲が祟仁坊にて霍国長公主及び王妃、フ馬等を殺す。その心臓をえぐり取って、安慶宗を祭った。
 楊国忠、高力士の一党及び普段から安禄山が憎んでいた者も、全員殺した。その総数八十三人。鉄の棒へその頭蓋骨を掲げたりしたので、流れる血が街を満たした。
 己巳、また、皇孫及び郡、県主二十余人を殺した。 

 話は遡るが、上皇は宴会を催す度に、まず太常の雅楽として坐部と立部を設け、次いで鼓吹、胡楽、教坊、府県の散楽、雑戯を演奏させた。また、山車、陸船へ楽人を乗せて往来させたり、宮人を出して霓裳羽衣の曲を舞わせたりした。或いは、舞馬百匹を調教し杯を含ませて寿をことほがせたり、犀象を率いて入場させて拝したり舞わせたりした。
 安禄山は、これを見て悦び、長安を占領した後は、楽工を探して捕らえさせ、学期、舞衣、駆舞馬、犀、象と共に全部洛陽へ持ってこさせた。
(司馬光、曰く) 聖人は、道徳を以て麗しいとなし、仁義の実践を楽しむ。だから、茅葺き屋根、土で固めた階の家に住み、粗衣粗食の毎日を送っても、その粗末さを恥とはしない。ただひたすら、供奉の度が過ぎて民を苦労させ、財を費やすことを恐れるのである。
 明皇は、その泰平を自負し後患を思わず耳目の楽しみを尽くし声技の巧を窮めた。そして、帝王としての富貴は自分に及ぶ者はいないと自ら思い、以前にはこれに及ぶものがなく今後はこれを越えるものが出ないことを望んで、ただ自分を楽しませるだけではなく人へも誇示した。
 豈はからんや。大盗が側にいて既に帝位を窺う心を持っていたとは。挙げ句の果て、車駕は長安を逃げ出し、人民が塗炭の苦しみを舐めることとなった。
 だから、天子が華靡を祟び、それを他人へ示すのは、まさに大盗を差し招く結果になることが判るのである。 

 禄山が、凝碧池にて群臣と宴会を開いた。大勢の楽人が盛大に演奏する。梨園の子弟は、往々にして悲しみに泣き濡れた。だが、賊は皆、刃をギラつかせて睨み付けている。
 楽工の雷海清は悲憤に耐えきれず、学期を地面に擲って、西へ向かって慟哭した。禄山は怒り、これを試馬殿前に縛り付けて、体をバラバラにした。
 かつて百姓達は混乱に乗じて官庫の物を盗んでいたが、禄山はその風聞を耳にしていた。長安を占領した後、三日間に亘って財宝を探し回るよう命じ、これによって民の私財まで掠めつくされた。また、府県の役人にも命じて、銖両の金まで余さずに奪い尽くした。民間は騒然とし、ますます唐室を慕った。
 上は馬蒐から北行した。民間では、太子が長安を奪回しようと北の方で兵を集めているとの噂が流布し、長安の民は日夜待ち望んだ。
 ある時など、「太子の大軍が来た!」とゆう噂が爆発し、皆で走って迎えに行ったので、市里は空になってしまった。賊が北方を望み見ると、塵が巻き起こっていたので、驚いて逃げ去ろうとまでした。
 京畿の豪傑達は、往々にして賊の官吏を殺し、遙か先の官軍に応じようとする。誅殺されても、決起する人間は後を絶たず、賊は制御することができなかった。
 最初は、京畿、鹿(「鹿/里」)、坊から岐、隴へ至るまで、皆、賊に帰順したが、ここに至って、西門の外に敵を防ぐ塁を築いてしまった。賊の勢力範囲は、南は武関、北は雲陽、西は武功を越えることができなかった。 

 六月戊申、扶風の民康景龍等の義勇軍が、賊の宣慰使薛総を撃ち、二百余級の首を斬る。
 庚戌、陳倉令薛景仙が賊の守将を殺し、扶風に勝って、これを守る。
 蜀や霊武へ貢献に行く江、淮の使者は、襄陽から上津の道を通り、扶風へ行くと、途中遮る者がいなかった。これは、皆、薛景仙の功績である。 

 安禄山は起兵して以来、次第に目が悪くなり、この頃になるとほとんどものが見えなくなっていた。また、悪性のできものができて、性格はますます凶暴になった。近習達の仕事が少しでも気に入らないと、すぐに鞭で打ち、時には殺すこともあった。
 帝と称してからは、禁中に深く居し、大将は顔も滅多に見られない。皆、厳荘を通して奏上した。荘は貴ばれてこそいたけれども、彼も又鞭で打たれた。宦官の李チョ児が、鞭打たれることが最も多く、近習達はいつ殺されるか判らない有様。
 禄山の愛妾の段氏は、慶恩を産んだ。彼女は、我が子を慶緒の代わりに世継ぎにしたがった。慶緒はいつも殺されることを懼れていたが、為す術も知らなかった。
 二年正月、送が慶緒へ言った。
「やむを得ない事態もあります。時期を逃してはなりません。」
 慶緒は言った。
「兄の為すことには、慎んで従います。」
 又、チョ児へ言った。
「汝が受けた鞭は数え切れないぞ!大事を行わなければ、いつ死ぬか判らない!」
 チョ児もまた許諾する。
 荘と慶緒は夜、武器を持って帳の外に立った。チョ児は刀を執って帳中へ突入し、禄山の腹を砕く。近習達は恐れて、動くこともできなかった。
 禄山は枕元に刀を置いていたが、取ることもできず、帳竿を揺すって言った。
「きっと、家族が裏切ったのだ。」
 腸が数斗も流れ出し、遂に死んだ。ベッドの下を数尺掘って、屍を絨毯でくるんで埋め、宮中の物へは箝口令を敷いた。
 乙卯旦、禄山は重病になったと、荘が外へ宣言した。晋王慶緒を立てて太子とし、次いで帝位へ即く。禄山を尊んで太上皇とし、その後、喪を発す。
 慶緒は、馬鹿でウスノロ。言うことは出鱈目だったので、荘は皆が服さないことを恐れ、誰にも謁見させなかった。
 慶緒は日夜酒を浴びて楽しむ。荘を兄として仕え、御史大夫、馮翊王とし、事は大小となく裁断させる。諸将へ厚く官爵を加えてご機嫌を取った。 

  

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