安禄山決起
 
    さて、安禄山は、李林甫の狡猾さが自分以上だったので、彼へ畏服していたのである。楊国忠が宰相となると、禄山は彼を蔑視した。これによって、彼等は仲が悪くなった。国忠は屡々禄山が造反の準備をしていると上言したが、上は聞かなかった。
 天寶十三載(754)正月己亥。安禄山が入朝した。
 この時、楊国忠は、安禄山が必ず造反すると言い、かつ、言った。
「陛下、試みにこれを呼び出してください。絶対にやってきません。」
 上は、使者を派遣して、彼を呼び出した。禄山は、命令を聞くと即座にやってきた。
 庚子、華清宮にて上へ謁見し、泣いて言った。
「臣はもともと胡人ですのに、陛下の寵遇により抜擢されて、ここまで出世できました。なのに、国忠から憎まれてしまいました。臣は、きっと、すぐにでも殺されてしまいます!」
 上はこれを憐れんで、巨万の褒賞を賜下した。これにより、禄山を益々親信し、国忠の言葉には耳を貸さなくなった。
 太子も又、禄山が必ず造反すると知っており上言したが、上は聞かなかった。
 上は、安禄山に同平章事を加えようと思い、翰林院供奉張自(「土/自」)へ草稿を書かせた。すると、楊国忠が諫めた。
「禄山には軍功こそありますが、文盲です。どうして宰相にできましょうか!制書がもしも下されたら、四夷が唐を軽視するのではないかと恐れます。」
 上は、やめた。
 乙巳、禄山に左僕射を加え、一子へ三品、一子へ四品官を賜下した。
 安禄山が、領閑厩、群牧の兼任を求めた。甲辰、禄山を閑厩、隴右群牧等使とする。
 禄山は又、総監も兼ねることを求めた。壬戌、知総監事となる。
 禄山は、御史中丞吉温を武部侍郎として閑厩副使とすることを上奏した。楊国忠は、これによって温を憎む。
 禄山は信頼できる側近を密かに派遣して建馬数千匹を選ばせ、別に飼育した。
 二月己牛、安禄山が上奏した。
「臣麾下の将士が奚、契丹、九姓、同羅羅を討伐し、非常に多くの勲功を建てました。どうか身を擲って働いている臣の軍へ、常格を無視して莫大な恩賞を授けてください。」
 ここにおいて、将軍に除される者は五百余人。中郎将は二千余人にも及んだ。禄山は造反を考えていた。だから、それに先だって衆心を掴もうとしたのだ。
 三月丁酉朔、禄山は范陽へ帰る挨拶をした。上は、御衣を脱いで、これへ賜った。禄山はこれを受けて狂喜する。
 出立すると、楊国忠が留めるよう上奏することを恐れ、疾走して関を出た。船に乗り河に沿って下る時、板を縄で縛り付けて、船の岸側へ立てるよう船夫に命じた。一更に十五里のスピードで昼夜兼行したので、一日に数百里を進んだ。郡県を通過しても下船しない。
 これを聞いて”禄山が造反する”と言った者もいたが、上は彼等を全て縛り上げて牢獄へ送った。おかげで、禄山がすぐにでも造反するとゆうことは全ての人間が知ったけれども、敢えて言う者は居なくなった。

 禄山が長安を出発する時、上は、長楽坡まで高力士へ見送らせた。力士が帰ってくると、上は問うた。
「禄山の心は慰められたかな?」
 すると力士は答えた。
「彼の様子を見ると、怏々としていました。宰相とするつもりだったのを中止した事に、絶対気がついています。」
 上がこれを国忠へ話すと、国忠は言った。
「この議案は、他の人間は知りません。張自兄弟が告げたに決まっています。」
 上は怒り、張均を建安太守、自を盧溪司馬、自の弟の給事中叔(「土/叔」)を宜春司馬へ降格した。
 哥舒翰もまた、その部将の功績を論じた。敕が降りて、隴右十将、特進、火抜州都督、燕山郡王火抜帰仁を驃騎大将軍とし、河源軍使應思禮へ特進を加え、臨兆(「水/兆」)太守成如 、討撃副使の范陽の魯Q、皋蘭府都督渾惟明へ雲靡将軍を加え、隴右討撃副使郭英乂を左羽林将軍とした。英乂は知運の子息である。
 翰はまた、厳挺之の子息武を節度判官、河東の呂煙を支度判官、前の封丘尉高適を掌書記、安邑の曲環を別将としたと上奏した。
 四月癸巳、奚を攻撃して破り、その王李日越を捕らえたと、安禄山が上奏した。 

 十三載閏九月、吉温を豊(「水/豊」)陽長史へ降格した。安禄山は、温の為に冤罪と、国忠の讒言を訴えた。上は、どちらも聞かなかった。詳細は「楊国忠」に記載する。 

 十四載二月辛亥、安禄山が、副将何千年を入奏させた。漢将の代わりに蕃将三十二人を登用することを請願する。上は、その日の内に敕を発するよう命じ、与えた。
 韋見素が楊国忠へ言った。
「禄山は、ずいぶん前から叛意を抱いていました。今又、この請願があります。その造反は明白です。明日、見素が極言します。上が悟らなければ、公が後へ続いてください。」
 国忠は許諾する。
 壬子、国忠と見素が入見した。すると、上は彼等を迎えて言った。
「卿等は禄山を疑っているのだろう?」
 見素は、禄山の造反準備の様子を口を極めて語り、請願を許可しないよう言った。上は不機嫌になった。国忠は逡巡してあえて言わない。上は、禄山の請願に従った。
 他日、国忠と見素が上へ言った。
「臣に策があります。禄山の陰謀など坐して消せます。今、もし禄山を平章事にして闕を詣でるよう呼び出し、賈循を范陽節度使、呂知晦を平盧節度使、楊光歳(「歳/羽」)を河東節度使とすれば、その勢力は自ずから分散します。」
 上は、これに従った。
 だが、制の草稿が完成しても、上は手元に留めて発せず、中使輔リョウ琳を派遣して禄山へ珍果を賜り、密かに彼の本心を探らせた。リョウ琳は禄山から厚く賄賂を受け、帰ってくると、禄山が忠義を尽くして国を奉り二心などないと盛言した。上は、国忠等へ言った。
「朕は禄山へ誠心で接している。異志などあるわけがない。東北の二虜は、彼が鎮圧しているのだ。朕が自ら保証する。卿等は憂うることはない。」
 結局、沙汰やみとなった。
 三月辛巳、給事中裴士淹へ河北を宣撫させた。
 四月、安禄山が、奚、契丹を破ったと上奏した。 

 安禄山は范陽へ帰ると、朝廷からの使者が来る度に病気と称して出迎えず、盛大に武備をした後で謁見するようになった。裴士淹が范陽へ到着しても、二十余日も謁見せず、人臣としての礼などかけらもなかった。
 楊国忠は、日夜禄山の造反の証拠を探す。京兆尹へ彼の第を包囲させ、禄山の客李超を捕らえ、御史台の牢獄へ送って、密かにこれを殺した。
 禄山の子息の慶宗は宗女の栄義郡主を娶り、供奉して京師に在住していた。彼は、この件を密かに禄山へ知らせた。禄山はいよいよ恐れる。
 六月、上は、その子の結婚を名目にして手詔で禄山を呼び出したが、禄山は病気を理由にして、来なかった。
 七月、禄山が、馬三千匹を献上すると上表した。馬毎に二人の武人が轡を執り、二十二人の蕃将が率いると言うのだ。河南尹達奚cは変事が起こることを疑い、上奏して請願した。
「禄山へは、『車馬を勧めるのは冬まで待つべきであり、運搬員は官で準備するので本軍を患わす必要はない』と諭しましょう。」
 ここにおいて、上はやや悟り、始めて禄山へ疑惑を持った。
 輔リョウ琳の収賄が発覚すると、上は他のことにかこつけて、これを撲殺した。上は、中使馮神威を派遣して、手詔でcの策のように禄山を諭し、かつ、言った。
「朕は、卿の為に新たに温泉を作った。華清宮にて卿を待っている。」
 神威が范陽へ到着して旨を宣べると、禄山はベットから微かに起きただけで拝礼もせず、言った。
「聖人はお元気か。」
 また、言う。
「馬は献上しないでも良いが、十月には京師へ参上しよう。」
 そして神威を館舎へ退がらせるよう近習へ輔命じ、二度と謁見しなかった。数日して帰らせたが、文書も持たせなかった。
 神威は、帰ると上を見て泣きだして言った。
「臣はもう陛下にまみえられないかと思っておりました!」 

 安禄山が三道を専制し密かに異志を蓄えてから、ほぼ十年。上から厚く寵遇されていたので、上が崩御するのを待ってから叛乱しようと思っていた。
 楊国忠は禄山とそりが会わず、禄山が造反すると屡々上言するようになったが、上は信じなかった。そこで国忠は、様々に彼を挑発して、早く造反を起こさせて上からの信頼を取ろうと考えた。
 禄山は、これによって早急に造反することを決意し、孔目官・太僕丞厳荘、掌書記・屯田員外郎高尚、将軍阿史那承慶とだけ密謀し、他の将佐は何も知らなかった。ただ、八月以来、士卒を饗応し、馬へ馬草を食わせ兵を鍛えることを奇異に思っていただけだった。
 奏事官が京師から帰ってくると、禄山は偽りの敕書を作り、諸将を全員召集してこれを示して言った。
「禄山は将兵を率いて入朝し、楊国忠を討伐せよ、と密旨が降りた。諸君はすぐに従軍せよ。」
 衆は愕然として顔を見合わせたが、敢えて異議を唱える者は居なかった。
 十一月甲子、禄山は麾下の兵及び同羅、奚、契丹、室韋を挑発した。およそ十五万。号して二十万。范陽にて造反する。
 范陽節度副使賈循へ范陽を、平盧節度副使呂知晦へ平盧を、別将高秀厳に大同を守らせ、諸将は皆兵を率いて夜半に出立する。
 詰朝、禄山は薊城の南へ出た。大閲して衆と誓い、楊国忠討伐を名目とし、軍中へ命令書を回して言った。
「異議を唱えて軍人を煽動する者は、三族まで斬る!」
 ここにおいて、兵を率いて南下する。
 禄山は鉄の輿に乗り、歩騎は精鋭。煙塵は千里も続き、軍鼓の音は大地を震わせた。この頃、海内は承平が続き、百姓は何代にも亘って戦争を知らなかった。突然、范陽で造反が起こったと聞いて、遠近は震え上がった。
 河北は皆、禄山の統治する領土だったので、通過する州県は、風を望んで瓦解し、太守や県令はあるいは城門を開けて迎え入れ、あるいは城を棄てて逃げ隠れ、あるいは捕らわれて殺され、敢えて拒む者は居なかった。 禄山は、将軍何千年、高貌(しんにょう有り)へ奚騎二十を与えて先触れとし、弓の巧者は駅馬に乗って太原へ結集するよう伝えさせた。
 乙丑、北京副留守楊光歳が出迎えたので、拉致して去った。
 太原は、実情を具に上言した。東受降城もまた、禄山の造反を上奏した。だが、それでも上はなお、禄山を憎む者のでっち上げと思い、信じなかった。
 庚午、上は禄山が確かに造反したと聞き、宰相を呼び出してこれを謀った。楊国忠は得意満面で言った。
「今、造反したのは禄山一人だけで、将士は従いたがっておりません。十日も過ぎぬ内に、必ずや首が行在所まで届けられましょう。」
 上も同意した。大臣達は、顔を見合わせて顔面蒼白になった。
 上は、特進畢思深(ほんとうは王偏)を東京へ、金吾将軍程千里を河東へ派遣し、各々数万人をかき集めさせて団結して拒ませた。
 辛未、安西節度使封常清が入朝した。上が討賊の方略を問うと、常清は大言した。
「今、泰平が続いたので、人々が賊を恐れているだけです。しかし、事には順逆があり、勢いは変わって行くもの。臣が東京へ行って府庫を開き驍勇を募り、馬に鞭打って渡河すれば、数日の内に逆胡の首を取って陛下へ献上いたしましょう!」
 上は悦んだ。
 壬申、常清を范陽、平盧節度使とした。常清は即日駅に乗って東京へ向かって募兵した。旬日にして六万人が集まった。河陽橋を断ち、守備を固める。
 甲戌、禄山は博陵の南まで進軍した。何千年等は楊光歳を捕らえて禄山の前へ引き出す。光歳が楊国忠へ附いたのを責め挙げて、これを斬る。
 禄山は、その将安忠志へ精兵を与えて土門へ進駐させる。忠志は奚人で、禄山は養子とした。また、張献誠を摂博陵太守とする。献誠は守珪の子息である。
 禄山は藁城へ進軍した。常山太守顔杲卿は、力不足で拒戦できず、長史袁履謙と共に出迎えた。この後の河北の戦況については、ひとまとめにして別に語る。
 丙子、上は宮殿へ帰った。太僕卿安慶宗を斬り、栄義郡主へ自殺させる。
 朔方節度使安思順を吏部尚書、思順の弟元貞を太僕卿とする。朔方右廂兵馬使郭子儀を朔方節度使、右羽林大将軍王承業を太原尹とする。河南節度使を設置して陳留等十三郡を領有させ、衞尉卿の張介然をこれに任命する。程千里を路(「水/路」)州長史とする。また、賊軍の進路に当たる諸郡に、始めて防禦使を設置した。
 丁丑、栄王宛(「王/宛」)を元帥、右金吾大将軍高仙芝を副官とし、諸郡を統べて東征させた。内府の銭帛を出して京師で十一万人を募兵し、天武軍と名付ける。旬日にして集まった。皆、市井の子弟である。
 十二月丙戌、高仙芝が飛騎、廣(「弓/廣」)騎及び新募兵を率い、京師に居た辺兵五万人と併せて長安を出発する。上は、宦官の辺令誠を派遣してその軍監とした。陜に屯営する。
 丁亥、安禄山が霊昌から黄河を渡った。壊れた船や草木を綱で結んで河の流れを横に断ったところ、一晩で凍結し、浮き橋のようになったのだ。遂に、霊昌郡を落とす。
 禄山の歩騎は統制が取られておらず、人々はその数も判らなかった。通過する所では、掠奪が行われた。
 張介然が陳留へ到着してわずか数日で禄山が進軍してきた。兵を授けて城へ登れば、衆は恐々としており、とても守れそうになかった。
 庚寅、太守の郭納が城を以て降伏した。禄山は北郭へ入城し、始めて安慶宗の死を聞いた。禄山は、慟哭して言った。
「我に何の罪があって、我が子を殺したのか!」
 この時、降伏した陳龍の将士一万人が道を挟んでいた。禄山はその怒りに任せて皆殺しとした。軍門にて、張介然を斬る。麾下の将李庭望を節度使として、陳龍を守らせた。
 壬辰、上は制を下して親征しようとした。城堡の外で留守をしている朔方、河西、隴右の兵を皆、行在所へ赴かせ、節度使へ自らこれを率いさせた。二十日にして結集させる。 

 安禄山は兵を率いて栄陽へ向かった。太守の崔無皮(「言/皮」)がこれを拒む。だが、城へ乗った士卒は、軍鼓や角笛を聞くと自ら雨のように墜落していった。癸巳、禄山は栄陽を落とす。無皮を殺し、麾下の将武令cへこれを守らせた。
 禄山の声勢はますます盛大になった。前鋒は田承嗣、安忠志、張孝忠。
 封常清の率いる募兵は、全員素人で、まだ訓練を受けていなかった。武牢に屯営して敵を拒んだが、賊は鉄騎でこれを蹂躙する。官軍は大敗した。
 常清は敗残兵をかき集めて葵園にて戦い、また敗れた。上東門で戦い、また敗れる。
 丁酉、禄山は東京を落とす。賊は軍鼓を派手に鳴らしながら四門から突入し、掠奪の限りを尽くす。常清は都亭駅にて戦い、また敗れる。退いて宣仁門を守ったが、また敗れた。常清は苑西の壊れたひめがきから脱出して西へ逃げた。河南尹達奚cは碌山へ降伏する。
 留守の李登(「心/登」)が御史中丞盧奕へ言った。
「我等は国の重任を担っている。知力では敵わないとはいえ、命を捨てるべきだ!」
 奕は許諾した。
 登は敗残兵数百をかき集めて戦おうとしたが、皆は登を棄てて逃げだした。登は一人府中へ坐った。奕はまず妻子へ印鑑を託して間道から長安へ落ち延びさせ、朝廷の正装で台中へ坐った。左右は皆、逃げ散った。
 碌山は閑厩に駐屯し、登と奕及び采訪使蒋清を捕らえさせて、全員殺す。奕は碌山を罵り、その罪状を数え上げ、賊党を顧みて言った。
「人と生まれたからには、順逆の理を知らねばならぬ。我は死んでも節義を失わなかった。また何を恨もうか!」
 登は文水の人。奕は懐慎の子息。清は欽緒の子息である。
 碌山は、その党類の張萬頃を河南尹とした。
 封常清は、敗残兵を率いて陜へ至った。陜郡太守竇廷芝は、既に河東へ出奔し、吏民は皆、逃げ散っていた。常清は、高仙芝へ言った。
「常清は連日血戦しましたが、賊の勢いは当たるべからざるものがあります。それに、潼関には兵がいません。もしも賊が関へ突入したら、長安は危険です。陜は守りにくい場所です。まず、兵を退いて潼関にて拒みましょう。」
 仙芝は兵を率いて潼関へ向かった。
 賊がやってくると、官軍は狼狽して逃げだし、士馬が踏みにじりあって大勢の士卒が死んだ。しかし、潼関へ到着すると防備を修めたので、賊が到着しても入りきれずに退却した。
 碌山は、その将崔乾祐を陜へ屯営させた。臨汝、弘農、済陰、僕(「水/僕」)陽、雲中郡は皆、碌山へ降伏する。
 この時、朝廷は諸道の兵を徴発していたが、まだ集結していなかったので関中は大騒ぎになった。だが、碌山は帝を潜称しようと東京に留まったまま進まなかったので、朝廷は準備期間を得て、兵もやや集まってきた。
 碌山は張通儒の弟通晤を隹(「目/隹」)陽太守として、陳留長史楊朝宗と共に胡騎千余を与えて東方を後略させた。郡県の官の多くは風を望んで降伏したり逃げ出したりした。ただ、東平太守嗣呉王祗、済南太守李随は起兵して拒んだ。
 ここは、南へ通じる道である。江・淮は、天下の米所。賊軍はスイヨウを取ったら更に南下して、江淮の食糧を奪取できる。逆に、官軍がここを抑えている限り、兵糧は確保できるとゆう要所である。よって、この後のスイヨウ攻防戦については、ひとまとめにして別に語る。 

 庚子、永王リンを山南節度使として、江陵長史源有(「水/有」)を副使とする。穎王ゲキを剣南節度使として蜀郡長史崔圓を副使とする。二王とも、閤を出なかった。
 有は光裕の子息である。 

 上は、親征を議論していた。辛丑、制を降ろして太子を監国とし、宰相へ言った。
「朕は在位五十年にも及び、政務にも疲れた。去年の秋、太子へ位を伝えたかったが、水害旱害が並び起こった。余災を子孫へ遣りたくなかったので、豊作になるまで待っていたのだ。思いきや、逆胡が造反した。朕が自ら親征するべきだ。よって、太子を監国とする。無事に平定できれば、朕は枕を高くして、引退できる。」
 楊国忠は大いに懼れ、退出の後韓、カク、秦の三夫人へ言った。
「太子は、昔から我等の専横を憎んでいた。もしも一旦天下を得たら、我も姉妹も命がないぞ!」
 共に肩寄せ合って哭した。そこで、三夫人へ貴妃を説得させて、上へ思い止まらせた。遂に、親征は沙汰止みとなった。 

 高仙芝が東征すると、監軍の辺令誠が屡々口出しした。仙芝は、大半は従わなかった。令誠は入奏する時、仙芝や常清の敗戦の有様を具に語り、かつ、言った。
「常清は賊の力を過大に吹聴して、衆心を動揺させました。仙芝は、陜の土地数百里を棄てました。また、軍士の兵糧を着服しています。」
 上は大いに怒った。癸卯、軍中にて仙芝と常清を斬るよう敕を降ろし、令誠を派遣した。
 話は遡るが、常清が敗北した時、使者を三度派遣して上表し、賊の形勢を陳じた。しかし、上は一つも見なかった。常清は、自ら闕へ駆けつけようとしたが、渭水まで来た時に敕が降り、官爵を削った上一兵卒として仙芝軍へ戻るよう命じられた。常清は上表状を遺した。
「臣が死んだ後、陛下が賊を軽く考えないことを望みます。どうかこの言葉を忘れないでください!」
 この頃の朝議の席では、誰もが碌山のことを“単なる狂悖の徒で数日の内に首が届けられる”と考えていた。だから常清はこう言ったのである。
 常清が死んだ後、屍はさらし者とされて、皆は驚愕した。
 仙芝が帰ってきて軍務を執ろうとすると、令誠は捕り手百余人を従えて仙芝へ言った。
「大夫にもまた、陛下の命令が下っている。」
 仙芝が跪くと令誠は敕を宣べた。仙芝は言った。
「我は、敵へあって退却した。死刑になるのも理が通っている。だが、天地に誓って宣言する。我が糧食を盗んだことだけは、冤罪だ。」
 この時、士卒達も目の前にいた。彼等は皆、大声で冤罪だと叫び、その声は大地を震わせた。しかし、処刑は断行された。
 将軍李承光がその兵卒を仮に指揮する。
(訳者、曰く)安碌山が造反するのが歴然と見えるような文章で、全ての人が予見して居るかのように書いてある部分もあるのに、実際に造反した時に兵卒達が余りの意外さに驚愕したかように書いてある。ここいらが、どうも統一を欠いているように思えるのです。ですから、安碌山が造反して朝廷では大騒動が起こって居るかのように書いてある部分もあるのに、今、「誰もが簡単に鎮圧できるくらいしか思っていなかった」と書いてあることも、実際の所はどうだったのか疑問です。
 泰平が続いた後の造反なら、朝廷の臣下達は大騒動しているでしょう。ここで「単なる狂悖の徒で数日の内に首が届けられる」と考えている人間が、そんなに大勢いたのでしょうか?楊国忠一人の考えならば、判ります。彼が挑発して造反へ追い込んだのですから。「朝議皆以為」とありますが、これは、「誰もが楊国忠に逆らえずに、朝議では上辺だけその意見に賛同していた。」とゆう事でしょうか?
 だいたい、「狂悖不日授首」と最初に提唱したのは封常清だった筈です。封常清のこの上表は、楊国忠に振り回されている朝廷への牽制か、もしくは自分の先の言葉を陳謝する意で書いたものだと推測します。 

元へ戻る