安禄山蟠踞
 
   開元二十四年(736年)守珪が、平盧討撃使、左驍衞将軍安禄山に奚・契丹の造反者を討伐させた。禄山は、勇を恃んで軽々しく進軍し、虜に敗北してしまった。四月辛亥、守珪はこれを斬るよう上奏した。禄山は、刑に臨んで叫んだ。
「大丈夫が奚、契丹を滅ぼしたいのなら、どうして禄山を殺すのか!」
 守珪もまた、彼の驍勇を惜しみ、これを再び京師へ護送した。
 張九齢は批判して言った。
「昔、穰苴は荘賈を誅し、孫武は宮嬪を斬りました。守珪が軍令を実行すれば、禄山は死刑を免れません。」
 しかし上はその才を惜しみ、敕にて免官のうえ、白衣将領とした。九齢は固く争って言った。
「禄山は軍律を失って兵士を死なせたのです。法に基づいて誅しなければなりません。それに、臣がその相貌を見ますに、反骨の相があります。殺さなければ、必ず後の患いになりますぞ。」
「卿よ、王夷甫が石勒を知った故事で忠良を害してはならない。」
 遂に、これを赦す。
 安禄山は、もともと営州の雑胡で、元は阿犖山とゆう名だった。その母親は巫女である。父が死んだ後、母は彼を連れて突厥の安延偃へ嫁いだ。その部落が散り散りになった時、彼は延偃の兄の子の思順と共に逃げて来た。それで、安氏の姓を冒し、禄山と名乗った。
 又、史卒(「穴/卒」)干とゆう者がいた。彼は禄山と同郷で、一日違いで生まれた。成長すると二人は親友となった。どちらも互市の牙郎になり、驍勇で評判だった。
 張守珪が禄山を生将とすると、彼はいつも数騎で出て行き数十人の契丹を捕らえてきた。 安禄山は狡猾な性格で、人へ取り入るのが巧かった。だから守珪は彼を愛し、養子とした。
 卒干はかつて、官債を負い、奚へ亡命したことがあった。奚の斥候が彼を捕らえ殺そうとしたが、卒干は言った。
「我は唐の和親の使者だ。汝が我を殺したら、汝の国へ禍が及ぶぞ。」
 斥候はこれを信じて牙帳へ送った。そこで卒干は奚王へ謁見したが、突っ立ったまま拝礼しなかった。奚王は怒ったけれども、唐を畏れ敢えて殺さず、客分への礼で館へ泊め、百人を随行させて入朝しようとした。卒干は奚王へ言った。
「王の派遣する人間は数こそ多いが、天子へ謁見できるような才覚の持ち主はいない。王には瑣高とゆう良将がいると聞くが、どうして彼を入朝させないのか!」
 そこで奚王は瑣高と牙下三百人を干へ随行して入朝させた。
 卒干は平盧へ到着する寸前、使者を先行させて軍使の裴休子へ言った。
「奚が瑣高と精鋭兵を派遣した。入朝するとゆうふれこみだが、実は軍城を襲撃するのだ。まず守備を固め、先手を打て。」
子は軍用を整えて迎え出た。館へ到着すると、奚の従兵を穴埋めにして皆殺しにし、瑣高を捕らえて幽州へ送った。
 張守珪は、卒干に功績があったとして、これを上奏し、果毅とした。その後、卒干は将軍まで累進する。後、入奏した時、上はこれと語って悦び、思明とゆう名を賜下した。  やがて安禄山は平盧兵馬使となった。
 禄山は、お愛想が巧く、人当たりが善かったので、多くの人々が彼を褒めた。特に平盧へ来た上の近習達には、皆、厚く贈り物をする。だから、上はますます彼を賢人だと思った。
 御史中丞張利貞が河北采訪使となった。彼が平盧まで来ると、禄山は腰を低くして持てなし、左右の者達みんなへ賄賂を贈った。利貞は朝廷へ戻ると、禄山のことを褒めちぎった。
 二十九年八月乙未、禄山を営州都督、充平盧軍使として、両蕃、渤海、黒水の四府を経略させた。
 天寶元年(742年)正月壬子、平盧を分離して節度とし、安禄山を節度使とした。
 二年正月、安禄山が入朝した。上が特別厚く寵遇していたので、彼は時期に由らずに謁見できた。
 禄山は上奏した。
「去年、営州で虫害が起こり、苗が食べられてしまったので、臣は香を焚いて天へ祈りました。『臣の心がもし曲がっていて主君へ不忠で仕えるならば、どうかこの虫に臣の心臓を食べさせてください。もしも臣が神の御心に背いていないなら、どうかこの虫を追い散らしてください。』そうすると、沢山の鳥が北から飛んできて、虫をたちどころに食べ尽くしてしまいました。どうか、検分の役人を派遣してください。」
 これに従う。 

 三載三月己巳、安禄山へ范陽節度使を兼任させる。范陽節度使裴寛は戸部尚書とする。
 禮部尚書席建侯が河北黜陟使となり、禄山を公直と称した。李林甫、裴寛は共に皇帝の想いに逆らわず、禄山の長所を褒めた。三人とも上から信任されていた人間である。これによって禄山の寵遇は益々確固として揺るぎなくなった。 

 四載三月、壬申。上は外孫の独孤氏を静楽公主として契丹王李懐節へ、甥の楊氏を宜芳公主として奚王李延寵へ、嫁がせた。
 安禄山は辺境で功績を建てて寵遇を得ようと、屡々奚や契丹へ侵略した。奚と契丹は、各々公主を殺して叛逆した。
 九月、禄山はこれを討って破った。 

 十月甲午、安禄山が上奏した。
「臣が契丹を討って北平郡まで進軍した折り、先朝の名将李靖、李勣が臣へ食を求める夢を見ました。」
 そこで、廟を建てるよう命じた。
 又、薦奠の日、廟梁に芝が生えたと上奏した。 

 六載正月戊寅、安禄山へ御史大夫を兼任させる。
 禄山は、でっぷりと太っており、お腹は膝まで垂れ下がっていた。かつて、自分のお腹は三百斤あると自称した。外見は薄ら馬鹿のようだったが、実は狡猾な人間。配下の将劉駱谷を京師へ留め、いつも朝廷へ伺わせて、その動静を逐一報告させていた。上奏文は、駱谷が代作する。捕虜や雑畜、奇禽、異獣、珍玩をしょっちゅう献上したので、輸送車は道に相続き、郡県はその運搬に疲れ果てるほどだった。
 禄山が上の前に出るときは、滑稽交じりの機敏な返答で上の機嫌をとった。
 ある時、上は禄山の腹を指差して言った。
「胡の腹の中には何があるのか。なんとも大きいではないか。」
 禄山は答えた。
「この腹の中にあるものは、ただ真心だけでございます!」
 上は悦んだ。
 また、かつて太子と会った時、禄山は拝礼しなかった。人々が拝礼するよう教えても、禄山は突っ立ったまま言った。
「臣は胡人で朝廷の儀礼に疎いのです。太子とは、一体何者ですか?」
 上は言った。
「これは世継だ。朕の千秋万歳の後、朕に代わって汝の主君になるのだ。」
 禄山は言った。
「臣は愚かにも、ただ陛下一人が居る事を知っているだけで、世継が居ることを知りませんでした。」
 やむを得ずに、拝礼した。上はこれを信じ込み、ますます禄山を愛した。
 上がかつて勧政楼にて宴会をした時、百官は楼の下に列座したのに、禄山だけは東間に金鶏障を皇帝の座椅子の前に設けさせて、そこへ座らせた。簾も巻き上げており、そうやって諸臣へ栄寵を示した。
 楊銛、楊奇、楊貴妃の三姉は皆、安禄山と義兄弟となった。禄山は、禁中へ出入りできるようになると、楊貴妃の義子となるよう請うた。上が貴妃と同席していると、禄山は、まず貴妃へ拝礼した。上がその理由を問うと、対して言った。
「胡人は、母を先にして父を後にします。」
 上は悦んだ。 

 七載六月庚子、安禄山へ鉄券を賜下する。
 九載五月乙卯、安禄山へ爵東平郡王を賜下する。唐の将帥が王に封じられるのは、彼から始まった。
 八月丁巳、安禄山へ河北道采處置使を兼任させた。 

 安禄山は、奚・契丹をしばしば誘って宴会を催し、毒酒で酔い潰して穴埋めとした。その被害者はややもすれば数千人にも及んだ。そして、酋長の首は箱へ入れて献上した。このような事は、前後四回。
 ここに至って、安禄山は入朝を請うた。上は、度重なる軍功を悦び、まず彼の為に昭應へ新しい邸宅を造らせた。
 禄山が戯水まで来ると、楊サの兄弟姉妹が全員で出迎えた。出迎えの役人の冠で、野が覆われる程だった。上は自ら望春宮へ御幸して、彼を待った。
 十月辛未、禄山は奚の捕虜八千人を献上する。上は、考課の日に上々考と記載するよう命じた。
 これ以前に、禄山は上谷にて銭五盧を鋳造したと報告していた。禄山は、この銭を数千緡献上した。 

 十載正月、上は親仁坊へ安禄山の邸宅を建てるよう、官吏へ命じた。金に糸目を付けずに壮麗を極めるよう、敕にて命令する。
 落成すると、家具や器皿がその中に充満していた。白檀のベッドが二つあったが、その帳は六尺四方。厨房や厩の物は、全て金銀で飾られていた。金のおひつが二つ、銀の米とぎが二つ。共に五斗入った。銀糸で織り上げた箱、揚げざる、リ(食物を盛る器の一種)各々一つ。他の物もこの類で、禁中で使うものでさえこれには及ばなかった。
 上は、禄山の護衛に派遣する中使や邸宅を建造している役人、賜下品を選定する役人達へ、いつも言っていた。
「あの胡人は目が大きい。へたな物を選んで我を笑わせるな。」
 禄山は新邸宅へ入ると酒を準備し、宰相達をこの邸宅へ来させるよう、墨敕を降ろして欲しいと請願した。その日の内に楊一族を派遣して、共に宴遊する。梨園教坊が音楽を奏でた。
 上は、一物を食べる度に讃美した。後苑で狩猟をすると、獲物が捕れる度に中使を走らせて、これを禄山へ賜った。その中使は道に溢れる始末だった。
 甲辰、禄山の誕生日である。上と貴妃は、とても多くの衣服、寶器、酒饌を賜下した。
 三日後、禄山を禁中へ呼び入れた。貴妃は、錦繍で大きなお襁褓を作り、禄山につけさせた。そして美しい彩りの輿に載せて、宮女達に担がせた。上は、後宮の歓声を聞いたので、理由を尋ねたところ、近習は「貴妃が禄山の三日洗(赤ん坊が生まれて三日目に沐浴させるとゆう行事があったのではないかと推測します。)をしているのです。」と答えた。上は自ら見物に出向いて、喜び、貴妃へ洗児のご祝儀を賜下し、また、禄山にも厚く賜り、歓びを尽くして帰った。
 これ以来、禄山は後宮へ自由に出入りするようになった。ある時は貴妃と共に食事をし、ある時は夜通し出てこない。外では大きなスキャンダルが流れたが、上はちっとも疑わなかった。
(訳者、曰く。) まあ、デブ男と傾国の佳人との不義密通なんか、普通は疑わないでしょうね。実際、安禄山は単なるピエロに過ぎなかったのでしょうから、上が疑わなかったのは当然です。それよりも、こんな醜聞が流れれば、むしろ噂に対して呆れ返り、以後は聞き流すようになるでしょう。私は、そちらの方に恐ろしさを感じます。
 後に、人々は「安禄山が造反する」と噂するようになります。ですが、人の噂とゆうものは、話半分に聞き流すのが当然です。ましてや君主が、たかが噂話に一々過敏に反応していては、臣下はたまったものではない。主君がその様な人格ならば、離間工作はあっけなく成功してしまいますし、そんな上役の下で中堅管理職をやったなら、部下の一人一人へ媚びへつらわなければならなくなります。ですから、もしかしたらこの時玄宗皇帝は、「こんなつまらない噂は聞き流す。軽々に動かずに大きく人を容れる。さすがに我は名君だ。」と悦に入ったかもしれませんが、それは的外れではないのです。
「太平が続くと、主君の心が傲り、人の話を聞き流すようになる」と言われています。そして、この時代の玄宗皇帝は、その最も適切な例の一つです。後、亡命した玄宗へ対して一介の老人から、「安禄山が造反することは、道行く庶民でさえも知っていましたが、陛下お一人だけが知りませんでした。」と言われるシーンなど、凄い説得力があります。
 世間の風評に耳を傾けなくなることは、もちろん国を滅ぼす原因の一つですから戒めなければなりません。しかし、私が言いたいのは、皇帝が風評を聞き流すようになる原因は、「奢り」だけではない、とゆうことです。君主として大勢の人間を統率していく為には、「噂話は適当に聞き流さなければならない。」とゆう鉄則があるのです。つまり、「自分が居る限り泰平が続く」とゆう驕りばかりではなく、「どうせ噂話だ」とゆう狎れもあるのです。この「狎れ」の恐ろしさに関しては、余り論じられたことがありません。
 どんな噂話に対しても、真剣に耳を傾けるのが主君の大切な心得の一つだったなら、もっと楽でしょう。しかし現実には、「無責任な噂は聞き流す」のが、主君の美徳なのです。そのように自分を戒めながら数十年過ごして行って、それでも「深刻には受け止めないが、一応用心して確認を取っておこう」とゆう態度を貫かなければならないとしたら、それは非常に難しいことです。
「始めは誰も慎むが、いつしか心は緩み行く。殷の鑑は遠からず、近き夏桀にあるものを。」と詩経にありますが、さて、心を緩ませない為に、何を戒めなければならないのか。それは、「驕り」だけではありません。「狎れ」もあります。「噂話の大半は実に詰まらない話だから聞き流さなければならないのに、それでも狎れてしまってはいけない。」とゆう所にもあるのです。
 もちろん、「後宮に他の男を入れるべきではない。」と言われたら、それはそれで正論なのですが。 

 安禄山は、河東節度使との兼任を求めた。二月丙辰、河東節度使韓休aを左羽林将軍として、禄山と交代させる。
 戸部郎中吉温は、禄山が寵遇されているのを見て、彼へすり寄り、兄弟の契りを結ぶ。そして、禄山へ説いた。
「李右丞相はいつも三兄と親しんでいますが、兄が宰相となることについては、必ずしも肯定しないでしょう。温は、丞相の手足となって働いていますが、抜擢されることはありません。兄がもしも温を上へ推薦してくれるなら、温は、兄が大任をこなせると上奏します。共に李林甫を排斥するなら、きっと宰相になれます。」
 禄山はその言葉を悦び、上へ屡々温の才覚を称した。上は始めて吉温を見た時、油断ならない人間だと評して、抜擢しなかった。しかしここに及んで、かつての言葉を忘れた。禄山が河東を領有すると、温を節度副使、知留事とするよう上奏した。また、大理司直張通儒を留後判官として、河東の事は悉く彼へ任せた。
 この時、楊国忠は御史中丞となり、上の用事を万事手がけていた。それでも禄山が宮殿の階段を昇降するときは、国忠はいつもこれへ肩を貸した。
 禄山と王ヘは共に大夫となった。ヘの権勢は、李林甫に次いでいた。さて、禄山が林甫を見た時、驕り高ぶった顔をしていた。すると林甫は、別の用件にかこつけて、王大夫を呼んだ。ヘは小走りに駆け寄り、とても恭順な態度だった。禄山は思わず自失して、それから恭謙な顔つきになった。
 林甫が禄山と語ると、事毎に彼の想いを察知して言い当てたので、禄山は驚き服した。禄山は、公卿へ対しては慢侮していたが、ただ林甫と会う時だけは、冬の盛りでもいつも冷や汗で衣を濡らしてしまった。
 林甫は中書の問診所へ林甫を引き入れて共に語り、優しい言葉で慰撫し、自ら衣を脱いで禄山へ着せ掛けてやった。禄山は悦んで、思いの丈を口にし、林甫のことを「十郎」と呼んだ。
 范陽へ帰ると、劉駱谷が長安から来る度に、「十郎は何と言っていた?」と尋ねた。褒められたと聞くと大喜びする。ある時、「安大夫は素晴らしい検校だ!と褒めていました。」と言われると、禄山は手すりを叩いて喜び、言った。「ああ、もう死んでも良い!」
 禄山は三鎮を領有し、賞刑を意のままにできるようになると、日毎に驕恣になっていった。かつて太子へ拝礼しなかったことを思い出し、上が老齢になって行くことを見て、内心懼れた。又、武備が弛緩している有様を目の当たりに見てから、中国を軽視する心が生まれた。孔目官の厳荘と掌書記の高尚は、彼の為に図讖を解釈してやり、造反を勧めた。
 禄山は、同羅、奚、契丹の降伏者八千余人を養い、彼等を「曳落河」と言った。これは、胡人の言葉で「壮士」を意味する。家僮百余人は、皆、驍勇で戦上手。一人で百人に匹敵した。また、戦馬数万匹を蓄え、兵器も多量に集めた。胡人の商人を諸道へ派遣して商売させ、毎年数百万の珍貨をかき集めさせた。私的に造った緋紫袍、魚袋は百万単位だった。
 高尚、厳荘、張通儒及び将軍孫孝哲を腹心とし、史思明、安守忠、李帰仁、蔡希徳、牛延介(「王/介」)、向潤客、李庭望、崔乾裕、尹子奇、何千年、武令c、能元皓、田承嗣、田乾眞、阿史那承慶を爪牙とした。
 尚はヨウ奴の人。本名は不危。学問ができたが、河朔を歩き回っている間貧困で志を得ず、いつも嘆いていた。
「高不危は大事を起こして死ぬ人間だ。なんで草根を囓って生き延びようか!」
 禄山は彼を幕府へ引き入れ、寝室にまで出入りさせた。
 尚は文書を作成し、荘は帳簿を管理した。通儒は萬歳の子息、孝哲は契丹人である。
 承嗣は代々盧龍の小校で、禄山は前鋒兵馬使としていた。大雪が降った時、禄山が陣営を見回ると、承嗣の陣営は、無人のように静まり返っており、番人は全員定位置で見張っていた。それ以来、禄山は彼を重く扱うようになった。 

 八月、安禄山が、三道の兵六万を率いて契丹を討った。奚騎二千を道案内とする。
 平濾を過ぎること千余里、土護眞水へ到着し、雨に遭う。禄山は兵を率い、三百余里を昼夜兼行で契丹の牙帳へ到着した。契丹は大いに驚愕する。
 この時、長雨で弓は全て糸が緩んでいた。大将の何思徳は禄山へ言った。
「我が兵は多いけれども、遠来で疲れ切っており、実は役に立ちません。ここは武装を解いて兵を休息させて、敵へ臨みましょう。三日も経たぬうちに虜は必ず降伏します。」
 禄山は怒り、これを斬ろうとしたので、思徳は先駆けして討ち死にすることを請うた。
 思徳の容貌は禄山に似ていたので、虜は争ってこれを攻撃し、殺した。こうして禄山を殺したと思ったので、勇気は倍増する。
 奚もまた、造反して契丹と合力する。唐軍を挟撃して殆ど殺傷した。彼等は禄山を射たが、矢は鞍に当たった。禄山は、冠簪は折れ靴をなくし、ただ麾下の二十騎と共に逃げだした。
 夜になって敵の追撃がなくなったので、師州へ入ることができた。
 禄山は、敗戦の罪を左賢王哥解と河東兵馬使魚承仙へ押しつけて、二人とも斬った。
 平盧兵馬使史思明は懼れ、山谷へ逃げ込んだ。二十日ほど敗残兵をかき集めて七百人を得た。
 平盧守将史定方が精鋭兵二千を率いて禄山を救出する。契丹は退却し、禄山は危機を免れることができた。
 平盧へ到着すると、麾下は全て逃げ出しており、手の打ちようがなかった。そこへ史思明が帰ってきて禄山へ会った。禄山は喜び、立ち上がるとその手を執って言った。
「お前さえいてくれれば、何の憂いもないぞ!」
 思明は退出すると、人へ言った。
「早く出立しなければ、哥解と共に斬られてしまう。」
 契丹が師州を包囲していたので、禄山は思明へこれを攻撃させた。 

 十一載三月、安禄山が去秋の雪辱を果たそうと、蕃、漢の歩騎二十万を率いて契丹を攻撃した。
 話は前後するが、天寶元年、突厥の元西葉護の阿布思が唐へ帰順した。(詳細は、「突厥」に記載)。上はこれを厚く遇し、李献忠の名を賜下する。彼は累遷して朔方節度副使となり、奉信王の爵位を賜る。献忠は才略があり、安禄山の下手に立たなかったので、禄山はこれを恨んだ。
 ここに至って禄山は、献忠へ同羅の数万騎を与えて共に契丹を攻撃することを請願した。献忠は禄山から殺されることを懼れ、出征せずに留まることを留後の張韋(「日/韋」)へ請願するが、韋は許さない。
 献忠は麾下を率いて倉庫を大いに掠め、叛いて漠北へ帰った。
 禄山は、ついに兵を逗留させて進まなかった。
 九月、阿布思が入寇し、永清柵を包囲した。柵使張元軌が、拒んでこれを撃退する。
 ちなみに翌年、阿布思は回乞に破れた。同年五月、安禄山は阿布思の部落を誘って降伏させた。これ以来、安禄山の精鋭兵は天下に及ぶ者がなくなった。 

 十一載十一月、李林甫が卒した。楊国忠が右相兼文部尚書となる。吉温は御史中丞となり、長安へ戻る。詳細は、「李林甫と楊国忠」に記載する。 

 十二月甲申、平盧兵馬使史思明へ北平太守を兼任させ、盧龍軍使とした。 

 哥舒翰はもともと安禄山、安思順と仲が悪かった。上はいつも和解させようとしており、彼等を義兄弟とした。
 この冬、三人は、共に入朝した。高力士が、上の命令で城東にて宴会を開いた。宴会の最中、禄山が翰へ言った。
「我が父は胡人で母は突厥。公の父は突厥で母は胡人。似たもの同士だ。どうして親しくなれないのかな?」
 翰は言った。
「古人は言った。『狐が洞穴へ向かって吼えるのは、不祥だ。その本を忘れているからだ。』兄がもしも親しまれたならば、翰もどうして心を尽くさずにいられようか!」
 禄山は、胡を譏られたと思い、大いに怒って翰を罵った。
「突厥こそつまらん連中だ!」
 翰は言い返そうとしたが、力士が目で制したので、翰はやめて、酔いに託して立ち去った。
 これ以来、怨はいよいよ深まった。 

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