劉淵、平陽に據る

 (いつの頃からか、南匈奴は漢皇室の甥の末裔と自称し、劉姓を名乗るようになっていた。)

匈奴の分裂

 後漢の霊帝の中平五年(188年)、三月。南匈奴へ詔が下った。
「劉虞の麾下として出兵して張純を討て。」
 そこで、単于は左賢王を幽州へ派遣することに決定した。すると人々は、大勢の若者達が徴兵されるのではないかと畏れた。
 この不安を利用して、右部醯部が造反した。彼等は屠各胡と合流し、総勢凡そ十万人。遂に単于を殺した。
 国人は、単于の息子の右賢王於夫羅を擁立した。これが持至尸逐単于である。これに対して造反軍は須ト骨都候を擁立して単于とした。
 於夫羅は、この件について漢の力を借りる為、朝廷へ出向いた。ところが、丁度その頃、漢では霊帝崩御による動乱が起こった。(三国時代の到来)そこで於夫羅は、数千騎の部下を率いて白波の賊と合流し、郡県を荒らし回った。
 これに対して、民は自衛団を組み、砦を築いて対抗した。そうなると、略奪の旨味はなくなり、却って部下が次々と討ち死にして行く。於夫羅は国へ帰ろうとしたが、匈奴の民は彼を受け付けない。仕方なく、彼は河東の平陽へ留まった。
 須ト骨都候は、単于になって一年で死んだ。南匈奴では単于が空位となったので、老王が政治を執った。

 献帝の興平二年(195年)。南匈奴単于於夫羅が死んだ。平陽にて、弟の呼厨泉が立った。

 

南匈奴の服属

 建安二十一年(216年)、七月。南単于の呼厨泉が魏に入朝した。
 魏王の曹操は、彼を業(「業/里」)へ留め、平陽の匈奴達は、右賢王の去卑に治めさせた。又、単于へは、毎年、綿絹銭穀を列候並に支給し、その称号を子々孫々世襲させると約束した。彼の部下は五つの部に分け、それぞれ貴人を立てて帥とした。そして、漢人の司馬を派遣し、これを監督させた。
 以来、彼等は五部に分かれてへい州境内に住む事となった。
 左賢王の豹は、於夫羅の息子である。彼は左部を率いていたが、これは五部のうちでは最強の部族だった。
 魏の邵陵れい公の嘉平三年(251年)。城陽太守の登(「登/里」)艾が上表した。
「今、匈奴の単于は業におります。それ故、主が居ない匈奴は、統一されないまま。こうして、匈奴への憂いが無くなったのです。しかし、匈奴での単于の威光は日々忘れ去られ、代わって左賢王の威厳が日増しに重くなって来ました。ですから、そろそろ彼等へ対して厳重に警戒するべきです。
 今、劉豹の部で反乱が起こったと聞きます。これは勿怪の幸い。この機会に乗じて、彼等を二分してその勢力を弱めましょう。又、去卑は漢の時代に大いなる功績がありましたが、その子孫は官職を継いでおりません。彼の息子に官職を与えて雁門に居住させましょう。
 劉豹の国を二分してその勢力を弱め、去卑の子孫を抜擢すること。それが匈奴へ対する長期的な戦略です。」
 又、陳述した。
「きょう・胡のうち、中国の民と同じ土地に住んでいる者が居たら順々に追い出して、蛮人と華人を別居させましょう。そして、それら野蛮人達には教育を施して廉恥心をわきまえさせ、奸悪な行いを根絶させるのです。」
 司馬帥は、これらの策を採用した。

 

劉淵

 劉豹の子息が劉淵。彼は幼い頃から俊才の誉れ高く、崔游に師事して教典や史学を学んだ。かつて、彼は同門の朱紀や范隆へ言った。
「周勃や灌ねいは無学な男だし、随何や陸賈には武力がない。随何や陸賈が、もしも劉邦の時代に生まれたとしても封建侯になれた筈がないし、周勃や灌ねいは、漢の文帝の時代に生まれても人々を教化させることができなかったに違いない。彼等にしてこのような欠点があるとは、何とも惜しい話ではないか。」
 かくして彼は、文武両道を目指して武道にも励んだ。長じるに及んで劉淵は、弓が巧く、膂力は人並み優れ、容姿魁偉な豪傑となった。
 やがて任子(一種の人質)となって洛陽へ行ったが、王渾、王済の親子が彼を可愛がり、武帝へ推挙した。武帝も彼と語って大いに悦んだ。
 王済は言った。
「劉淵の才能は文武両全。もしも彼を東南へ派遣すれば、呉の平定など造作ないでしょう。」
 しかし、孔恂と楊兆が口を挟んだ。
「奴は蛮人ですから、我々とは性根が違います。彼に才能があるとしても、大役は任せられません。」
 晋の武帝の感寧五年(279年)。涼州で樹機能が造反した。
 この件について、武帝が李熹に下問すると、彼は答えた。
「五部の匈奴に任せましょう。もしも陛下が、他の四部まで劉淵の指揮下に入れて派遣したなら、樹機能など、すぐにでも梟首できます。」
 しかし、又しても孔恂が言った。
「劉淵が樹機能を梟首すれば、劉淵は涼州を占領します。ますますやっかいなことになりますぞ。」
 武帝は劉淵を派遣しなかった。

 ここに、王彌とゆう男が居た。代々刺史を勤めた家柄で、学術勇略共に優れており、青州の人々は、彼のことを「飛豹」と呼んだ。かつて陳留菫養とゆう処士が、彼を見て言った。
「君は、乱世を心待ちにする男だ。もしも天下に大乱が起こったら、きっと一国に割拠するだろう。」
 劉淵は、この王彌と仲が善かった。ある時、彼は王彌へ言った。
「王渾と李熹は我が同郷。だから事ごとに吾のことを賞賛し、推薦してくれる。しかし、これは吾の足枷にしかならぬのだ。」
 これを聞いた斉王の司馬悠が武帝へ言った。
「劉淵を殺さなければ、へい州は我が領土ではなくなりますぞ。」
 すると、王渾が言った。
「大晋は、信義を旨としております。悪事を働いても居ない者を死刑になさるのですか?何と徳の狭いことでしょうか!」
 武帝は言った。
「王渾の言う通りだ。」
 やがて劉豹が卒すると、劉淵を左部帥とした。

 

劉淵の自立

 太康十年(289年)、十一月。詔によって、劉淵は匈奴北部都尉となった。
 劉淵は、金に執着せず気前よく施し、人には誠実に接したので、五部の豪傑や幽州・き州の名儒達が続々と彼の許へ集まって来た。
 恵帝の永煕元年(290年)、十月。劉淵は、建威将軍・匈奴五部大都督となった。
 後、太弟の司馬穎は左賢王劉淵を冠軍将軍・監五部軍事とし、兵を率いて業へ移住させるよう上表した。劉淵の子息の劉聡は驍勇無双。経史に博通し、文章も巧かったので、名士達は、競って彼と交友を結んだ。司馬穎は、劉聡を積弩将軍とした。

 劉淵の従祖の右賢王劉宣は、一族の者に言った。
「漢が滅亡して以来、我が単于には、虚号のみ有って尺土の領土もない。自余の王候も庶民と同じだ。しかし、衰退したとは言っても、我々にはま猶二万の民が居る。何でおめおめと他人にこき使われようぞ!左賢王の英武は世に優れて居る。このような人が生まれたのは、我が匈奴へ独立せよとゆう、天の意志である。今、司馬氏は骨肉相争い、(八王の乱。中国史上最大の相続争いである。)四海は沸き返っている。呼韓邪の覇業を再現するのは、まさに今しかない!」
 そして、皆と共謀して、劉淵を大単于に推戴し、呼延悠を業へ派遣して劉淵へ告げた。
 これを聞いた劉淵は、葬式の為にへい州へ帰りたいと願い出たが、司馬穎は許可しなかった。そこで劉淵は、まず呼延悠を帰らせ、五部及び雑胡を招集させた。上辺は「司馬穎の援護の為」と吹聴していたが、実は独立を目論んでいた。
 永興元年(304年)。王浚と司馬騰が起兵した。
 劉淵は司馬穎に言った。
「今、二鎮(幽州とへい州)が跋扈し、その賊徒は十万を数えます。これでは宿衛や近郡の兵卒達では鎮圧できますまい。ですから、私は殿下の為にへい州へ帰り、五部を説得してこの国難に赴かせようと思います。」
 すると、司馬穎は言った。
「五部の匈奴達が、言うことを聞くかな?仮に匈奴が団結したとしても、鮮卑や烏桓を動かすのは容易ではあるまい。吾は、一旦遷都して戦陣を避けようと思う。そして天下に檄を下し、順逆の理で奴等を制圧するつもりだ。君はどう思う?」
「殿下は武帝の子息ですし、王室の大殊勲者。その恩義に感じる者は四海に溢れ返っております。彼等は殿下の為ならば、命を捨てて戦いましょう。匈奴は勿論、鮮卑や烏桓でさえも、動かすのは簡単でございます!王浚は豎子、司馬騰は傍流。殿下と天下を争うには小さすぎますぞ!
 それよりも、殿下が遷都なさるなど、天下に弱みを見せるようなもの。そうなれば洛陽にさえ行き着けますまい。仮に洛陽へ行けたとしても、一度揺らいだ威信は二度と元へは戻りません。
 どうか、殿下は兵卒達を慰撫して下さい。そうすれば、この劉淵めが、二部の兵卒で司馬騰を挫き、残る三部で王浚を梟首とし、指を数える間に、豎子の首を二つお届けいたします。」
 司馬穎は悦び、劉淵を北単于、参丞相軍事に任命して派兵させた。
 劉淵が左国城へ到着すると、劉宣は彼を大単于に推戴した。すると、僅か二旬の間に五万の兵卒が集まった。そこで、彼等は離石を都と定め、劉聡を鹿蠡王とした。そして、左於陸王の劉宏に五千の兵を与え、司馬穎麾下の将王粹と合流して司馬騰の軍を防ぐよう命じた。だが、王粹は既に司馬騰に敗北しており、間に合わなかった劉宏は引き返した。
 王浚は勝ちに乗じて進撃し、司馬穎は遂に業を棄てて逃げた。これを鮮卑と烏桓が追撃したが、とうとう逃がしてしまった。(詳細は「西晋の乱」に記載する。)
 劉淵は、司馬穎が逃げたことを知り、嘆息した。
「吾が進言を用いずに自ら潰れるとは。とんまな奴だ!しかし、前にああ言った以上、放ってもおけん。」
 そこで、派兵して鮮卑と烏桓を討伐させようとしたが、劉宣等が諫めた。
「晋は、長い間我々を奴隷扱いしておりました。今、骨肉相争っているのは、天が彼を見捨て、我等に呼韓邪単于の覇業を復興させようとの思し召しです。鮮卑も烏桓も我等の同類。助けこそすれ、討伐するなどとんでも無い。」
「宜しい!しかし、一つだけ間違っておるぞ。男と生まれたからは、劉邦や曹操にこそ並ぶべきだ。呼韓邪なんぞ、役不足よ!」
 劉宣等は頭を下げた。
「その壮大な気宇。我等の及ぶところではございません。」

 

「漢」建国

 十月、劉淵は左国城へ遷都した。すると、大勢の胡人や漢人が、逃げ込んで来た。そこで、劉淵は群臣へ言った。
「昔、漢は悠久の天下を保った。それは、漢が恩愛で民と接したからだ。吾家は漢皇室の甥。かつては義兄弟の契りさえ交わした間柄である。兄が亡んで弟が継ぐのは当然ではないか!」
 即ち、建国し、国号を「漢」とした。
 劉宣等は尊号を献上したが、劉淵は言った。
「まだ、天下を平定したわけではない。よって、高祖(劉邦)の故事に拠り、漢王と称する。」
 こうして、彼は王位に即いた。大赦を下し、元煕と改元する。安楽公劉禅を追尊して孝懐皇帝と為し、漢の三祖(高祖、世祖、昭烈)・五宗(太宗、世宗、中宗、顕宗、粛宗)の神主を作って祀った。妻の呼延氏を立てて王后とした。以下、主な人事は、丞相、劉宣。御史大夫、崔游。太尉、劉宏。大鴻臚、范隆。太常、朱紀。黄門郎は崔懿之、陳元達である。ただし、崔游は固辞して就任しなかった。
 陳元達は、幼い時から志が高く、節義があった。かつて劉淵は彼を麾下に招いたが、その時陳元達は応じなかった。今回、劉淵が王位に即いたので、ある者が彼に聞いた。
「お前、恐いんじゃないか?」
 すると、陳元達は答えた。
「吾は、昔から彼を知っているし、彼も又、吾が心を知っている。この数日の内に仕官するよう言ってくるだろう。」
 果たして、その日の暮れに、使者がやって来た。
 劉淵に仕えてから、陳元達は屡々忠言を進言し、或いは勅書の草稿を仕上げたが、その内容は劉淵の子弟が相手でも洩らさなかった。
 劉曜は、生まれつき眉が白く、目には赤い光があり、幼い頃から聡明で肝が据わっていた。早くに身寄りを無くしたので、劉淵が養子とした。
 成長すると、劉曜は容貌魁偉な丈夫となったが、大勢で群れることを好まず、読書を好んだ。その文才を言えば、文章を善く綴り、武才を問えば一寸程度の鉄なら弓で射抜いた。常に、自らを楽毅や蕭、曹に例えていた。皆はこれを嘲笑したが、劉聡だけは言った。
「永明(劉曜の字)は、漢の高祖や魏の武帝にも匹敵する男だ。あの三人など足下にも及ばんよ。」

 懐帝の永嘉二年(308年)、十月。劉淵は皇帝位に即いた。大赦を下し、永鳳と改元する。
 十一月、息子の劉和を大将軍、劉聡を車騎将軍、養子の劉曜を龍驤大将軍とした。

 同月、都督中外諸軍事、領丞相、右賢王の劉宣が卒した。

 十二月、劉淵は大将軍の劉和を大司馬とし、梁王に封じた。尚書令の歓楽を大司徒として陳留王に封じた。皇后の父で御史大夫の呼延翼を大司空とし、雁門郡公に封じた。そして、宗室はその親疎に関わらず悉く郡県王に封じ、異姓でも功績のあった者は郡県公候に封じた。

 

外征

 三年、正月。火星が紫微の領域へ入った。そこで、太史令の宣于修之が劉淵へ言った。
「三年以内に必ず洛陽を陥とせます。蒲子には平坦な土地が少なく、長居する場所ではありません。平陽は季候も良い土地ですから、ここに遷都いたしましょう。」
 劉淵はこれに従った。大赦を下し、河瑞と改元する。(この年、汾水で玉璽を得たのである。)

 三月、晋の左積弩将軍の朱誕が漢へ亡命してきた。彼は洛陽の脆弱さをつぶさに語り、劉淵に攻撃を勧めた。そこで劉淵は、朱誕を前鋒都督、滅晋将軍の劉景を大都督とし、黎陽を攻撃させた。
 漢軍は黎陽を撃破。更に進撃して、延津にて王堪を撃破した。この時、劉景は三万余の男女を河へ投げ込んで殺した。
 これを聞いて、劉淵は激怒した。
「劉景は、どの面下げて俺に会うつもりか!こんな無法は天が許さん!吾は司馬氏だけを滅ぼしたいのだ。細民に何の罪がある!」
 劉景は平虜将軍に降格された。
 更に、劉淵は王彌を侍中、都督青・徐・兌(「兌/亠」)・豫・荊・揚六州諸軍事・征夷大将軍に任命し、楚王の劉聡と共に壺関を攻撃させた。前鋒都督は石勒。
 劉昆(「王/昆」)は救援軍を派遣したが、劉聡と石勒に撃破され、皆殺しとなった。
 晋の太傅司馬越は、淮南内史の王曠と将軍の施融、曹超を派遣して劉聡軍を防がせた。王曠が河を渡り、長躯前進しようとしたので、施融が言った。
「敵は険阻な地形を通ってきます。我等に数万の兵があっても、これでは一軍で敵と戦うことになってしまいます。それに、せっかく河があるのですから、これを防御戦として活用しましょう。」
 すると、王曠は激怒した。
「我が兵の志気を乱すつもりか!」
 退出した後、施融は言った。
「敵は戦上手で、王曠は猪武者。ここが我等の死に場所か!」
 王曠は長平で劉聡と戦って敗北し、施融、曹超は戦死した。

 五月、劉淵は息子の劉裕を斉王に、劉隆を魯王に封じた。

 八月、劉淵は、洛陽へ進攻するよう劉聡へ命じた。晋は平北将軍の曹武に迎撃させたが、撃破された。劉聡は長躯宣陽まで攻め込んだが、勝ちに傲って警備を怠っるようになった。九月、弘農太守の垣延が降伏と偽って夜襲を掛けた。劉聡は大敗して退却した。
 又、幽州諸軍事王浚が、祈弘と鮮卑の段務物塵に石勒を迎撃させた。彼等は飛龍山にて石勒と戦い、これを大いに破った。石勒は黎陽まで退却した。

 十月、劉淵は再び討伐軍を起こした。派遣した将軍は劉聡、王彌、劉曜、劉景。彼等は精騎五万を率いて洛陽に向かい、呼延翼が歩兵を率いて後詰めとなった。
 晋朝廷では、敗退した漢軍がこれほど早く再来するとは思わなかったので、大いに懼れた。漢軍はさしたる抵抗も受けずに洛陽城下まで進撃した。
 劉聡は、西明門(洛陽城の西面の、南から二番目の門。)の前に屯営した。するとその夜、北宮純が勇士千余人を率いて夜襲を掛け、漢の征虜将軍呼延顕を斬った。
 更に、呼延翼が部下から殺され、彼の軍は総崩れとなって退却した。
 そこで劉淵は勅書を出して退却を命じた。しかし、劉聡は晋軍の脆弱さを言い立て、呼延顕・呼延翼の戦死程度で退却するべきではないと、洛陽攻撃続行を固く請うた。劉聡はこれを許諾した。
 しかし、戦況は不利。遂に劉淵は退却させた。(詳細は「西晋の乱」に記載)

 十二月、劉淵は、劉歓楽を太傅に、劉聡を大司徒に、江都王延年を大司空に任命した。 曲陽王の劉賢と征北大将軍の劉霊、安北将軍の趙固、平北将軍の王桑を内黄へ派遣して屯営させた。王彌は、曹嶷を安東将軍として家族共々青州へ差し向けるよう上表し、裁可された。

 四年、正月。劉淵は単徴の娘を立てて皇后とし、梁王劉和を皇太子に立てた。大赦を下す。又、劉乂を北海王と為し、長楽王の劉洋を大司馬とした。

 同月、漢の鎮東大将軍の石勒は、河を渡って白馬を抜いた。王彌率いる三万の大軍が合流し、徐・豫・兌州を荒らし回った。二月、石勒は兌州刺史の袁浮と王堪を殺し、倉垣を抜いた。これらの軍事行動によって、彼等の許に九万余の民衆が吸収された。

 七月、劉聡・劉曜・石勒・趙国が河内太守の裴整を懐で包囲した。晋は、救援軍を派遣したが、石勒と王桑がこれを迎撃し、将軍を殺した。すると、河内の住民は裴整を捕らえて降伏してきた。劉淵は、裴整を尚書左丞に抜擢した。
 河内督将の敦黙は、裴整の残党をかき集めて砦に籠もった。劉昆は、敦黙を河内太守に任命した。

 

劉淵の崩御

 同月、劉淵は重病で、床に伏せった。病床にあって劉淵は、歓楽を太宰、劉洋を太傅、延年を太保に任命した。劉聡については、大司馬・大単于並びに録尚書事に任命し、単于台を平陽の西に置かせた。
 その他の人事として、劉裕を大司徒、劉隆を尚書令、劉乂を撫軍将軍・領司隷校尉、劉曜を征討大都督・領単于左輔、橋智明を冠軍大将軍・領単于右輔、劉殷を左僕射、王育を右僕射、任凱を吏部尚書、朱紀を中書監、馬景を領左衛将軍、安国を領右衛将軍。安昌王劉盛、安邑王劉欽、西陽王劉瓊の三人を領武衛将軍とし、禁軍を分掌させた。
 劉盛は、若い頃読書が嫌いだったが、論語と孝経のみは熟読した。
「これを噛みしめて実践すれば十分だ。乱読するだけで実行に移さないより余程ましではないか。」
 彼を見て、李熹は感嘆した。
「一つ一つは容易いことだが、それを身につけて片時も無くさなければ、おかしがたい人格となる。まさしく、君子と言うべきだ!」(原文、「望之如可易、及至、粛如厳君。可謂君子矣!」これは儒教の精神とも言うべき言葉なので、特に原文を付した。)
 劉淵は劉盛の忠義が篤いことを恃み、臨終に及んでこの大任を任せたのだ。
 やがて、劉淵は太宰の歓楽を禁中へ召し出し、遺詔を授けて輔政を頼んだ。

 己卯の日、劉淵崩御。皇太子の劉和が即位した。

劉聡の決起

 劉和は猜疑心が強く、部下を慰撫しない人柄だった。
 さて、呼延悠は呼延翼の息子だが、劉淵は彼の無能さを知り、出世させなかった。又、侍中の劉乗はもともと劉聡や劉鋭と仲が悪かったが、遺命に預かれなかったことを僻んでいた。そこで、この二人が共謀して劉和へ言った。
「先帝は事の軽重も測らずに、畿内の総兵力を三王(劉裕、劉隆、劉乂)へ委ねました。そして大司馬は、都の近郊で十万の大軍を擁しています。今のままでは、陛下は彼等の兵力によって、単なる傀儡にされてしまいます。早めに事を謀るべきです。」
 劉和は、呼延悠の甥に当たる。彼は叔父の言葉を信じ込んでしまった。
 劉淵が死んだ二日後の夜、劉和は禁軍を預かる三王のうち、安昌王劉盛と安邑王劉欽を呼び出して計画を話した。すると劉盛は言った。
「先帝の遺体は、まだ埋葬もされていません。それに、四王には造反の心もないのです。(劉聡は、劉淵の四男。一説には、劉聡、劉裕、劉隆、劉乂を指すとも言われる。)彼等を殺したら、天下の人々は陛下のことを何と言うでしょうか!それに、大業には補弼が大切。どうか陛下、讒言に迷わないで下さい。兄弟でさえ信じられなかったら、他人をどうして信じられますか!」
 すると、呼延悠と劉鋭が怒鳴った。
「今回の命令に否はない。その言い草は何だ!」
 即座に近侍に命じ、劉盛を斬り殺させた。残った劉欽は懼れて言った。
「ただ、陛下の御ままに。」
 翌日、劉鋭は馬景軍を率いて単于台の劉聡を攻め、呼延悠は安国軍を率いて司徒府の劉裕を攻め、劉乗は劉欽軍を率いて劉隆を攻め、尚書の田密と武衛将軍劉瓊には劉乂を攻撃させた。
 田密と劉瓊は、劉乂を連れ出すと劉聡のもとへ駆けつけて降伏した。事情を知った劉聡は、軍備を整えて敵襲を待った。劉鋭は、敵に備えがあると察知して引き返し、呼延悠や劉乗の軍と合流して劉裕・劉隆を攻撃した。呼延悠と劉乗は、安国・劉欽が寝返ることを懼れ、彼等を殺した。
 この日、劉裕は斬られ、翌日、劉隆が斬られた
 その次の日、劉聡は西明門を破って都に突撃した。劉聡はたった二日で劉和を殺し、劉鋭、呼延悠、劉乗を捕らえ、梟首した。
 群臣は、劉聡に帝位へ即くよう請願した。だが劉聡は、北海王劉乂が単皇后の息子だったので、彼に位を譲ろうと考えた。しかし、劉乂が泣いて頼んだので、ようやく即位を承知し、言った。
「劉乂も群臣も、私を即位させようとしている。これは、国家に艱難が続いた為、年長の者を推戴したいのだろう。御国の為であるから、私は何で拒もうか。しかし、劉乂が成長したら、この位を返還する所存である。」
 かくして、劉聡は即位した。大赦を下し、光興と改元する。単氏は尊んで単皇太后とし、母の張氏を帝太后と称した。劉乂は皇太弟・領大単于・大司徒とした。妻の呼延氏を立てて皇后とする。彼女は、劉淵の皇后の従兄弟に当たる。息子達については、劉易を河間王、劉翼を彭城王、劉里を高平王とした。嫡男の劉粲については、河内王としただけではなく、撫軍大将軍・都督中外諸軍事に任命した。又、石勒をへい州刺史として、汲郡公に封じた。

 九月、漢王劉淵を永光陵へ葬った。諡は光文皇帝。廟号は高祖。

皇太弟劉乂

 劉聡は、序列を飛び越えて皇帝となった為、実兄の劉恭を忌み、彼が眠っている時に刺殺した。
 同月、漢の太后張氏が卒した。劉聡は実母の張氏を尊んで、皇太后とした。

 さて、皇太后の単氏はまだ若く、美しかったので、劉聡は彼女をものにした。匈奴では、父親の妻妾は、実母以外、全て後継者の女となる。しかし、この風習は中国では野蛮視されていた。単氏の子息である劉乂は、この事で屡々母親を諫めていた。単氏はこれを気に病んで死んだ(自殺した?)。
 これ以来、劉聡の劉乂への寵が衰えていった。しかし、まだ単氏を追慕して、皇太弟の位はそのままにしていた。すると、呼延后が言った。
「父が死んだら子供が継ぐ。それが古今の常道です。陛下が高祖の国を継承したのに、どうして皇太弟などがいるのですか!陛下が死んで百年も経てば、きっと劉粲達の末裔は皆殺しとなってしまいますわよ。」
「ああ、私も考えているところだ。ゆっくり答えを出させてくれ。」
 だが、呼延后は続けた。
「放置しておくと、大事になりますわ。劉粲達兄弟が成長して行くのを見て、太弟はどう思うでしょう?きっと、自分の将来が不安になり、よからぬ心を起こすに決まっています。万が一、彼が小人とつきあっているならば、私達との溝は更に大きくなっています。その事変が、今日起こるかもしれませんのよ。」
 劉聡の心に頷くものがあった。
 劉乂の舅は光禄大夫単沖。単沖は泣いて劉乂に言った。
「縁遠い者は、親しい者に勝てません。陛下の心が河内王劉粲にあるのは知れたことではありませんか。殿下はどうして皇太弟を辞退なさらないのですか!」
 すると、劉乂は言った。
「陛下は嫡庶の分をわきまえて、私へ位を譲った。そして私は幼長に従い、陛下と相譲り合ったのだ。そもそも、この国は高祖が創った物。兄が死んで弟が立つのは当然ではないか!その証拠に見てみろ、劉粲兄弟は既に成長しているのに、私は皇太弟になれたではないか。そもそも、弟と子供なら、どちらも親しい。親疎にどれ程違いがあると言うのか?陛下には、そんな思いはありはしないぞ!」

 

北方平定

 五年、四月。漢の呼延晏・王彌・劉曜・石勒は、遂に洛陽を陥した。この時、王彌は洛陽遷都を考えたが、劉曜は反論し、独断で洛陽を焼き払った。以来、王彌と劉曜との間に溝ができた。(詳細は「西晋の乱」に記載。)

 九月、長安の司馬模を攻撃し、捕らえた。劉聡は、劉曜を車騎大将軍、よう州牧として中山王に封じ、長安の鎮守を命じた。又、王彌を大将軍として、斉公に封じた。(詳細は「前趙、秦隴を平定す」に記載。)
 この時、劉曜は捕らえた司馬保を劉粲へ委ねたが、劉粲はこれを独断で殺してしまった。劉聡は、これを知って激怒したが、劉粲は言った。
「私が司馬保を殺したのは、彼が天命を知るが遅すぎたからです。彼は晋の一族なのに、洛陽が攻撃された時、これを看過しました。彼はこの時に死節を尽くさなければならなかったのではありませんか?
 天下の悪は一つです。私は、彼の悪行を誅したのです。」
「それは一理ある。しかし、誅を下した報いがお前に降りかかるのが心配なのだ。天道は玄妙にして公正なもの。残虐に過ぎると、必ず我が身に降りかかるぞ。」

 同月、石勒は蒙城を襲い、晋の豫章王司馬端と苟晞を捕らえた。石勒は、苟晞を左司馬とした。この功績により、劉聡は石勒を幽州牧に任命した。

石勒の驕慢

 さて、王彌と石勒は、上辺は親しんでいたが、その実、互いに忌みあっていた。
 話は遡るが、ある時、劉暾が王彌に言った。
「曹嶷の軍を召集し、石勒を包囲させましょう。」
 そこで王彌は書状を書き、劉暾を使者として曹嶷のもとへ派遣した。
 だが、劉暾は東阿まで来たとき、石勒の警備隊に捕まってしまった。石勒は密かに劉暾を殺したが、この事を王彌には黙っていた。
 そのうちに、王彌の部隊から徐貌、高梁の二将軍が離反した。これによって王彌の兵力は弱まってしまった。
 今回、石勒が苟晞を捕らえたので、王彌は内心ムカッ腹を立てた。そこで、彼は石勒へ書を書いて祝賀した。
「公は苟晞を捕らえたのみならず、活用しておいでだ。なんとゆう神算!苟晞が公の左司馬となったのなら、私は公の右司馬とならせていただきましょうか。そうすれば、天下は必ず平定できますぞ。」
 これを読んだ石勒は、幕僚の張賓へ言った。
「王公は高位にありながら、いやに腰が低いじゃないか。これは俺を油断させて襲撃するつもりだな。」
 張賓は、王彌の勢力が弱まった今の内に、誘い出して殺すべきだと進言した。
 この頃、石勒は蓬関の陳午を攻めており、王彌は劉端と対峙していた。王彌は旗色が悪くなり、遂に石勒へ救援を求めた。石勒は許さなかったが、張賓が言った。
「公は常に王彌を恐れて居られたではありませんか。今こそ天の下された好機です。陳午など小物。いつでも倒せますし、恐れるに足りません。しかし、王公は人傑です。早めに除かなければ、後々厄介ですぞ。」
 そこで、石勒は兵を退いて劉端を攻撃し、これを斬った。王彌は大いに喜び、石勒を信頼してしまった。
 十月、石勒は王彌を宴会に招待した。王彌の長史の張崇は諫めたが王彌はきかず、石勒の許へ出かけて行った。石勒は自ら王彌を斬り殺すと、その部下を全て吸収して、劉聡へ報告した。
「王彌は造反を企てておりましたので、討ち取りました。」
 劉聡は激怒し、使者を派遣して石勒を詰った。
「独断で我が補弼を殺した。朕をないがしろにするのだな!」
 しかしながら、その兵力は敵に回せないので、石勒を鎮東大将軍、監へい・幽二州諸軍事、領へい州刺史に任命し、その心を慰撫した。
 なお、苟晞は後、造反を謀ったが発覚し、石勒に殺された。

 

皇后劉娥

 六年、正月。呼延后が卒した。諡は武元。
 同月。劉聡は王育、任凱、朱紀、馬景等国家の重鎮達の娘六人を後宮に入れた。又、太保劉殷の娘まで後宮に入れようとしたので、劉乂がこれを固く諫めた。中国では、同姓の者との婚姻は認められないからである。
 この件について、劉聡は、太宰の延年と太傅の劉景に尋ねた。すると、彼等は答えた。
「太保は、劉康公の末裔と、自ら名乗っております。してみると、同じ劉氏でも陛下とは別系統。婚姻に差し支えございません。」
 劉聡は大いに悦び、劉殷の二人の娘、劉英と劉娥のみならず、劉殷の四人の孫娘まで後宮に入れた。この劉氏の六人の女性は、後宮での寵愛を独占してしまった。

 この頃、劉聡に、暴虐な振る舞いが増えた。或いは、「食膳に魚や蟹が無い」として係りの者を斬り、或いは「温明殿と徽光殿の落成が遅い」と言っては係りの者を斬った。この斬られた者達は、いずれも王公だった。

 六月、劉殷が死んだ。
 彼は硬骨漢で、劉聡の意に背くことも憚らずに口にした。劉聡は、会議の時劉殷が是非を口にしないと、彼一人を残して意見を聞き、それには必ず従った。
 劉殷は、常に子孫を戒めていた。
「君に仕えた以上、諫めることが務めだ。ただ、凡人でさえ過失を指摘されることは嫌がる。ましてや相手は万乗の君である。諫める時に大切なのは、相手を非難するのではなく、過ちを犯しそうな時を見抜いて、萌芽のうちに慎ませることだ。」
 彼は剣履上殿、入朝不趨、乗輿入殿等の特権まで与えられていたが、人と接する時には謙譲を忘れなかった。だから栄華に包まれたまま、天寿を全うできたのである。

 愍帝の建興元年(313年)、三月。劉聡は、劉娥を皇后に立てた。そして、彼女の為に皇儀殿を建造すると言い出した。すると、廷尉の陳元達が切に諫めた。
「天が民を生み君を立てられましたのは、主君に万民を司らせるためであり、億兆の民を一人に奉仕させる為では決してございません。
 晋が徳を失い大漢がこれを継承した頃は、万民は戦乱に疲れ切っておりました。それ故光文皇帝は質素な着物を身に纏い、寝所にはふかふかの寝具など使わず、后妃は綾錦を纏わず、輿馬には粟を食わせませんでした。それら質素な暮らしも、全て民を愛すればこそでございます。
 ところが、陛下が即位されますや、この数年で既に四十余りの宮殿を建てておられます。しかも、戦争は各地で続いておりますし、飢饉、疫病が相継いでおるのです。その上、更に宮殿を建てられますのか。これで民の父母と言えましょうか!
 今、晋は滅んだとは言っても、その残党は西は漢中・南は江南に據り、李雄は巴・蜀を占有し、王浚・劉昆はじっと隙を窺い、石勒・曹嶷からの貢も次第に疎遠となってきております。陛下はこれを憂いもされずに、更に中宮に宮殿を建てられる。それがどうして今の急務でしょうか!
 昔、漢の太宗(文帝)は、世の中が平和で物資が溢れている時に皇帝となりましたが、それでもなお、百金を惜しんで露台(バルコニー)を作りませんでした。陛下は荒乱の余を受け継いだ上、所有する領土は太宗時代の漢の二郡に過ぎません。そして戦守の備えも、太宗の時のように匈奴と南越だけを相手とすれば事足りるわけではないのです。それなのに、宮室の奢侈がここまでに至りました。私は死を冒してでも諫めずにはいられません。」
「黙れ!」
 劉聡は激怒した。
「朕は天子だぞ。それがたった一つの宮殿を造るのに、何でお前如きドブ鼠の許可を得なければならんのだ!あまつさえ妄言を並べ立てて衆人の志気を萎えさせおるとは!この鼠めを殺さなけれは、朕の気が晴れぬわ!」
 そして、左右へ命じた。
「引き出して斬り殺せ。妻子共々曝し首だ!」
 すると、大司徒の任凱、光禄大夫の朱紀と范隆、驃騎大将軍の河間王劉易等が叩頭出血(土下座して、出血するまで額を地面に擦り付けること)して言った。
「陳元達は先帝より仕えた重臣です。しかも忠を尽くし慮を凝らし、知ったことは必ず口にしておりました。それに引き替え臣達は、自らの禄を惜しんで意に逆らうことには口を閉ざしておりました故、今までそれを見て心に恥じないことがありませんでした。今、彼の言うことが狂直に過ぎましたとしても、何とぞ陛下、これをご容認下さいませ。それに、諫争によって列卿を斬ったとなれば、陛下は後世どう言われますでしょうか!」
 劉聡は黙り込んでしまった。
 すると劉娥皇后は、刑の執行を止めるよう、近習達へ密かに命令し、自ら書状を書いて劉聡の許へ届けさせた。
 その文に曰く、
「今、後宮の宮殿は、既に十分すぎるほど整ってございます。四海は未だ平定されておりませんので、何とぞ陛下、民力を慈しまれて下さいませ。そして、廷尉の言葉は社稷の幸いでございます。陛下に有らせられましては、宜しく賞されてしかるべきではございませんか?にもかかわらず、却ってこれを誅殺すると仰せられて居られます。これでは四海の民は陛下の何と言いましょうか!そもそも、忠臣が諫言を進める時には、わが身を顧みないもの。そして、これを拒む人君も、わが身を顧みないのです。
 陛下が、妾の為に宮殿を築かれ、しかも忠臣まで殺される。今後、忠臣が口を閉ざして何も言わなくなるとしたら、それは妾のせいです。遠近の人々の怨念も妾に拠ります。公私の困弊も妾に拠ります。そして、社稷を滅亡の危機へ追いやるのも妾なのです。嗚呼、天下の罪が全て妾に由来しますのに、妾はどこに立つ瀬がございましょうか!
 古の国が滅んだ原因を見ますに、その殆どが婦人に由来するものでございます。妾はいつもこれを心に疾んでおりました。それが今、この妾自らが同じ事をしてしまうのです!妾がいつも古の人々を見ておりましたその同じ目で、妾は後世の人々から見られてしまいます!妾は何の面目あってあの世に行けましょうか!
 願わくは陛下、どうか妾に死を賜ってくださいませ!そしてそれを以て陛下の行き過ぎを塞がれますよう!」
 劉聡は愕然として顔色を変えた。任凱達は叩頭流涕してやまない。
 ややあって、劉聡は徐かに言った。
「朕は、このごろ風疾を病んで、喜怒が度を過ぎると自制が利かなくなってしまったのだ。諸公はよくぞ諫めてくれた。まこと、補弼の臣と言うべきである。朕は我が心に恥ずかしい。どうしてこれを忘れようか!」
 そして、陳元達を引き上げると、劉娥の手記を手渡した。
「外では公のような者が補弼し、内では后が輔ける。朕には又、何の憂いがあろうか!」

 

劉娥の死

 二年、正月。流星が、牽牛から出て紫微へ入った。その光は地まで届き、平陽の北へ落ちた。地面に激突した流星は肉となり、その大きさは、長さ三十歩、広さ二十七歩もあった。劉聡はこれが気になって群臣に問うたところ、陳元達が言った。
「女寵が盛んなのは亡国の兆しでございます。」
 すると劉聡は言った。
「流星は陰陽の理だ。人事に何の関わりがあるか!」
 だが、これから数日して、劉娥皇后が卒した。諡は武宣。これ以後劉聡の女漁りは益々激しくなり、後宮から秩序が無くなった。

 

改組

 同月、劉聡は丞相等七公を置いた。又、輔漢大将軍始め十六の大将軍を置き、各々二千の兵卒を配備。全て諸子を任命した。その他、新設の官職は次の通り。
 左右の司隷を置き、各々に二十万戸の領民を配置。そして、その一万戸毎に内史を一人配備した。単于左右輔を置き、各々に夷狄十万落を配備。その一万落毎に都尉を一人配備した。左右選曹尚書を置き、選挙を掌握させた。以上、司隷以下の六官について、その位は僕射に準じる。
 なお、七公について詳述すると、以下の通り。
 嫡男の劉粲を丞相・領大将軍・録尚書事とし、晋王に進封した。江都王延年を録尚書六條事、汝陰王劉景を太師、王育を太傅、任凱を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、劉曜を大司馬。

 十一月、劉聡は、晋王劉粲を相国・大単于・総百揆に任じた。劉粲は幼い時から俊才の誉れ高かったが、宰相となってからは傲慢さが目立ち、贅を尽くすようになった。独善で、賢者を遠ざけ奸佞に親しみ、酷薄で諫言を塞ぐ。民衆は、次第に彼を憎み始めた。

 

劉乂の災厄

 三年、三月。漢の東宮(皇太子・・・この時は皇太弟だが・・・の住居)の延明殿に血の雨が降った。皇太弟劉乂はこれが気に掛かり、東宮太傅の崔緯と東宮太保の許遐へ尋ねた。彼等は答えた。
「かつて、主上が殿下を皇太弟となさったのは、一族の協力を得るための方便に過ぎません。その本心は、晋王にありました。今では、王公以下、全てが主上に追従しております。その上、晋王を相国として、その威儀を整えました。相国府の壮大なことは、この東宮以上でございます。そして、万事が相国府を経由して主上へ伝えられています。又、主上の子息達も全て独自の軍事力を持ち、相国の羽翼となっております。大勢は、既に去ったのです。殿下はただ即位できないだけではありません。不測の危害さえ、朝夕つきまとっているのです。早くご決断なさいませ。
 今、四衛の精兵は五千を下りません。相国は軽はずみに行動なさいますから、刺客一人で事足りましょう。大将軍の劉敷は連日の外出。その営を襲撃して占領できます。自余の諸王はまだ幼く、制圧するなど簡単なこと。いやしくも、殿下がその気になりさえすれば、二万の精兵を率いて堂々と雲龍門から進撃できます。そうすれば、宿衛の兵士達も鉾を返して殿下を迎え入れるでしょう!そうなれば、大司馬劉曜の動向など、慮ることはありません。」
 だが、劉乂は従わなかった。
 すると、東宮の下男の荀裕が、この件を密告した。
 劉聡は崔緯と許遐を逮捕し、別件に仮託して処刑した。更に、冠威将軍のト抽に東宮を占拠させ、劉乂の朝廷への出入りを禁じた。劉乂は懼れおののき、為す術を知らない。遂に、庶民となることを願い出た。子供達の領土も全て返上して晋王へ献上すると言ったが、ト抽はこれら全てを握りつぶしてしまった。

 

劉乂の粛清

 この頃、劉聡は中常侍の王沈、宣懐、中宮僕射郭猗等を寵用していた。
 劉聡が後宮で宴会を開くと、或いは三日間酔いっ放し、或いは百日間も籠もり放しとゆう有様。政治については、この年の冬から全く顧みず、全てを劉粲に委ねていた。ただ、死刑の執行と、役人の叙任だけは、王沈を通して連絡させていた。しかし、王沈は殆ど奏上しないで、独断で決定した。
 そうゆう訳で、勲功のある者も叙任されず、奸佞の小人が連日二千石(地方長官)に叙任された。戦争は連日続いているのに、兵卒達には銭帛の褒賞がない。にもかかわらず、後宮では僮僕に数千万の賜下されたのである。
 王沈等の車や服や屋敷は、諸王を凌いだ。彼等の子弟で太守や県令となった者は三十余人。皆、貪欲残忍で民の生活を傷つけた。革(「革/斤」)準の一族は、彼等に媚びへつらった。
 さて、郭猗と革準は、共に劉乂に怨みを持っていた。
 四年、正月。郭猗は劉粲に言った。
「殿下は光文帝の孫で、陛下の嫡子でございます。四海の民は、全て殿下に心服しておりますのに、なんで皇太弟なんぞへ国を譲るのですか!
 それに、私達は噂を聞いておりますぞ。皇太弟と大将軍が、この三月に大宴会を開き、それにかこつけて造反する、と。事が成就すれば、陛下を太上皇に祭り上げ、大将軍を皇太子とし、許衛将軍を大単于とする手筈とか。
 三王が疑惑も持たれないままにその兵力で挙兵すれば、どうして失敗しましょうか。しかも、二王は一時の利益を貪って父兄を顧みないようなお人柄。これでは陛下の命さえ保証できません!今、切羽詰まっております。どうかご決断を!
 臣は屡々主上へ進言したのですが、主上は友愛に篤いお方ですし、私は宦官。遂に信用していただけませんでした。どうか殿下、この件についてはご内密に。
 もしも私の言葉が信じられませんでしたら、大将軍従事中郎の王皮と衛軍司馬の劉惇を呼び、過去を問わないとゆう条件で問いただされて下さい。必ず判明いたします。」
 劉粲は許諾した。そこで郭猗は密かにこの二人を呼びだして言った。
「二王の造反計画は、主上も相国もつぶさにご存知だ。卿達は知らぬのか?」
 二人は仰天した。
「滅相もない!初耳です!」
「そうか。しかし、既に判決は降りているのだ。ただ、何も知らない卿達の一族郎党までが皆殺しとされることを思うと哀れでならぬ。」
 郭猗が涙を零したので、二人は震え上がり、土下座して助けを求めた。
「そうか。では、卿達に策を授けてやろう。相国が卿等に下問したら、ただ、『その通りです』とだけ答えるのだ。そして、告発が遅かったことを責められたら、こう答えろ。『臣達は、誠に死罪が当然でございます。しかしながら、主上は寛大仁恕なお人柄で、殿下も臣下に睦まじく接して居られます。もしも告発して信用されませんでしたら、きっと私達は重臣を讒言すると誣告され、誅殺されてしまったでしょう。それを思うと告発できなかったのでございます。』とな。」
 二人とも許諾した。
 やがて、劉粲は彼等を召し出した。そして別々に詰問したにもかかわらず、両名の返答は同じだった。こうして、劉粲は信じ込んでしまった。
 革準は再び劉粲へ言った。
「殿下は東宮へ住まわれるべきでございます。そして、世継ぎとして次の世代の人材を早く確保するのです。大将軍と衛将軍が皇太弟を擁立して造反を起こすとゆうことは、今、道行く人でさえも知っています。もしも皇太弟が天下を取ったら、殿下には身を入れる場所さえなくなってしまいますぞ。」
「どうすれば良いのだ?」
「『皇太弟が造反する、』と誰が告げても、陛下はきっとお信じになられないでしょう。私に一つ策がございます。暫く、東宮の軟禁を緩くして、賓客の往来を許可するのです。皇太弟は雅やかな性格で人付き合いが好きですから、きっと喜びます。そうすると、軽薄な小人は必ず皇太弟に迎合して造反を持ち込みましょう。その後に役人を遣わしてその罪状を暴露するのです。殿下がその賓客達を収容して問いただし、疑獄が成立したら、主上と雖も信じないわけには行きますまい。」
 そこで劉粲は、東宮の兵卒を撤回するようト抽に命じた。

 ここに、少府の陳休と左衛将軍のト崇は、為人潔白で、もともと王沈等を憎んでいた。だから、公的な場所に出た時でさえ王沈とは話さえもしない。王沈は彼等を深く憎んでいた。
 ある時、侍中のト幹が陳休とト崇に言った。
「王沈達の権勢は、天下をひっくり返すことさえできる。卿輩は自らを顧みて、陳蕃(後漢時代の清廉な官吏。宦官に屈せず、死刑になった。)よりも賢いつもりなのか?」
 すると、二人は答えた。
「我等は既に五十を越えた。しかも位は高い。あとは死を待つばかり。忠義の為に命を落とすのなら、それこそ『死に場所を得た』と言うものだ。何であのような輩に頭を下げられようか!去れ、そして二度とそのようなことを口にするな!」
 二月、劉聡は上秋閤へ出臨し、陳休・ト崇及び特進の基母達、太中大夫の公師或、尚書の王淡、田音、大司農の朱諧を引き出して誅殺するよう命じた。彼等は皆、宦官と反りの合わない連中である。
 ト幹は泣いて劉聡を諫めた。
「陛下は今まで賢人を求めて側近となさっていました。今、一度に七人もの卿大夫を殺戮なされます。しかも彼等は国の忠臣なのです。このようなことが、なんで許されましょうか!もしも彼等が有罪だとしても、陛下は、裁判して罪状を確定するとゆう正式な手続きもなしに処罰なさるのです。天下の人々がどうして合点行きましょうか!それに、詔は臣の職務ですが、今回は何の相談にも預かっておりません。どうか陛下、よくよくお考え直し下さい。」
 ト幹は叩頭流血したが、王沈がト幹を怒鳴りつけた。
「ト侍中は詔を拒むのか!」
 劉聡は衣を払って後宮へ入り、ト幹を罷免して庶民とした。
 太宰の河間王劉易、大将軍の渤海王劉敷、御史大夫の陳元達、金紫光禄大夫の西河王劉延等が揃って闕を詣で、上表して諫めた。
「王沈等は詔を曲解し、日月(校庭を指す)を欺き、内は陛下に媚びへつらい、外は相国に佞し、人主の権威を借りて党類を集め、海内に害毒を流しております。陳休達は忠臣。御国の為に誠意を尽くしておりますので、王沈達は彼等から奸佞の実体を暴かれることを懼れ、巧みに誣告したのです。陛下がこれを察されず、速やかに極刑を加えられますと、天地も嘆き、賢人も愚者も悲しみと懼れに胸を破ってしまいます。
 今、晋の残党は未だに亡んでおりませんし、巴・蜀は独立の構えを示しております。のみならず、石勒は趙・魏に基盤を固め、曹巍は全斉の王になろうとゆう有様。陛下が天下を支配するには、何と患いの多いことか!その上王沈等が乱を助け、忠臣を殲滅する。遂には膏盲の疾に至ってしまうことを、臣等は恐れるのです。
 今のままでは手の施しようもなくなってしまいます。どうか王沈等を罷免し、官吏へ引き渡してその罪状を糾明して下さい。」
 劉聡は、その上表文を王沈へ渡すと、笑って言った。
「小僧共が、陳元達に引きずられ、遂にこのような真似をしおった。」
 王沈等は頭を下げ、涙を零して言った。
「臣等は何の才能もない小人。それが陛下から過度の御寵恩を蒙って抜擢され、朝廷の掃除まがいのことをさせて戴いております。しかし、ただそれだけに過ぎませぬのに、王公や朝士は臣等をまるで仇敵のように見ております。それで済めば宜しいのですが、彼等はあろうことか陛下まで深く恨むようになりました。これは全て臣等の不徳。どうか臣等を処罰してください。そうすれば、朝廷の君臣は、自然と和合いたしましょう。」
「馬鹿なことを言うな!お前達に罪はない!」
 そして、劉聡は王沈等について、劉粲の意見を聞いた。すると劉粲は、彼等が忠実で清廉であると盛称した。劉聡は悦び、王沈等を列候に取り立てた。
 太宰の劉易は、闕へ詣でると、書状を渡すと言葉を極めて諫めたが、劉聡は大怒して、その書状を引き裂いた。
 三月、劉易は憤怒が高じて卒してしまった。
 劉易はもともと忠義実直な人間で、陳元達は、諫争する時いつも助けられていたので、劉易が卒すると、陳元達は慟哭した。
「人が居なくなると、国は滅びる。吾はもう、何も言えない。これ以上黙々と生を盗んでどうなるだろうか!」
 陳元達は、自宅に帰ると自殺した。

 元帝の建武元年(317年)、三月。劉粲の命令で、彼の党類の王平が劉乂に言った。
「たまたま受け取った詔に書いてあったのですが、都で造反が起こるようです。武装して非常事態に備えて下さい。」
 劉乂はこれを信じ、宦官達に武装するよう命じた。劉粲は、これを革準と王沈へ伝え、革準は劉聡へ言った。
「皇太弟が造反します。既に武装しているのです!」
 劉聡は大いに驚いた。
「そんな事があるはずがない!」
 しかし、王沈始め皆が言った。
「我々は早くから聞いておりましたし、陛下にもお伝えしておりました。ただ、陛下が信じられなかっただけです。」
 劉聡は、東宮を包囲するよう劉粲へ命じた。
 劉粲は革準、王沈等にてい・きょうの酋長達十余人を逮捕させ、厳しい拷問を加えた。苦しんだ酋長達は、遂に劉乂と共に造反する手筈だったとでっち上げた。
 劉聡は王沈達へ言った。
「今日こそ卿等の忠節を知った。これからは、知ったことは全部伝えてくれ。今まで信じなかったことを根に持ってくれるな。」
 ここにおいて、東宮の官族や劉乂と日頃親しかった者、ついでに革準・王沈と反りの合わなかった者共が処刑された。大臣達でも数十人、兵卒に至っては一万五千人が生き埋めとされた。

 四月、劉乂を廃して北部王とした。やがて、劉粲の命令で革準が刺客を放って劉乂を殺した。劉乂は押し出しが立派で寛大な人柄。だから、多くの兵卒から慕われていた。
 劉乂の死を聞いて、劉聡は慟哭した。
「吾が兄弟は、今では彼奴一人しか居なかった。その、立った一人の弟と殺し合う。どうやれば、吾が心を天下に知らしめることができるのだ!」
 この事件で、てい族やきょう族が次々と造反した。劉聡は革準を車騎大将軍に任命して討伐させた。

 

寵臣の専横

 七月、劉聡は、劉粲を皇太子、領相国、大単于とし、従来通り政治を総轄させた。大赦を下す。

 王沈の養女は絶世の美女だった。大興元年(318年)、四月。劉聡は彼女を左皇后とした。すると、尚書令の王鑑、中書監の崔懿之、中書令の曹恂が諫めた。
「王は天の徳を持ち、后は地の徳を持つと聞きます。命ある時は宗廟を守り、死んでは墳墓に祀られる。ですから、世に優れた徳を持つ人間を選んで衆望に叶ってこそ、神祗の心が賞賛されるのです。漢の孝成帝は趙飛燕を皇后としたばかりに継嗣を途絶えさせ、社稷は廃墟となってしまいました。これこそ前代の鑑であります。
 翻って鑑みるに、我が朝では麟嘉以来、中宮の位は徳を以て選ばれておりません。特に今回は、彼女が仮に王沈の妹だとしても、汚らわしい宦官の一族など、どうして皇后にできましょうか。況や彼女は、その下女に過ぎないのです!六宮の妃嬪は全て公子公孫。その中に婢を混ぜられるのですか!これが国家に禍を招くことを、臣等は恐れるのです。」
 劉聡は激怒し、皇太子の劉粲へ伝言した。
「あの王鑑等はつまらん男で、朕へ向かって言いたい放題侮慢しおった。君臣上下の礼を乱す輩。そうそうに処分せよ!」
 そこで、劉粲は彼等を逮捕し、市場で斬罪とした。これを聞いた金紫光禄大夫の王延が諫めようとして駆けつけたが、門番が通さなかった。
 王鑑等が処刑される寸前、王沈は杖で彼等を叩いて言った。
「この能なし。まだ何か言うことがあるのか。」
 王鑑は眼を怒らせて怒鳴りつけた。
「豎子!大漢を滅ぼすのはお前のようなドブ鼠と革準だ!わしはあの世に行ってお前のことを先帝へ訴え、地獄へ引きずり込んで罰してやる。」
 すると、革準が言った。
「我等はただ、陛下の詔に従ったまで。何も悪いことはしていない。それでも私が国を滅ぼすというのかな?」
「お前は皇太弟を殺し、主上に不友の汚名を着せた。国家がお前のような人間を仕官させているのなら、滅ばないはずがない!」
 傍らから崔懿之も革準を詰った。
「お前の心は梟(自分の母親を食べると言われている)同然だ。必ずこの国に禍を招く。お前は既に人を食ったのだ。いずれ人から喰われてしまうぞ!」
 劉聡は、宣懐の養女も中皇后とした。

 

(訳者曰)

 劉娥のエピソードは、私が特に好きな話なのだが、「通鑑記事本末」では割愛されていた。その他、この伝では割愛されたエピソードが余りにも多い。無辜の民を惨殺した劉景を、劉淵が降格した話などは、その性格を知る上でも重要な話の筈だし、例え他の伝に記載されたとしても、この伝に重複させて良いはずだ。
 総じて、五胡の国で儒教精神が発揮された話は削除されることが多い。編者の袁枢が異民族に偏見を持っているのだろうか?今、「資治通鑑」に従って挿入した。
(なんせ南宋の人間だからなあ。怨みを持つのも無理ないか。しかし、歴史家が感情持ってたら困るんだよね。記事本末の編集精神がこれだったら、「資治通鑑」から多量に補足しなきゃいかんなあ。)